EP 17
迫る決戦と、夕飯のための絶対不戦誓約
ポポロ・コーポの食堂。
そこには、大陸の歴史書編纂者が目撃すれば発狂して失神するような、奇怪極まりない光景が広がっていた。
「……ルーベンス殿。そちらのヒダ、少し間隔が不揃いではありませんか? 餡が横から飛び出しそうですよ」
「ヴァルキュリア殿、口を挟まないでいただきたい。これはアバロン魔皇国伝統の多層圧縮包みだ。焼いた際に肉汁を内側に閉じ込める計算なのだよ」
魔族の最高幹部ルーベンスと、天界の天使長ヴァルキュリア。
かつてない規模の合同討伐軍を率いてきた二大巨頭が、今や真剣な眼差しで小麦粉の皮と向き合い、黙々と餃子を包んでいる。
隣では元氷魔将軍スアイが手際よくヒダを作り、竜王デュークが巨大な指先で器用に皮の端を水で濡らし、狼王フェンリルが「俺の分は肉だけ詰めろ」とリアンに怒られていた。
そこへ、裏口の引き戸がガラリと開いた。
「ただいま戻りました、寮母長! 畑のガーリッ君、全部収穫してきたよ……っ!」
泥だらけのタローマン製芋ジャージを着たキッド・ジーニアスが、息を切らしながら飛び込んできた。
その手には、収穫用のカゴいっぱいに詰められた『ガーリッ君(会話型魔性ニンニク)』が乗っている。カゴの中から「よぉ大将! 今日の俺はキレッキレだぜぇ!」とダミ声が漏れ出していたが、キッドは慣れた手つきで闇の小結界を張り、口臭を遮断していた。
「お、キッド。お疲れさん。これで餃子のタレに使う生おろしニンニクが揃ったな。手ぇ洗ってこい」
「うんっ!」
爽やかな返事。
その声を聞いた瞬間、テーブルで餃子を包んでいたルーベンスとヴァルキュリアの手がピタリと止まった。
二人はゆっくりと顔を上げ、泥だらけの少年を凝視した。
右背に漆黒の悪魔の翼、左背に純白の天使の翼。光と闇の混ざり合うオッドアイ。
間違いなく、彼らが討伐対象として命を狙う『禁忌のネフィリム』その人であった。
「……キッド・ジーニアス」
ルーベンスが、包みかけの餃子を皿に置き、静かに立ち上がった。
その声には、先ほどまでの怯えや生活感に流された空気は一切なく、冷徹な魔皇国の貴公子としての重みが宿っていた。
ヴァルキュリアもまた、ゆっくりと席を立つ。背中の純白の翼が緊張でわずかに震えた。
「な、なんだろう……?」
キッドは二人の異様な視線に気づき、思わず足を止めた。
彼らの纏う魔力と神気。それは、幼い頃に自分と両親を追い詰め、両親を処刑台へと送った『魔族の保守派』と『天界の聖騎士』の放つ気配と、あまりにも酷似していたからだ。
「キッド・ジーニアス。私はアバロン魔皇国、ルーベンス。そしてこちらは天界セレスティアの天使長、ヴァルキュリア殿だ」
ルーベンスは、懐から一枚の処刑執行令状を思わせる羊皮紙を取り出した。
「我々は、お前を討伐するために数万の軍勢を率いてこの村へ来た。お前がその身に宿す光と闇の力、そしてかつて勇者と魔王が振るったとされる伝説の二振りを融合させた『聖魔竜王剣』……それこそが、世界の均衡を乱す最大の不確定要素だからだ」
「……っ」
キッドの顔から血の気が引いた。
過去のトラウマが、フラッシュバックのように脳裏を駆け巡る。暗闇の牢獄。両親の叫び声。自分を「バケモノ」と呼んで石を投げつけてきた大人たちの顔。
「お前が生きている限り、世界のパワーバランスは崩壊の危機に晒され続ける」
ヴァルキュリアが、悲痛だが揺るぎない声で告げる。
「ネフィリムよ。貴様がその手に『聖魔竜王剣』を握り、世界に牙を剥くというのなら……我々は全軍の命に代えても、ここで貴様を討ち滅ぼさねばならない!」
二人の放つ覚悟の圧力が、食堂の空気を再び張り詰めさせる。
今度ばかりは、スアイもフェンリルも口を挟まなかった。これは、土着の現地民(魔族と天使族)と、その狭間に生まれた少年が、どうしても乗り越えなければならない『宿命の対峙』だったからだ。
キッドは拳をギュッと握りしめた。
恐怖で膝がガクガクと震える。だが、彼は逃げ出さなかった。
(……僕を庇ってくれたら、リアンたちが戦争に巻き込まれちゃう)
キッドは背後の台所に立つリアンを振り返った。
自分を暗闇から救い出し、ただの包丁で絶望を打ち砕き、美味い飯を食わせて、居場所を与えてくれた人たち。
彼らにこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
キッドは大きく息を吸い込み、泥だらけのジャージの袖をキュッと引くと、一歩前へ踏み出した。
「……僕は、戦わないよ」
「なに……?」
ルーベンスが眉をひそめた。
「武器を抜け、キッド・ジーニアス! 聖魔竜王剣を顕現させろ! 抵抗せねば、そのまま首を刎ねることになるぞ!」
ヴァルキュリアの厳しい声が飛ぶ。
だが、キッドは首を横に振った。そのオッドアイには、かつて牢獄で見せた『世界を滅ぼす暗い炎』は微塵もなかった。
そこにあったのは、透き通るような真っ直ぐな光だった。
「僕はもう、世界を憎まない。復讐なんか、どうでもよくなっちゃったんだ」
キッドは、食堂のテーブルに並ぶ何十個もの餃子を指差した。
「だって、僕には今日……リアンと一緒に、この餃子を百個包んで、みんなで焼きたてを食べるっていう『約束』があるんだ! 明日の朝は、お風呂のお湯を沸かさなきゃいけないし、ゴミの分別も覚えなきゃいけないんだ!」
少年の口から飛び出したのは、神話的な大義でも、血塗られた宿命でもなく、どこまでも泥臭く、愛おしい『明日の日常の予定』だった。
「だから僕は、剣なんか抜かない。僕が戦えば、また誰かが傷ついて、リアンの作るご飯が不味くなっちゃうから! 殺したいなら、丸腰の僕を殺せばいいよ。でも……僕は絶対に、この村のみんなを裏切らない!」
凛とした声が、静寂の食堂に響き渡った。
命乞いではない。
自らの手で掴み取った『温かい日常』を守るための、武器を持たない戦士の宣戦布告。
その姿を前にして、ルーベンスとヴァルキュリアは息を呑んだ。
目の前にいるのは、世界を滅ぼす魔王でも、暴走する怪物でもない。ただ今日のご飯を楽しみにして、自分の居場所を守ろうと必死に背伸びをしている、たった十六歳の子供だった。
「……くっ」
ルーベンスが、苦渋に満ちた表情で唇を噛む。
大義はある。理屈もある。だが、武器も持たず、今日のご飯のために命を張っている子供を、果たして自分たちの信じる『正義』の名の下に切り捨てることができるのか。
「……だが、キッド」
ルーベンスは、震える声で最後の問いを投げかけた。
「お前のその決意が本物だとしても……お前の魂に刻まれた『聖魔竜王剣』の力は消えない。勇者と魔王を統べるその究極の神魔兵装が存在する限り、世界はお前を脅威と見なし続けるのだぞ……!」
重苦しい沈黙が、再び場を支配する。
少年の決意だけでは覆せない、世界のシステムという絶対の壁。
――その時だった。
「あー、ちょっと待て」
それまでフライパンに油を引いていたリアンが、面倒くさそうに首を傾げながら口を挟んできた。
「お前ら、さっきから『聖魔竜王剣、聖魔竜王剣』ってうるせぇけどよ……」
リアンは包丁をまな板の上にコトンと置き、奥のリビングに向かって声を張り上げた。
「おい、キャルル! リーザ! ちょっとこっち来い!」
宿命の対決のクライマックスに、突如として放り込まれる日常の脱力感。
事態は、誰も予想していなかった明後日の方向へと転がり始めようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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