EP 16
コーポの住人たちと、餃子のための絶対防壁
労働基準法と中立条約という、異世界ファンタジーに最も似つかわしくない現代日本の『法と書類の罠』によって、完全に手詰まりとなった討伐軍の指揮官二人。
だが、彼らとて数万の軍勢を率いてきた魔皇国の大貴族と、天界の天使長である。
自陣の保守派からの凄まじいプレッシャーを背負っている以上、「書類の不備があったので帰ります」で済まされる立場ではなかった。
「……リアン・クライン。確かに貴様の言う通り、法的な大義は失われたかもしれない」
ルーベンスが、ギリッと奥歯を噛み締め、ゆっくりと立ち上がった。
その足元の影がドス黒く歪み、室内の温度が急激に低下する。
「ですが、我々には世界を守る義務がある! 紙切れ数枚で引き下がるわけにはいかないのです!」
ヴァルキュリアもまた、椅子を蹴り立てて立ち上がり、手にした聖槍グラニに黄金の神気を爆発させた。
魔族の極大の『魔気』と、天使の極大の『神気』。
二人の指揮官が放つ、文字通り軍隊をも単機で殲滅しうる本気の殺気が、木造アパートの食堂に吹き荒れる。
「力ずくでネフィリムを奪い去れば、国際問題にはなるでしょう。ですが、世界が滅びるよりはマシだ! 貴様らごと拘束し、力尽くでも少年を連行させてもらうぞ!」
窓ガラスがビリビリとひび割れ、マグカップのコーヒーが波打つ。
一触即発。交渉決裂からの強行突破。
だが、その致死のプレッシャーを真正面から浴びているはずのリアンは、椅子に座ったまま、ため息を一つこぼしただけだった。
「……やめとけって。俺は別にいいが、うちの『居候』どもは、夕飯前で腹を空かせてて機嫌が悪いんだよ」
「強がりを! この我々の覇気を前に――」
ルーベンスが影魔法を展開しようとした、その瞬間だった。
ガラッ。
食堂の奥、裏庭へと続く勝手口の引き戸が、無造作に開けられた。
「あー、ととのったぁ。やっぱりサウナの後の水風呂は最高だねぇ」
もうもうと立ち込める白い湯気の中から現れたのは、首にタオルを巻き、タローマン製の作業用オーバーオールをだらしなく着崩した、色気たっぷりの美女だった。
彼女は片手に『イモッカ(芋ウォッカ)』のジョッキを持ち、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干している。
「ぷはぁっ! 最高の休――ん? なにこの物騒な殺気。あんたたち、私の『ととのい時間』を邪魔する気?」
美女がチラリとルーベンスたちを一瞥した瞬間。
ルーベンスの心臓が、恐怖でヒュッと跳ね上がった。
「す、スアイ……!? なぜ、元氷魔将軍の貴女がこんな便所サンダル姿でここにいるのだ!?」
「あ? ルーベンスじゃん。私ぁもう軍を退役して、ポポロ山でスキー場とサウナ経営してるガチキャンパーだよ。今日は休業日だから、リアンの飯を食いに遊びに来てるだけさ」
そう言ってスアイがイモッカのジョッキをテーブルにドンッと置いた瞬間、彼女の周囲の空間が『絶対零度』に凍りついた。
殺気などという生易しいものではない。かつてアバロン魔皇国で最強と謳われた氷の魔将軍の覇気が、ルーベンスの魔気を一瞬で相殺し、凍結させたのだ。
「ひぃっ……!?」
「ルーベンス殿! 怯んではなりません、ここは私が!」
ヴァルキュリアが聖槍グラニを構え、前に出ようとした。
だが、今度はリビングのソファの方から、面倒くさそうな声が響いた。
「おい、そこの鳥女。うるせぇぞ」
「と、鳥女……!?」
ヴァルキュリアが振り返ると、リビングのソファに寝転がり、ルナミス新聞の『パチンコ新台攻略情報』を読んでいる銀髪の青年がいた。
青年は雑誌から目を離さず、タバコ(マルボロ・アイスブラスト)の煙をふぅっと吐き出す。
「今、新台の『CR異世界トラックでドン!』の確変突入ボーダーを計算してんだ。お前らの安っぽい神気がチラチラして、数字に集中できねぇんだよ」
青年の正体に気づいた瞬間、ヴァルキュリアは全身の血の気が引き、聖槍を取り落としそうになった。
「あ、貴方は……まさか、三大調停者の一角、『狼王フェンリル』様……!?」
神界の最高幹部たちすら畏怖する、世界の理そのもの。
そんな超常の存在が、なぜ木造アパートのソファでパチンコ雑誌を読みながらタバコを吹かしているのか。ヴァルキュリアの思考回路がショートを起こす。
「ご、誤解ですフェンリル様! 我々はネフィリムを――」
『ガタガタうるせぇって言ってんだよ、小娘』
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!
フェンリルから放たれた『調停者の覇気』が、物理的な重圧となってヴァルキュリアとルーベンスを床に押さえつけた。
息ができない。肺が潰れる。神と魔族のトップエリートである二人が、まるでカエルのように床に這いつくばる。
「くっ、ああああああっ……!」
「な、なんて、圧倒的な……!」
だが、地獄はそれだけでは終わらなかった。
「おいリアン。厨房の換気扇、ちゃんと回ってるか?」
厨房の奥から、ドスドスと重たい足音を響かせて現れたのは、仕立てのいいスーツを着崩し、葉巻を咥えたイケオジ――『竜王デューク』だった。
彼は片手に巨大な木べらを持ち、もう片方の手でエプロンを締めている。
「さっきからリビングの温度が上がったり下がったりして、寸胴鍋のスープの沸点が狂っちまうだろうが」
デュークはギロリと、床に這いつくばる二人を見下ろした。
元魔将軍スアイ。狼王フェンリル。竜王デューク。
世界をたった一日で滅ぼすことのできる規格外のバケモノ三体が、この六畳間の食堂を完全に包囲していた。
そして、彼ら三人の目には、世界の危機やネフィリムに対する関心など微塵もなかった。
彼らから放たれる致死のプレッシャーが、無言のうちにたった一つの『明確な意思(殺意)』を二人に伝達していた。
(((俺たち(私)の、今夜の『餃子』の仕込みの邪魔をするな。さもなくば、塵も残さず消し飛ばすぞ)))
――ギルルルルルルルルッ!!
圧倒的な暴力を前に、ルーベンスの胃袋が限界を超えて悲鳴を上げた。
ヴァルキュリアに至っては、絶望のあまり涙目になり、カタカタと奥歯を鳴らして震えている。
たった十数歳のネフィリムの少年を確保するために乗り込んだボロアパートは、アバロンの魔王城や天界の聖域など比べ物にならない、大陸で最も危険な『魔境』だったのだ。
「……あー、ご苦労さん。デューク、スープの火加減はそれでいい。スアイ、風邪引くからちゃんと服を着ろ。フェンリル、灰皿はいっぱいになったら自分で捨てろよ」
その絶望的な空間の中で、ただ一人。
エプロン姿のリアンだけが、全く意に介する様子もなく立ち上がり、厨房から巨大なボウルとまな板を運んできた。
リアンがパンパンッ!と手を叩く。
その軽い音が響いた瞬間――三体のバケモノたちが放っていた覇気が、嘘のように霧散した。
「ほら、白菜とニラと豚肉の餡ができたぞ。今日は全員で餃子を包む日だ」
「おお! 待っていたぞリアン。私の包む餃子は、芸術的なヒダだぞ!」
「けっ、どうせ焼いたら一緒だろうが。俺は中身がパンパンに入ってる方が好きだね」
「リアン、私はサウナ上がりだから、ニンニク多めのスタミナ餃子がいい!」
先ほどまで世界を滅ぼすような殺気を放っていた調停者や元魔将軍が、リアンが持ってきたボウルを前に、目を輝かせて子供のように群がり始めた。
一枚の皮に餡を乗せ、不器用な手つきで餃子を包み始める。
その光景を、床に這いつくばったままのルーベンスとヴァルキュリアは、ただ呆然と見つめていた。
「……さてと」
リアンは、餃子の皮を片手に持ったまま、二人の指揮官を見下ろした。
「お前ら。まだ武力行使とやらを続ける気か?」
「…………っ」
「それとも、大人しく席に座って、平和に『餃子』でも包んでいくか? 手伝ってくれるなら、夕飯を食わしてやってもいいぞ。美味いぞ、うちの飯は」
リアンのその言葉は、もはや交渉ではなく、神々すら従える絶対君主からの『最終通告』であった。
ルーベンスとヴァルキュリアは、震える足でゆっくりと立ち上がった。
そして、武器を床に置き、借りてきた猫のように、いや、完全に調教された仔犬のように、指定されたパイプ椅子にちょこんと座った。
「……つ、包ませて、いただきます……」
「ひだの作り方を……お教えください、寮母長様……」
こうして、世界を揺るがすはずだった魔族と天使族の合同討伐軍のトップは、ポポロ・コーポの食堂で、ネフィリムの少年を放置したまま、ひたすら無言で餃子を包むというシュールな労働に従事することになったのである。
(ルーベンスの胃痛メモ:このアパートの寮母長こそが、この世で最も恐ろしい存在である)
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