EP 15
寮母長との会談と、泥沼の計算書(労働基準法)
「……本当に、ここなのか?」
ポポロ村の奥地。
隠密魔法を駆使し、どうにか婚活狂戦士の索敵網を抜けたアバロン魔皇国のルーベンスと天界のヴァルキュリアは、目の前に建つ木造三階建てのボロアパート『ポポロ・コーポ』を見上げて絶句していた。
外壁はところどころ塗装が剥げ、二階のベランダには誰かの芋ジャージが風に揺れている。
どう見ても、世界を滅ぼす禁忌の存在を匿うような、堅牢な悪の要塞には見えない。
「罠……でしょうか? しかし、確かにここから微弱な神気と魔気、そして……何やらひどく芳醇な香りが漂ってきます」
「ああ。毒ガスの類かもしれん、警戒を怠るなよ」
二人は意を決し、軋む木製のドアをギイィッと押し開けた。
「――泥棒なら帰れ。それ以外なら、そこのマットで泥をしっかり落としてから上がれよ」
「なっ!?」
玄関をくぐった瞬間、奥の廊下から響いた声に二人は身構えた。
だが、そこに立っていたのは、凶悪な魔獣でも伝説の騎士でもなく、白いエプロン姿で片手にコーヒーポットを持った黒髪の少年だった。
「お前たちが魔皇国と天界の偉いさんだろ? 外で騒いでたのは知ってる。まあ、立ち話もなんだ。食堂の席に座れ」
リアン・クライン。
前世の記憶を持つ三ツ星副料理長にして、このカオスなアパートを取り仕切る絶対君主(寮母長)である。
ルーベンスとヴァルキュリアは顔を見合わせ、毒気を抜かれたように靴を脱いで(ちゃんとマットで泥を落としてから)食堂へと足を踏み入れた。
食堂には、挽きたての極上『ポポロ・コーヒー』の香りが充満していた。
リアンは無造作に二つのマグカップをテーブルにコトンと置く。
「飲め。うちの特製ブレンドだ」
「……ふん。我々を毒殺しようという魂胆か? 魔族の私にそんな小細工は――」
ルーベンスが疑り深くマグカップに口をつけた瞬間、彼の言葉はピタリと止まった。
そして、隣で一口飲んだヴァルキュリアの両目からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「うっ……うぅっ……! な、なんという豊かな香り、そして深いコク……! 毎日毎日、泥水のような青汁とレンガばかり齧っていた私の五臓六腑に、温かい癒しが染み渡っていきます……っ!」
「馬鹿な……。アバロンの王宮で出される最高級の豆よりも、遥かに美味いだと……!?」
前線で劣悪な野戦食(主にヴァルキュリア)に耐え、胃痛(主にルーベンス)に苦しんでいた彼らにとって、三ツ星の技術で完璧にドリップされたポポロ・コーヒーは、まさに致死量の『癒し』だった。
二人は無言でマグカップを両手で包み込み、ズズーッと音を立ててコーヒーを啜り続ける。
「おかわりあるぞ」
「「いただきます!!」」
完全に毒気を抜かれ、三杯目のコーヒーを飲み干したところで、ルーベンスはハッと我に返った。
(いかん! この男のペースに飲まれている! 食事で相手の警戒心を解くなど、恐るべき交渉術……!)
「コホンッ!」
ルーベンスはわざとらしく咳払いをし、エプロン姿のリアンを鋭く睨み据えた。
「……もてなしには感謝する、リアン・クライン。だが、我々がここへ来た目的は分かっているな? 先ほど畑で、恐るべき精神破壊の結界(ガーリッ君)を展開しながらクワを振るうネフィリムの姿を確認した」
ルーベンスの言葉に、リアンは「あぁ、あいつ今朝の収穫ノルマやってんのか」と呟く。
「キッド・ジーニアス。勇者と魔王の力を併せ持つ、世界のバランスを崩壊させるイレギュラーだ。彼を我々合同討伐軍に引き渡してもらおう。……断ると言うなら、この村がどうなっても――」
「毎度おおきに! そこまでにしておきまひょか、魔族の旦那!」
突然、食堂の奥からコテコテの関西弁が響いた。
パチパチと黄金の算盤を弾きながら現れたのは、ゴルド商会のエリート商人にしてポポロ村の財務担当、猫耳族のニャングルだ。
「ニャングル? なぜ商会の人間がここにいる!」
「うちはこの村の財務顧問でっさかいな。リアンの旦那から『厄介なクレーマーが来たから帳簿を持て』と呼ばれましてん」
ニャングルはニヤリと笑うと、分厚い紙の束をバンッ!とテーブルに叩きつけた。
「なんですか、これは……?」
ヴァルキュリアが怪訝そうに紙の束を覗き込む。
「ただの請求書だ」
リアンがエプロンを外し、腕を組んで二人の前に座った。
「ポポロ村は、ルナミス、レオンハート、アバロンの三国間における『絶対中立・緩衝地帯条約』で守られている。そこへ、お前たちは数万の武装した軍勢を引き連れて無断で押し入ってきた」
「それは……ネフィリムという世界の脅威を討伐する、正当な大義に基づく特例だ!」
「大義ねぇ。でも、現実の被害は出てるんだよ。これを見ろ」
リアンが請求書を指差す。
そこには、前世で取得した『日商簿記1級』の知識をフル活用し、1ギルの狂いもなく完璧に計上された恐るべき損害賠償の内訳が並んでいた。
『国境の森・不法侵入による環境破壊損害金』
『ポポロ村自警団の精神的苦痛(婚活の焦燥感)に対する慰謝料』
『特産品・太陽芋およびメロロンの、軍勢の足音による発育不良(見込み)損害金』
『ポポロ村名誉毀損および営業妨害に対する補償金』
「し、しめて……金貨三万枚(約3億円)だとぉっ!?」
ルーベンスが目玉が飛び出るほど驚愕し、ヴァルキュリアが貧血を起こして倒れそうになる。
天界の予算を考えれば、三億円など逆立ちしても払えない天文学的数字だ。
「ふ、ふざけるな! 国境を破壊したのは、そっちの狂ったケンタウロス女だろうが! なぜ我々が払わねばならない!」
「お前らが無断で軍を差し向けてこなけりゃ、うちの自警団長がチャージタックルをかます理由もなかった。正当防衛の範囲内だ」
リアンは涼しい顔で言い放つ。
「それに、お前らが一番勘違いしてる大前提を教えてやるよ」
「勘違いだと……?」
「お前らが『世界の脅威』だの『イレギュラー』だのと呼んでいるあのガキはな、今朝、俺と正式に『ポポロ・コーポ住み込み従業員』としての雇用契約書にサインしたんだよ。……おいニャングル、例の書類」
「へいへい。こちら、ドンガン地下帝国の公証人役場を通した、完全合法の労働契約書になりますぅ」
ニャングルが差し出した書類には、キッドの震えるサインがしっかりと書かれていた。
「なっ……ネフィリムを、アルバイトとして雇っただと!?」
「そうだ。つまり、キッドはれっきとしたポポロ村の住民であり、労働基準法に守られた労働者だ」
リアンは、テーブルから身を乗り出し、冷徹な目で二人の指揮官を射抜いた。
「いいか? 中立地帯の正規の労働者を、他国の軍隊が武力で拉致・殺害しようとする。これがどういう意味か、あんたたちなら分かるだろ?」
「…………っ!!」
ルーベンスの顔から、完全に血の気が引いた。
「それは『大義ある討伐』なんかじゃない。ポポロ村という中立自治体に対する明確な『侵略行為』であり『国際条約違反』だ。もしお前らがこのままキッドに手を出せば、俺たちは即座にルナミス帝国とレオンハート王国、そして背後のドンガン地下帝国に『アバロンと天界が条約を一方的に破棄し、侵略を開始した』と通達する」
「な……なんという、悪辣な……!」
ヴァルキュリアが震える指でリアンを指差す。
「世界を滅ぼす剣を持つ悪魔なのですぞ!? それを、労働法と中立条約で保護するなど……詭弁にも程がある!」
「詭弁で結構。だが、書類は完璧だ。俺たちは法とルールの下で彼を保護している。大義だの正義だの、フワッとした理由で他人の家の従業員に手を出そうってなら――全世界を敵に回す覚悟でやれよ?」
リアンの言葉は、剣よりも鋭く、魔法よりも重く、二人の指揮官の喉元に突きつけられた。
ネフィリムを討てば、条約違反の侵略国家として全世界から袋叩きに遭う。
ネフィリムを見逃せば、保守派からの突き上げを食らう。
(……詰んだ。完全に、法と書類の罠にハメられた……!)
魔力も闘気も一切使わず、紙切れ数枚と現代日本の法知識だけで、数万の軍勢を率いる指揮官二人を完全な『手詰まり(チェックメイト)』に追い込んだのだ。
「あ、そうだ。もう一つ言い忘れてた」
絶望する二人に、リアンがトドメを刺すように口を開く。
「お前らがどうしてもキッドを討伐したいってんなら、別に止めねぇよ」
「えっ……?」
「ただし、あいつは今、毎朝風呂の湯沸かしと、村の生ゴミの消滅(ブラックホール処理)を担当しててな。もしあいつがいなくなったら、お前らが代わりに毎朝薪を割って湯を沸かし、生ゴミの処理をすることになる。……俺の夕飯の準備の邪魔にならないように、な」
世界を滅ぼすネフィリムの真の役割が『給湯器』と『ゴミ処理機』であることを告げられ、ルーベンスとヴァルキュリアは完全に言葉を失った。
沈黙の食堂に、ポポロ・コーヒーの香ばしい匂いと、ニャングルの弾く算盤の音だけが、無慈悲に響き渡っていた。
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