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EP 28

社畜OLの目覚め。養われるだけのヒロインからの脱却

 デジタルタトゥーの大拡散により、ムーンキャピタルを牛耳っていた王太子と公爵は、剣を一度も交えることなく社会的に抹殺された。

 彼らが失脚したことで、街の行政を司る『中央政庁』は一時的なパニックに陥ったが、自立への決意を固めた聖女エミリアの案内により、俺たちは政庁の執務室へと足を踏み入れた。

「……ひどいな、こりゃ」

 執務室のデスクに積み上げられた書類の山を見て、俺は顔をしかめた。

「公爵の野郎、下水処理の予算を横切ってただけじゃねぇ。街のインフラ整備から農業支援、果ては平民の戸籍管理まで、全部ハンコを押さずに放置してやがる。完全に職務放棄だ」

「そ、そんな……」

 エミリアが、書類の山をパラパラと捲りながら青ざめていく。

「これ、全部今日中に決済しないと、明日の街のゴミ回収も止まっちゃうし、地下の魔力炉の作業員さんたちへの配給も届かない……っ」

 先ほど広場で「労働基準法で立て直す!」と威勢よく宣言したエミリアだったが、現実の『絶望的な業務量タスク』を前にして、彼女の顔に前世のトラウマが色濃く浮かび上がり始めた。

「う、うぅ……っ。なんで私がこんなこと……」

 エミリアは、書類の山に突っ伏して、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「私、前世で毎日終電まで残業して、上司に怒鳴られて、ボロボロになって死んだから……だから転生した時は、絶対に働かないって決めてたのに……!」

「エミリア……」

 キャルルが心配そうに声をかける。

「イケメンの公爵様や、もふもふの聖獣に溺愛されて……ただ『愛してる』って言われながら、美味しいお菓子を食べて、ドレスを着て、一生楽に生きたかっただけなのに……! なんで異世界に来てまで、エクセルのマクロみたいな書類の山と格闘しなきゃいけないのよぉぉっ!」

 エミリアは、完全に自暴自棄になって泣き叫んだ。

 無理もない。一度は覚醒しかけたとはいえ、彼女の根底にあるのは「もう二度と社畜として苦しむのは嫌だ」という切実な逃避願望なのだから。

「エミリアお嬢様。どうか、泣かないでください」

 そこへ、少し離れた位置(俺のフライパンの射程外)から、人狼族の執事リバロンが優しく声をかけた。

「お嬢様がこのような泥臭い実務デスクワークをなさる必要はありません。私が残った文官たちをムチで叩いて働かせます。お嬢様は、私の腕の中で、ただ微笑んでくだされば……」

 リバロンが、再びエミリアを『何もしないお人形ペット』へと戻そうと甘い言葉を囁いた、その時だった。

「……おい」

 俺は、無言で執務室の来客用テーブルの上に、携帯用の『魔導コンロ』をドンッ!と置いた。

「リアン君……?」

「リバロン、お前はすっこんでろ。その甘やかしが、こいつの『人間としての尊厳』を奪ってんだよ」

 俺は、タローマン製ジャージの袖をまくり上げ、持参した魔法ポーチから食材を取り出した。

「お前ら、少し黙って見てろ」

 俺が取り出したのは、ポポロ村の特産品である『肉椎茸』と『醤油草』、そして米麦草から打った『極太の麺』だった。

 鍋に湯を沸かし、肉椎茸と少量の干し小魚(ピラダイの稚魚)を放り込んで、強火で一気にダシを取る。

 透き通った黄金色のスープが取れたところで、醤油草の特製ダレを加え、ほんの少しの甘み(ハニーかぼちゃの蜜)で味を調える。

 別の鍋で極太麺を茹で上げ、しっかりとお湯を切ってから、熱々のダシ汁の中へ滑り込ませた。

 仕上げに、トライバードの卵で作った『温泉卵』と、刻んだネギをたっぷり乗せる。

「ほら、食え」

 俺は、泣き崩れているエミリアの前に、湯気を立てるどんぶりをドンッと置いた。

「これ……は……」

 エミリアが、どんぶりから立ち上る香りを嗅いで、ビクッと肩を震わせた。

 肉椎茸と小魚から取った、濃厚で、どこか懐かしい『和風ダシ』の香り。

 醤油の香ばしさと、温泉卵のまろやかな匂い。

 それは、ムーンキャピタルの優雅なアフタヌーンティーや、彩りばかりを気にしたマカロンでは絶対に味わえない、日本人の魂(DNA)に直接訴えかける『かけうどん』の香りだった。

「……うどん……おダシの匂い……」

 エミリアは、震える手で割り箸(俺が手渡した)を割り、スープを一口啜った。

「あ……」

 彼女の目から、今度は本物の大粒の涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。

「おいしい……。あったかくて、優しくて……深夜に仕事が終わってから、駅前の立ち食い蕎麦屋で食べた……あの時の、うどんの味がする……っ」

「食え食え。胃袋が空っぽだと、思考も後ろ向きになるからな」

 俺は、腕を組んでエミリアを見下ろした。

「……なぁ、エミリア。あんたが前世で一番辛かったのは、『残業が多かったこと』か?」

「えっ……」

 エミリアが、うどんを啜る手を止める。

「違うだろ。一番辛かったのは、理不尽な上司や会社に『自分の人生の決定権』を握られて、奴隷みたいに扱われていたことのはずだ」

 俺の言葉に、エミリアが息を呑む。

 俺自身がそうだったから、痛いほどよく分かる。自分の意思で料理をしている時の疲労と、シェフの怒号に怯えながらロボットのようにフライパンを振らされていた時の疲労は、全くの別物なのだ。

「いいか。何でもかんでもイケメン執事とモフモフの聖獣にやらせて、自分はただ愛されて、泣いてるだけ。……それって、自分で考えることを放棄して他人に人生を丸投げしてるって意味じゃ、前世の社畜時代と全く同じじゃねぇか」

「……っ!」

「あんたには『聖女』っていうユニークスキルがある。それは、男に媚びて養われるための道具じゃない。自分の足で立ち、自分の人生を『自分の意思』で選ぶための最強の資本だ」

 俺は、エミリアのどんぶりを指差した。

「……誰かのペットになってタダで食うマカロンより、自分の足で立って、自分の稼いだ金で食う『うどん』の方が、百万倍美味ぇだろ?」

「——あぁっ……!」

 エミリアは、声を上げて泣きながら、うどんを夢中でかき込み始めた。

 誰かに守られ、甘やかされるだけのヒロイン。

 それは一見幸せそうに見えるが、実は『籠の中の鳥』と同じだ。

 前世で自立して働いていた彼女の魂の奥底には、必ず「自分の足で立ちたい」という本能が眠っているはずなのだ。

「……ごちそう、さまでした……っ!」

 最後の一滴までスープを飲み干したエミリアは、テーブルに置かれた手鏡で自分の顔を見た。

 涙でメイクはボロボロで、縦巻きロールは崩れ、とても乙女ゲーのヒロインとは呼べない酷い顔だ。

 だが、その瞳には、先ほどまでの逃避の濁りは一切なく、どこまでも澄み切った『覚悟』の光が宿っていた。

「……リバロン」

 エミリアが、キリッとした表情で振り返る。

「は、はい。お嬢様」

「すぐに、地下の魔力炉で働いている作業員たちの代表者をここに呼んで。未払いの給与を即時支給して、今日から三交代制のシフトを組むわ。それと、この書類の山……優先順位の高いものから仕分けして。私が全部決済するから」

 その声は、もう庇護を求めるか弱い少女のものではなかった。

 数々の修羅場を潜り抜けてきた、優秀な『プロジェクトマネージャー(OL)』の顔だ。

「お、お嬢様……?」

 リバロンが、その豹変ぶりに戸惑う。

「リバロン。あなたが私を想ってくれるのは嬉しいわ。でもね、私はもう、ただの『お飾り』にはならない。この街の領主として、みんなが正当に働けるインフラを整える。……私の部下パートナーとして、ついてきてくれる?」

 エミリアが、真っ直ぐにリバロンの目を見つめる。

 その凛とした、自立した女の強さと美しさに……人狼族の執事は、雷に打たれたように目を見開き、そして深く、深く頭を下げた。

「……御意に。このリバロン、エミリアお嬢様の新たな決意に、命を懸けてお仕えいたします」

 リバロンの声には、これまでの薄っぺらい変態的な溺愛ではなく、真の忠誠と敬意が込められていた(ソーシャルディスタンスも完璧に保たれている)。

「ふふっ。リアン君の『説教メシ』、すごい効果だね!」

 キャルルが嬉しそうに俺の腕をつつく。

「ああ。これでようやく、まともな『交易の交渉』ができそうだな」

 俺たちは、エミリアがバリキャリ領主として執務室で采配を振るい始めたのを、満足げに見守っていた。

 これで、ムーンキャピタルの乙女ゲーテンプレは完全に崩壊し、真っ当な経済活動を行う『自立した国家』へと生まれ変わる。

 ——だが、その時だった。

『……ちょ、ちょっと待ちなさいよぉぉぉっ!!』

 突然、執務室の天井から、鼓膜を突き破るような『神の怒声』が響き渡った。

「えっ!?」

「なんだ!?」

 空間がピキピキとひび割れ、そこから眩いばかりの光と共に、全身をハイブランドで固めた美しい女神が降臨してきた。

 月の女神、カグヤである。

「あ、あんたたち! 一体何をしてくれてるのよ!」

 カグヤは、手にしたプラダのバッグを床に叩きつけ、血走った目で俺たちを睨みつけた。

「今月の『ゴッドチューブ』の再生数(PV率)を見てみたら……私の管轄してるムーンキャピタルの【恋愛・溺愛ジャンル】の視聴率が、突然ゼロになってるじゃないの!! 私の広告収入が! 今月リボ払いで買ったヴィトンの新作の支払いがどうなると思ってんのよぉぉっ!!」

 街のテンプレが粉砕されたことで、天界での『配信コンテンツとしての価値』が暴落し、金欠に陥った女神が直接クレームを言いに降臨してきたのだ。

「……やれやれ。今度は神様の相手かよ」

 俺が呆れてフライパンを構え直そうとした、その直後。

「あーっはっはっはっは!!」

 執務室の扉を蹴り開けて、ポポロ村でお留守番をさせていたはずの、あの『駄女神』が芋ジャージ姿で乱入してきた。

「ざまぁぁぁぁっっwww!! カグヤの乙女ゲー世界観、完全崩壊じゃんウケるぅぅっ!! PV率ゼロとかマジで草!!」

 ルチアナが、右手に缶ビール、左手にポテチを持ちながら、カグヤを指差して全力で煽り倒し始めたのである。

「ル、ルチアナァァッ!? なんであんたがここにいるのよ!!」

「リアン君たちが、あんたの箱庭をぶっ壊すっていうから、皿洗いサボって特等席ここまで見学に来たのよぉ! あー傑作! 溺愛テンプレ終了のお知らせでぇぇぇす!!」

 カグヤの額に、ブチィッ!と太い青筋が浮かび上がった。

(……あ、これ絶対面倒くさいことになるやつだ)

 俺の予感は的中し、ムーンキャピタルの執務室で、神同士の醜極まりない『キャットファイト(物理)』が今まさに幕を開けようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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