EP 23
ゼロ距離執事と、ボッタクリ『聖女の涙』の原価計算
公開婚約破棄という名の『コスパ最悪の三文芝居』を、慰謝料5億円の請求とデジタルタトゥーの拡散によって完全粉砕した直後。
広場に取り残された俺たちホープ・クローバー(Sクラス)の前に、このムーンキャピタルにおける真のヒロインである聖女エミリアと、その専属執事が立っていた。
「お気になさることはありません、エミリアお嬢様。あの程度の男たち、お嬢様の愛を受けるに値しない羽虫であったというだけのこと……。貴女には、この私がついております」
人狼族の執事、リバロン。
ビシッとした燕尾服に身を包んだ超絶イケメンの彼は、エミリアの耳元——距離にしてわずか『3センチ』という、皮膚と皮膚が触れ合うスレスレのゼロ距離で、甘くねっとりとした声で囁き続けていた。
「あ、ありがとう……リバロン。でも、ちょっと近、近いかな……」
エミリアは顔を真っ赤にして身を引こうとするが、リバロンは彼女の腰に手を回し、さらに距離を詰めていく。
「……おい」
俺は、あまりの気味の悪さに、持っていたフライパンの柄でリバロンの肩をコツンと突いた。
「なんだ、平民。今、私とお嬢様の神聖な時間に——」
「神聖もクソもあるか。ソーシャルディスタンスを取れ」
俺は、真顔でマジレスを叩き込んだ。
「お前、そんなゼロ距離で他人の耳元で喋り続けたら、呼気と飛沫がモロに相手の顔にかかるだろうが。衛生観念どうなってんだ。それに、嫌がってる女に無理やり密着するのは、執事どころかただの『変質者』だぞ。ルナミス警察に通報されたいのか」
「へ、変質者……ッ!?」
リバロンの端正な顔が、ピキッと引きつった。
「貴様……このムーンキャピタルにおいて、エミリアお嬢様への私の絶対的な『溺愛』を愚弄するか。万死に値するな」
リバロンの瞳に、人狼族特有の獰猛な殺意が宿る。
「執事たるもの、無粋な武器など持たない。……だが、不敬な害虫を払う術は心得ている」
シュッ!
リバロンの手が、燕尾服の胸ポケットへと閃いた。
彼が指の間に挟んでいたのは、最高級の和紙で作られた一枚の『名刺』だった。そこには美しく「ムーンキャピタル 宰相 リバロン」と印字されている。
人狼族の爆発的な闘気が、その薄い紙切れに極限まで圧縮・コーティングされていく。
「消えろ、平民」
リバロンが手首のスナップを効かせた瞬間。
——ビュォォォォォッ!!
名刺が、時速300キロを超える圧倒的なスピードで、俺の頸動脈を目掛けて飛来した。
空気を切り裂くその威力は、鋼鉄の装甲すらも豆腐のように両断する必殺の暗器『名刺刃』だ。
「リアン君!」
キャルルが悲鳴を上げる。
だが、俺は慌てることもなく、右手に持っていた『ドンガン地下帝国製・極厚魔導フライパン』を、顔の前にスッと掲げた。
——ガキィィィィィンッ!!!!
凄まじい金属音が広場に響き渡る。
鋼鉄を両断するはずの闘気名刺は、天極流の闘気を纏わせた俺のフライパンの底で完璧に弾き返され、火花を散らして地面に突き刺さった。
「なっ……!?」
リキ兄貴やフェンリルの絶大攻撃を耐え抜いた俺のフライパンに、傷一つついていない。
リバロンの余裕に満ちた顔が、驚愕に歪んだ。
「ば、馬鹿な……私の闘気を込めた名刺刃を、ただの調理器具で弾き返しただと!?」
「調理器具を舐めるな」
俺は、フライパンの底の煤を払いながら鼻で笑った。
「それに、名刺を武器にして投げるなんて、社会人として終わってんな。一枚数十ルナはする最高級の和紙を使い捨ての暗器にするなんて、コスパ(費用対効果)が最悪だぞ。武器を使わない美学だか何だか知らねぇが、素直に鋼のナイフを買った方がランニングコストは遥かに安い」
「こ、こすぱ……らんにんぐこすと……?」
乙女ゲーの住人であるリバロンの脳髄に、ゴリゴリの現代経済用語が全く処理できず、彼は完全にフリーズしてしまった。
「まぁまぁ! 待ってリアン君! 私たち、喧嘩しに来たわけじゃないから!」
キャルルが慌てて俺とリバロンの間に割って入った。
「エミリア様、リバロンさん! 驚かせてごめんなさい! 私はポポロ村の村長、キャルルです! 今日は、ムーンキャピタルの特産品である『聖女の涙』の交易の件で、お話を伺いに来たんです!」
「……交易、ですか」
エミリアが、ホッとしたように息を吐いてキャルルに向き直った。
彼女の目には、どこか『話が通じる相手が来てくれて助かった』というような、社畜特有の疲労感が滲んでいるように見えた。
「ええ。エミリア様が流す『聖女の涙』は、どんな傷も癒やし、肌を若返らせる奇跡の霊薬だと伺っております。それをぜひ、我がポポロ村の特産品(ポポロシガー等)と交換していただきたく——」
「ふはははは! 愚かな!」
フリーズから復帰したリバロンが、再びエミリアの背後に立ち、大げさな身振りで笑った。
「エミリアお嬢様の流す涙は、まさに至高の宝石! それを田舎村の煙草などと等価交換できるわけがありません。一滴につき『金貨100枚(約100万円)』。これが、我がムーンキャピタルの提示する最低価格です!」
「き、金貨100枚!?」
キャルルがウサギ耳をピンと立てて驚愕する。
「その通りです。お嬢様に涙を流していただくため、私が特製の感動的な詩を朗読し、最高のシチュエーションを演出する手間代(プロデュース料)も含まれておりますからね。……さぁ、お嬢様。私が貴女のために用意した——」
「ちょっとお待ちになってェェェッ!!」
突如、広場の空気を切り裂くような、強欲に満ちた叫び声が響き渡った。
ダサい芋ジャージの上に花柄のエプロンを着た人魚姫——リーザが、お賽銭箱型掃除機を引きずりながら、猛烈なスピードでエミリアの目の前まで詰め寄ってきた。
「リーザちゃん!?」
「リアン様! そしてそこの変態執事! 今、なんと仰いましたの!?」
リーザの両目には、凄まじい輝きの『黄金のドルマーク』がハッキリと浮かび上がっていた。
「一滴で金貨100枚……? この、ただの『しょっぱい水』がですの!?」
「しょっぱい水とは無礼な! これにはエミリアお嬢様の聖なる魔力が——」
「黙りなさいませ!」
リーザは、リバロンの言葉をピシャリと遮り、俺に向かってビシッと指を差した。
「リアン様! 簿記1級の貴方様ならお分かりでしょう! この『聖女の涙』とやらの原価を!」
「……あぁ」
俺は腕を組み、冷徹な目で原価計算を行った。
「成分の99%は水分と塩化ナトリウム。あとは微量の魔力だ。……原価率で言えば、ほぼ0ルナ。容器の小瓶代を入れても『銅貨1枚(100円)』以下だ。それを金貨100枚(100万円)で売るってことは、利益率99.99%……完全なるボッタクリ商法だな」
「えっ……げ、原価割れ……利益率……?」
その言葉を聞いたエミリアが、なぜかビクッと肩を震わせ、前世の社畜OLの記憶を呼び覚まされたような顔になった。
「そうですわ! こんな暴利、消費者庁が黙っておりませんのよ!」
リーザは、フンスッと荒い鼻息を吐き出すと、おもむろに自分の胸をドンッと叩いた。
「いいですか!? 涙が売れるというのなら、このわたくし……誇り高きシーラン国の人魚姫であるリーザ様の『人魚の涙』の方が、よっぽどブランド価値がありますわ!」
「な、なんだと!?」
「海中国家の王族であるわたくしの涙は、天然のミネラル(塩分)と海洋のオーラがたっぷり! それを、本日からポポロ村の特産品として、一滴『銀貨10枚(約1万円)』という、脅威の99%オフ価格で市場に大量投下いたしますわォォォッ!!」
「……ッ!?」
リバロンの顔が、今度こそ絶望に染まった。
独占市場における、圧倒的なまでの『価格破壊』の宣言である。
「わたくしの涙だけではありませんわ! 涙が枯れたら、『人魚姫の入浴後の残り湯(極上ダシ入り)』もペットボトルに詰めて販売いたしますの! アイドルであるわたくしのプレミア感と、圧倒的な低価格で、ムーンキャピタルのボッタクリ市場を完全にぶっ壊して差し上げますわァァッ!」
リーザが、お賽銭箱を天に掲げて高笑いする。
「お、おのれ……! 我がムーンキャピタルのビジネスモデルを、根本から否定するというのか……ッ!」
リバロンがワナワナと震え、後ろで聞いていたモブ貴族たちも「銀貨10枚なら、あっちの涙を買った方が……」とザワつき始めてしまった。
「あ、あの……」
その時。
ずっとオロオロしていた聖女エミリアが、恐る恐る手を挙げた。
「あの……私、別に涙なんて売りたくないんです。いつもリバロンが勝手に値段をつけてるだけで……私、本当は普通に働きたいというか、その……」
エミリアの口からこぼれたのは、テンプレヒロインらしからぬ、極めて常識的な本音だった。
(……ほう)
俺は、目を細めた。
どうやらこのエミリアという聖女は、周りの乙女ゲーテンプレ(変態執事や溺愛)に巻き込まれているだけで、中身はまともな感覚を持っているらしい。
「普通に働きたい、ね」
俺はフライパンを肩に担ぎ、エミリアに向き直った。
「だったら、なおさらこの街は異常だ。……おい、聖女。あんたは気づいてねぇのか?」
「えっ……何に、ですか?」
エミリアが小首を傾げる。
「この街のインフラ構造の闇だよ。美男美女の貴族が、毎日広場で顎クイだのお茶会だのやってる裏で……誰が下水処理をして、誰がバキュームカーを運転して、誰がゴミを回収してんだ?」
「あ……」
エミリアの顔から、一気に血の気が引いた。
「農業(第一産業)も、工業(第二産業)も見当たらねぇ。……このハリボテの街を裏で支えてる、見えない『底辺労働者』たちが、過労死寸前でどこかに押し込められてるはずだぜ」
俺の言葉に、リバロンの顔がピクリと引きつった。
どうやら、俺の読みは当たっているらしい。
乙女ゲーのキラキラした舞台装置の裏側。俺の『簿記1級』の目が、この街の最大のタブー(闇)を完全に暴き出そうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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