EP 16
身を挺する月兎と、堅物執事の価値観崩壊
「死ねェェェッ、侯爵家の犬ゥゥゥッ!!」
暗殺ギルド『黒き毒蛇』のリーダーが放った一撃。
それは、必殺の致死毒がたっぷりと塗られた、漆黒の投げナイフ(暗器)であった。
闘技場の空気を切り裂き、一直線にルンベルスの心臓へと迫る。
「ッ……! しまった!!」
乱戦の只中にいたリアンとクラウスが、弾かれたように床を蹴る。
だが、暗殺者たちを文字通り「物理的に蹂躙」していた二人の位置からでは、いくら規格外の身体能力を持っていようとも、ほんの数メートル、手が届かない。
(……これまでか)
ルンベルスは、迫り来る死の刃を前にして、静かに目を閉じた。
アルヴィン侯爵家に拾われ、クラウスの教育係として生涯を捧げてきた人生。分家の横領という不祥事を暴く過程で、このような裏社会の輩に命を落とすことになろうとは。
無念ではあるが、後悔はない。
(坊ちゃま……。どうか、立派な次期当主に……)
ルンベルスが己の死を受け入れ、最後の祈りを捧げた——まさにその、刹那。
「とぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
観客席の方向から、空気を切り裂くような甲高い気合の声が響いた。
ルンベルスの閉じた瞼の裏に、強烈な風圧と、銀色の閃光が焼き付く。
「『月影流・流星脚』ッッ!!!!」
ドガァァァァァァァァァンッ!!!!
ルンベルスの目の前で、金属が爆発するような凄まじい轟音が鳴り響いた。
驚いて目を開けた老執事の視界に飛び込んできたのは、ひらりと宙を舞う、大きな『ウサ耳』を持つ少女の背中。
Sクラスが誇る特攻隊長、月兎族のキャルル・ムーンハートであった。
彼女は、ルンベルスを庇うように彼と暗器の間に割って入り、タローマン(ホームセンター)製の【超硬質・耐酸性ゴム底のガテン系安全靴】を履いた右足で、飛来する毒刃を真正面から蹴り砕いたのだ。
パキィィィィンッ!!
タングステン鋼すら砕くウサギの蹴り力(キック力)と、安全靴の鉄板。
その圧倒的な物理エネルギーを正面から受けた投げナイフは、ルンベルスの心臓に届く数センチ手前で、粉々の鉄屑となって空中に散った。
「ちぃッ!? 邪魔しやがって、クソウサギがァ!」
暗殺者のリーダーが、必殺の一撃を防がれたことに悪態をつく。
「ふんっ! ウサギのキックを舐めるなーっ!」
キャルルは空中でクルリと身を翻し、トンファーを構えて見事に着地した。
「な、なぜ……」
ルンベルスは、目の前で自分を庇って立つ小さな背中を見て、呆然と震える声を出した。
「なぜ、貴女が私を……? 私は先程、貴女たちSクラスを『掃き溜め』と呼び、獣人である貴女を蔑んだのですよ……!?」
貴族社会の常識で言えば、ルンベルスの取った態度は、平民や獣人に対しては決して許されないほどの「侮辱」であった。
見殺しにされても文句は言えない。いや、むしろ邪魔な執事が消えて好都合だと見捨てられて然るべき場面だ。
それなのに、なぜ、この少女は命を懸けて自分を救ったのか。
「なぜって……そんなの、決まってるじゃん」
キャルルは、振り返ることなく、ウサ耳をピコピコと揺らしながらカラリと笑った。
「男爵だとか、平民だとか、身分だとか……そんなの、私たちには全然関係ない! あんたは、クラウス君を大事に育ててくれた『家族』なんでしょ!」
「……家族」
「クラウス君は、私たちの大切な仲間(Sクラス)! その仲間の家族を見捨てるわけないじゃん! Sクラスはね、仲間とその家族を絶対に泣かせたりしないんだから!!」
キャルルの言葉には、一片の打算も、計算もなかった。
ただ純粋な、底抜けに明るい「仲間への愛」だけがあった。
その言葉を聞いた瞬間。
ルンベルスの胸の奥底で、硬く結ばれていた『何か』が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
(……ああ。私は、なんて愚かだったのだ)
レベルが下がる。掃き溜め。男爵如き。
そんな言葉で、彼らの価値を決めつけていたのは、他でもない自分自身だった。
身分という分厚い鎧を着込み、その中身(魂)を見ようとしなかった。
だが、目の前にいる少女はどうだ。
罵られ、蔑まれてもなお、友の家族であるというただ一つの理由だけで、己の命を投げ出して盾となる。
これほどの高潔さ。これほどの誇り。
(これこそが……真の『ノブリス・オブリージュ(高貴なる者の振る舞い)』ではないか……!!)
ルンベルスは、己の曇りきった両目から、ボロボロと熱い涙が溢れ出すのを止められなかった。
アルヴィン侯爵家の至宝たるクラウスが、なぜこのSクラスに固執するのか。なぜ、リアンという男の隣で、あんなにも楽しそうに笑っていたのか。
今なら、痛いほどに分かる。
この場所には、貴族社会には決して存在しない、本物の『魂の繋がり』があるのだ。
「キャルル! よくやった!」
「怪我はないか、キャルル!」
遅れて駆けつけてきたリアンとクラウスが、キャルルの両脇に並び立つ。
「へへっ! 安全靴にちょっと傷がついただけだよ! さすがリアンがタローマンで買ってくれた特注品だね!」
キャルルがピースサインを出して笑う。
「……フッ、ボーナス査定(評価)に色をつけておく。お前は少し下がってな」
リアンは、キャルルの頭をポンと撫でると、氷のように冷たい視線を、暗殺者のリーダーへと向けた。
「さて。……余計な茶番を挟んじまったが。これで、俺たちのシマ(身内)に手を出した落とし前、キッチリと払わせる準備が整ったな」
リアンが指の関節をボキボキと鳴らし、クラウスが魔剣の代わりに拳を握りしめる。
逃げ場を失い、最強コンビの圧倒的な殺意を向けられた暗殺者のリーダーは、恐怖に顔を歪めて後ずさった。
「ヒッ……! く、来るな! バケモノ共が……!!」
「……っ」
その時。
背後で安堵の涙を流していたルンベルスが、唐突に胸を押さえ、ガクリと膝をついた。
「ルンベルス!? どうした!」
クラウスが慌てて振り返る。
「ご、ご無事で……。どうやら……先程の暗器の破片が、少しだけ頬を掠めていたようですな……」
ルンベルスの頬に、ツーッと一筋の赤い線が引かれていた。
キャルルが蹴り砕いた毒刃の微細な破片が、飛散した際に彼の皮膚を傷つけていたのだ。
「……強力な、神経毒のようです。手足が、麻痺して……」
ルンベルスの顔色が急速に青ざめ、呼吸が浅くなっていく。
「ちぃッ! まずいぞ、このままでは爺の命が……!」
クラウスが青ざめ、ルンベルスを抱き起す。
「ヒャハハハハハッ!!」
それを見た暗殺者のリーダーが、ここぞとばかりに狂ったような笑い声を上げた。
「ザマァ見やがれ!! 俺の塗った特製の『黒蛇毒』は、掠っただけでも一分で心臓を止める猛毒だァ!! 解毒薬は俺しか持ってねェ! ジジイを助けたければ、這いつくばって命乞いを——」
「……うっさいですわね。三流の悪役みたいな長台詞、耳障りですのよ」
リーダーの勝ち誇ったような言葉を遮るように。
観客席から、トコトコと二つの影が闘技場へと降り立ってきた。
世界樹の神聖な魔力をその身に宿すエルフの次期女王・ルナと。
段ボール製のみかん箱を脇に抱えた、エンジ色の芋ジャージアイドル・リーザである。
「クラウス様、ルンベルス様をこちらへ。……すぐに解毒いたしますわ」
ルナが、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、ルンベルスの前に跪く。
「な、何を馬鹿な! その毒は魔法じゃ絶対に治らねェ! 専用の血清がなきゃ——」
「……アイドルのライブ(治療)の邪魔をするなんて、万死に値するアンチですわね」
リーザが、みかん箱をドンッと地面に置き、強欲に輝く『貧乏神』の瞳でリーダーをねめつけた。
「あんたの持ってるその解毒薬も、隠し持ってる暗器も、ついでにお財布の中身(賞金)も! ぜーんぶ、私が『強制差し押さえ』させていただきますわぁぁっ!!」
最強のアタッカー二人に加え、規格外の能力を持つヒロインたちの連携。
ルンベルスの命を救うための、そして暗殺ギルドを完全に丸裸にするための、Sクラスによる怒涛の【盤外戦術】が、今まさに炸裂しようとしていた。




