EP 2
ルナ・マウス・クライシス! 激流の唾液と、白銀の山脈
ルナの口内——通称『ルナ・マウス・ダンジョン』。
その世界は、人間が想像する「口」という器官の常識を遥かに逸脱していた。
光の粒子となって転送されたリアンたちが最初に遭遇したのは、強烈な湿気と、甘美かつ酸っぱい、腐敗の予兆を孕んだ濃密な空気だった。
「……ッ!? な、なんだ、この……この重力と湿度は……!」
最初に悲鳴を上げたのは、気絶したルナと共にいたはずが、巻き込まれてしまったリーザだった。彼女は芋ジャージのまま、見たこともないほど巨大な『平原』の上に立たされていた。
だが、その平原は静止していない。波打ち、震え、時折、山のように盛り上がっては沈み込む。
「リーザ、落ち着け。そこはルナの『舌』の上だ」
リアンが冷静に周囲を観察しながら告げる。
「湿度100%の過酷な熱帯雨林エリアだな。……おいクラウス、キャルル、無事か」
「うむ……なんとか。しかし、リアン。この光景を見ろ」
クラウスが指差した先には、天を衝くほどの高さでそびえ立つ、純白の峻険な山脈が幾重にも連なっていた。
ルナの『歯』である。
ミクロ化したリアンたちにとって、一本一本の歯は、それこそアルプス山脈にも匹敵する巨大な白い巨岩の柱だった。そして、その山脈の隙間からは、絶え間なく透明な激流が流れ落ちている。
「——唾液の奔流だ。流されたらルナの食道(胃袋)まで直行だぞ。絶対に足を滑らせるな」
リアンは『都市ゲリラ教本』で読んだ、激流地帯の渡河戦術を脳内でシミュレートした。
「リアン君……っ、あっちの奥歯! 見て! あの右下の奥歯の裏側、色が……色が黒ずんでいますわ!」
キャルルが、ウサ耳をピコピコと震わせながら指を差した。
そこには、巨大な白い岩肌にポッカリと口を開けた、闇よりも深い『黒い大穴』があった。
ルナを激痛に陥れた『虫歯の発生源』である。
遠くからでも分かる。あの穴の奥からは、禍々しい酸の匂いと、生者に対する狂気的な殺意が漂ってきていた。
「よし、目標地点を確認。……だが、その前に一つ、このダンジョンの特性を頭に叩き込んでおけ」
リアンは、足元の『唾液の海』に指を突っ込み、その粘度を確かめた。
「ここの唾液は、ただの液体じゃない。消化酵素を含んだ『酸の激流』だ。俺たちをゆっくりと溶かし、栄養分(糖分)として回収しようというルナの免疫システムが働いている。……この激流を突破しつつ、あの白銀の山脈を登るには、相応の装備が必要だ」
リアンは、虚空から【ネット通販】を召喚した。
「影丸、出てこい。俺の図面通りに、この激流を突破するための『多目的・高速移動ポッド』をDIYで組み上げろ」
「シャァ!」
影丸が音速に近い速度で、タローマンから購入した『軽量アルミニウム合金』と『耐酸性コーティング剤』を加工し始める。
影丸の爪は、まるで精密機械のように、わずか数分で流線型の船体を完成させていく。
「さあ、出発だ。あの虫歯の発生源まで、最短距離で突き進むぞ」
Sクラスの面々は、影丸が即興で作り上げた高速ボート(通称:サリバ・スキマー)に飛び乗った。
リアンがエンジンに魔力を流し込む。
ブォォォォォォォォンッ!!
「な、なんて加速ですのぉぉぉっ!!」
リーザがみかん箱を抱えながら、遠心力で振り落とされそうになる。
ボートは、ルナの唾液が作り出す激流を切り裂き、白いエナメル質の壁面を縫うように疾走していく。
時折、巨大な歯と歯の隙間から『猛烈な口腔内洗浄』の突風が吹き荒れ、ボートを転覆させようとするが、リアンは三ツ星スーシェフの包丁捌きで培った反射神経で舵を切り、激流を乗りこなしていく。
「見ろ、あの壁面……ッ!」
クラウスが叫んだ。
巨大な白い岩肌(歯の表面)に、びっしりとこびり付いた『プラーク・スライム』たちが蠢いているのが見えた。
彼らは、ルナの食べたクッキーの糖分を分解し、酸を排出しながら、歯の表面を少しずつ、少しずつ溶かして削っていた。
「……あいつらが、虫歯の先兵か。見栄えは悪いが、あいつらの出す酸が、エナメル質を溶かし、内部の象牙質まで食い荒らしているんだ」
リアンは、冷静にターゲットをロックオンした。
「……おい、リーザ。お前の『貧乏神』の歌で、あいつらの活動を強制的に抑制しろ。動きを止めた瞬間に、影丸の『高圧洗浄機』で一気に吹き飛ばす!」
「任せてくださいませ! ……これでもくらえですわ! 『貧乏神・強制活動停止ライブ』——!!」
リーザがマイクを握り、口の中で歌声を響かせた。
「ああーっ! 今日のライブはここまでぇーっ! ……これより皆様の、貴重な『活動時間』を差し押さえさせていただきますわ!!」
リーザの歌声(精神干渉)が、口腔内に響き渡る。
活動的だったはずのプラーク・スライムたちが、歌声に当てられたかのようにズルリと動きを止め、怠惰に沈んでいく。
「今だ! 影丸、タローマン製『業務用・超高圧洗浄機』を展開!!」
「シャァァァッ!!」
影丸がボートの先端から展開した巨大ノズルから、魔法で圧縮された純水が、ダイヤモンドすら貫く超高圧で噴射された!
ドォォォォォォン!!
プラーク・スライムの群れは、なすすべなく粉砕され、唾液の激流と共に喉の奥へと洗い流されていく。
視界が開けた。
ボートはついに、今回の目的地である『右下の奥歯』の山脈の裾野へと到達した。
「——ここが、全ての根源だな」
目の前には、エナメル質の真っ白な城壁を食い破り、内側の象牙質がドロドロに溶けて巨大な『空洞』と化した、ルナの虫歯の入り口が待ち構えていた。
その穴の奥からは、異様な腐臭と共に、ルナの魔力を貪り食って肥大化した『蟲歯男爵』の気配が、濃厚に漂っている。
「……随分と、深い『仕込み』が必要になりそうだな」
リアンは、空洞の入り口で、手にした帳簿をパタンと閉じた。
そこには、この先で待ち構えているであろう敵軍の構成と、彼らを一掃するための『処方箋』の計算がすべて書き込まれていた。
「キャルル、クラウス。ここからは激戦になる。……ルナの歯髄(神経)を守りつつ、男爵の野郎を物理的に削り取るぞ」
「ああ、承知した。ノブリス・オブリージュの誇りにかけて、ルナの歯を完治させよう」
「私のトンファーで、あの男爵の硬い甲殻ごと粉砕してやるよ!」
Sクラスは、ミクロの決死圏を突き進む覚悟を決める。
巨大な虫歯という名の『体内ダンジョン』。その深淵に眠る蟲歯男爵という名の不良債権を完全解体(治療)するべく、リアンたちは、その黒く開かれた大穴へと一歩、足を踏み入れた。
そこは、ルナの魔力がドロドロに溶け出し、酸の海が煮えたぎる『蟲歯の帝国』であった。
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