第十三章 12歳児の勇者
甘酸っぱいホワイトデーと、世界を滅ぼす虫歯の産声
ルナミス学園男子寮、旧用具室——通称『タコ部屋』。
外ではうららかな春の陽光が差し込み、ポポロ村周辺の緩衝地帯にも穏やかな風が吹いている。かつて麻薬パニックや炎上神のやらせ配信で荒れ狂ったこの拠点にも、束の間の平和が訪れていた。
「……とうとう、俺たちも『12歳』を迎えたか」
リアン・クラインは、自らブレンドしたポポロ・コーヒーの香りを楽しみながら、感慨深げに息を吐いた。
前世の記憶(日本人シェフ・青田優也)を持ったままこのアナスタシア世界に転生し、様々な不良債権(ヤバい敵)を処理してきたが、肉体年齢はいよいよ少年から青年への入り口へと差し掛かろうとしている。
「うむ。思えば、色んなことがあったな」
クラウス・アルヴィンが、窓の外を見つめながら静かに頷いた。
「ノブリス・オブリージュの誇りを胸に、リアンと共に戦い抜いた日々……。時に理不尽な罠(ゲリラ戦術)にドン引きしたこともあったが、すべては我らを成長させる糧となった」
「……そ、そうだな」
リアンは少し照れくさそうに頭を掻き、デスクの下から綺麗にラッピングされた小さな小箱を取り出した。
「ほら、ルナ。こないだのバレンタインデーに、お前から手作りのチョコを貰っただろ。その『お返し(ホワイトデー)』だ。俺が厨房で焼いた特製クッキーな」
「まぁ……っ♡」
世界樹の次期女王候補であるエルフの少女、ルナが、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。
「嬉しいですわ! ありがとうございます、リアン君。三ツ星スーシェフである貴方の手作りクッキー……世界中のどんな金銀財宝よりも価値がありますのよ」
ルナが大事そうに小箱を胸に抱きしめる。
タコ部屋に、甘酸っぱくも温かい、青春のラブコメ空間が広がった。
——しかし、その空気に一人だけ『焦り』を感じている男がいた。
(なっ……!? バレンタインの……お返しだと!?)
クラウスの顔面から、スゥッと血の気が引いていく。
「……ほら、クラウス君」
クラウスの背後から、特注の安全靴を履いた月兎族の村長・キャルルが、ウサ耳をピコピコと揺らしながら、上目遣いでジッと彼を見つめていた。
「私には? 私のお返しは……無い、の……?」
ゴゴゴゴゴゴ……。
キャルルの瞳の奥に、ほんの僅かだが『ヤンデレ(狂化)』の兆候が渦を巻き始めている。相手の心音で嘘を見抜く彼女に対して、適当な誤魔化しは文字通り命取り(月影流・顎砕き)となる。
「な、なに? えっ、えっと、えっとだな……! そ、それは……」
誇り高き次期侯爵が、かつてないほどの冷や汗を流してしどろもどろになる。
剣術や魔法の鍛錬ばかりで、女性への気遣い(エスコート)という貴族の教養を完全に忘却していたのだ。
(くそっ……! 完全に忘れていた! このままではキャルルに殺される……!!)
クラウスが絶望の淵に立たされた、まさにその時。
スッ……。
彼の背後から、リアンが【ネット通販】の極秘機能を使い、音もなく『超高級そうなクッキーの詰め合わせ(王室御用達ブランド)』をクラウスの手に握らせた。
(……!? リ、リアン!! お前という奴は……!!)
(……恩に着ろよ、相棒)
二人の間に、熱い男の友情(無言のアイコンタクト)が交わされる。
「こ、これで! この間のチョコはとても美味しかった! あ、ありがとう、キャルル!!」
クラウスは顔を真っ赤にして、手渡されたクッキーの箱をキャルルに向けて勢いよく突き出した。
「わぁっ……! 嬉しい! えへへ、どういたしまして、クラウス君♡」
キャルルは満面の笑みを浮かべ、ヤンデレのオーラを完全に引っ込めてクッキーの箱を抱きしめた。
「…………何なんですの〜? このピンク色の空気は」
部屋の隅で、みかん箱に座りながら『パンの耳』と『茹で卵』を齧っていた人魚姫リーザが、ジト目で抗議の声を上げた。
「私なんて、バレンタインの日はパチンコ屋で拾った銀玉をチョコと交換しようとして、店長に裏路地に連れ込まれそうになったんですのよ!? この経済格差、どうにかしてくださいませ!!」
極貧地下アイドルの嘆きをよそに、タコ部屋は平和で幸せな時間に包まれていた。
……たった『一噛み』の異変が起きるまでは。
* * *
「ふふっ♡ それでは、リアン君の愛情がたっぷり詰まったクッキー、早速いただきますわね」
ルナは小箱を開け、黄金色に焼き上がったバタークッキーを優雅につまみ上げ、その可憐な唇へと運んだ。
そして、小さく一口、齧り付いた。
——ガリッ!!
その瞬間。
ルナの動きが、彫像のようにピタリと停止した。
「……ん? どうした、ルナ。焼き加減が硬かったか?」
リアンが不思議そうに首を傾げる。前世が三ツ星レストランの副料理長である彼にとって、食感のミスなどあり得ないはずなのだが。
「…………〜〜〜〜ッッ!!」
ルナは、右の頬に両手をバシッと当てた。
そして、その美しいエルフの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出し始めたのだ。
「い、痛い……! 痛いですわ……っ! 歯が……奥歯がぁぁぁっ!! う、ううっ……!!」
「え? ちょ、お前、どうしたんだよ!?」
「ルナ!? 毒でも入っていたのか!?」
リアンとクラウスが慌てて駆け寄る。
だが、ルナの頬を押さえる手はブルブルと震え、彼女はポロポロと涙をこぼしながら、ついに子どものように泣き出してしまった。
「う、うわぁぁぁぁぁん!! 痛いですわぁぁぁぁぁぁっ!!」
——ズズンッ!! ズゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォッ!!
ルナが号泣した瞬間。
タコ部屋の床を突き破り、極太の『茨の蔦』が無数に生え出してきた。
それだけではない。窓の外……ポポロ村を囲む緩衝地帯の森から、地鳴りのような轟音が響き渡り、見たこともないような『巨大な人食い花』や『毒の胞子を撒き散らす怪植物』が、次々と異常繁殖(バグ増殖)を開始したのだ。
「な、なんだ!? 敵の襲撃か!?」
クラウスが咄嗟に魔剣を抜く。
「違う! これは……ルナの魔力が暴走してやがるんだ!!」
リアンが叫ぶ。
世界樹から次期女王として『神託』を受けているルナの感情の乱れは、そのまま世界樹(植物)の意志と直結している。彼女が極限の『痛み』と『悲しみ』を感じたことで、周囲の植物たちが「女王を傷つける世界など滅ぼしてしまえ」とばかりに人類への反乱を開始したのである。
「ルナ! 落ち着け! 俺の料理のせいじゃない、それはただの虫歯——」
「う、うえええええん!! 痛いぃぃぃぃっ!!」
ルナの泣き声が響くたびに、タコ部屋の壁がミシミシと軋み、植物の蔦がクラウスやリーザに巻き付こうと襲い掛かってくる。
「や、ヤバい! このままじゃ世界が滅んじゃう!」
キャルルが特注の安全靴で床を蹴り、一瞬でルナの背後へと回り込んだ。
「ごめんね、ルナちゃん! とぉーっ!!」
ドスッ!!
キャルルは、一切の躊躇なく、ルナの延髄に強烈な【手刀(物理)】を叩き込んだ。
「あ、ふぇ……」
ルナは白目を剥き、バタリと机の上に突っ伏して気絶した。
ピタッ……。
ルナが意識を失った瞬間、部屋中を暴れ回っていた植物たちも、まるで糸の切れた操り人形のように動きを止めた。
「……ど、どうなってやがんだ? 何でたかが虫歯で、世紀末のバイオハザードみたいになってるんだよ?」
リアンが、額に冷や汗を浮かべながらキャルルに尋ねる。
「わ、私、前に聞いたことがあるんだよ」
キャルルが青ざめた顔で説明する。
「ルナちゃんが小さい時に一回だけ虫歯になって泣いたせいで、世界中の植物が暴走して、世界が滅びかけたことがあるんだって! その時は、エルフの腕利き歯医者さんが、首に植物の蔦で絞められながら『ルナ様を泣かせたらブッ殺すぞ』って世界樹から圧をかけられながら治療したらしいよ!」
「なんだそのブラックすぎる医療現場(コンプライアンス違反)は……!」
クラウスが絶句する。
「とにかく、早くこの『虫歯』を治さないと、ルナちゃんが目を覚ますたびに世界滅亡のカウントダウンが始まるよ!」
Sクラスがかつてない理不尽な危機(不良債権)に頭を抱えていた、まさにその時。
バチバチッ!!
タコ部屋の空間が歪み、エンジ色の芋ジャージに健康サンダルを突っ掛けた、アナスタシア世界を統べる駄女神——ルチアナが、慌てた様子で飛び込んできた。
「ちょっと! あんたたち! 今、神界の【世界樹生態系モニター】が真っ赤なエラーを吐いて大パニックになってるんだけど! 一体何をやらかしたのよ!?」
ルチアナがピアニッシモ・メンソールを咥えたまま怒鳴り込んでくる。
「ルチアナ!? ちょうどよかった! ルナが虫歯になって、世界樹が暴走しかけてるんだ。お前の神聖魔法で、さっさと治してやってくれ!」
リアンがルチアナに指示を飛ばす。
「はぁ!? 神が個人の虫歯治療なんてやったら、上位神から始末書を書かされるわよ! ゴッドチューブのコンプライアンス(規約)違反だわ!」
ルチアナは全力で首を横に振った。
「あんたたちで治しなさいよ! いつもみたいに、えげつない盤外戦術で!」
「無理だろ! 俺はCFO(最高財務責任者)と料理人はできるが、歯医者じゃねぇ! 専用の医療器具も麻酔もねぇんだぞ!」
リアンが極めて真っ当なツッコミを入れる。
「うるさいわね! 道具がないなら、直接(物理で)虫歯菌をブチ殺してくればいいじゃない!」
ルチアナは、指に神聖な魔力を集め、パチンッ! と乱暴に指を鳴らした。
「私が今から、あんたたちの身体を『ミクロ化』して、ルナの口の中に直接転送してあげるわ! さっさとその【虫歯の元凶】をやっつけてきなさい!」
「……は? おい、ちょっと待て駄女神! 医療行為を素人に——」
リアンの抗議の言葉は、最後まで続かなかった。
ルチアナの放った光が、リアン、クラウス、キャルル、そしてみかん箱を抱えたリーザを包み込む。
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ! なんで私も道連れなんですのぉぉぉっ!?」
リーザの悲鳴と共に、彼らの身体はみるみるうちに小さくなり——気絶してポッカリと開いたルナの口の中へと、光の粒子となって吸い込まれていった。
残されたのは、気絶したエルフの少女と、ため息をつくジャージ姿の女神だけである。
「まったく……。あのクソ真面目なガオガオンが社内恋愛でダウンしてる時に、次から次へと面倒なこと(バグ)ばかり……」
ルチアナは、ルナの頬をツンツンと突きながら呟いた。
「頼んだわよ、リアン。……世界最悪の虫歯、しっかり『決算(治療)』してきなさいよね」
世界滅亡の危機を救うため。
前代未聞の【口腔内ダンジョン(ルナ・マウス)】を舞台にした、Sクラスによるミクロの決死圏——『カリエス・ウォー』が、今まさに幕を開けたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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