EP 8
奇跡の確率と、真の英雄の煌めき
クリムゾン・ワイバーンの喉の奥で、周囲の岩をも溶かす超高熱の炎が圧縮されていく。
十歳の子供たちには到底防ぎきれない、完全なる『死』の気配。
その絶望の暴風が吹き荒れる中、たった一人、巨大な竜の前に立ち塞がったフルミスリルアーマーの男——フェイト・ラックが弾き上げた真鍮のコインが、スローモーションのように宙を舞っていた。
(馬鹿野郎……! この期に及んでまだギャンブルに縋るのか!)
リアン・シンフォニアは、前世の冷徹な経営者の視点で、そのコインの軌道を絶望的な思いで見つめていた。
(コインの裏表。確率は二分の一。表が出れば能力2倍のバフだが、元のステータスがA級のままじゃ、2倍になったところでクリムゾン・ワイバーンには届かない! 期待値が全く足りてないんだよ!)
だが、リアンの悲痛な計算をよそに。
キラキラと秋の陽光を反射して落下してきたコインは、岩山にある平らな石の上に、カチンッ!と澄んだ音を立てて落ちた。
表か。裏か。
リアンが息を呑んで見つめる先で、コインはピタリと動きを止めた。
「……えっ?」
リアンは、自分の目を疑った。
いや、リアンだけではない。クラウスも、キャルルも、ルナも、リーザも、そして上空のワイバーンすらも、一瞬動きを止めた。
石の上に落ちたコインは、表でもなく、裏でもなかった。
それは、コインの『縁の縦の部分』で、完全に直立していたのだ。
「エッジ……スタンド……!?」
リアンが呆然と呟く。
コインが縁で立つ。風の強い岩山で、そんなことが起きる確率は天文学的数字に等しい。
その瞬間だった。
ピロロロロロロロロロロロッ!!!
フェイトの全身から、先ほどの魔導パチンコ店で鳴り響いていたような、いや、それを遥かに凌駕するファンファーレのような『確定音』が岩山全体に轟き渡った。
『——ユニークスキル【コイントス:ジャックポット】発動』
どこからともなくシステム音声のような響きが降り注ぐと同時。
ドゴォォォォォォォォォォッ!!!
フェイトの身体を中心に、目も眩むような黄金色の闘気が、巨大な柱となって天を衝いた。
白銀のフルミスリルアーマーが、膨大な魔力に当てられて神々しい光を放ち始める。
地面の岩肌が、彼から発せられる圧倒的なプレッシャーだけで、メリメリとひび割れ、粉々に砕け散っていく。
「な、なんだこのデタラメな闘気は……!?」
リアンが、あまりの風圧に腕で顔を覆いながら叫ぶ。
(表で2倍、裏で半減。……じゃあ、もしも『縁で立った』場合の倍率はどうなる!? まさか……!)
「——能力、運気、生命力。すべて『100倍』だ」
黄金のオーラの中から、フェイトの低く、静かな声が響いた。
その声には、普段の情けないギャンブル依存症の面影など微塵もない。圧倒的な力を持った、絶対者の余裕だけが満ちていた。
「100倍だと……!?」
クラウスが震える声で叫ぶ。
基礎ステータスがA級の男に、100倍のバフがかかる。それはつまり、この瞬間だけ、フェイト・ラックという冒険者は、国家の最高戦力であるSランクすら遥かに超越した『SS級(神の領域)』に至っていることを意味していた。
『ギュルルルルルルルルッ!!』
本能で「死の恐怖」を悟ったクリムゾン・ワイバーンが、パニックに陥ったように、口内に圧縮していた超高熱の炎をフェイトに向けて一気に解き放った。
視界を真っ赤に染め上げる、大質量の火炎の奔流。
十歳の子供たちなら一瞬で炭化するその絶望の熱波に向かって、フェイトは一歩も退かず、ただ片手で巨大なミスリルソードを構えた。
「悪いな、デカトカゲ。……今日の俺は、最高にツイてるんだ」
フェイトが、全く力みのない動作で、ミスリルソードを軽く『横に薙いだ』。
シュパァァァァァァンッ!!!
ただそれだけであった。
フェイトの剣から放たれた黄金の斬撃波が、空間そのものを断ち割るかのような凄まじい勢いで走り抜ける。
ワイバーンの放った超高熱のブレスは、まるでモーセの十戒のように真っ二つに切り裂かれ、フェイトの両脇を虚しく通り抜けて岩山を焦がした。
「ブ、ブレスを……剣の風圧だけで斬り裂いた……!?」
クラウスが腰を抜かしてへたり込む。
「さて、俺の『確変』が終わる前に、さっさと精算てやるよ」
ダンッ!!
フェイトが地面を蹴った。
そのスピードは、もはやリアンたちの動体視力では完全に捕捉不可能だった。
黄金の軌跡が宙に一本の線を引いたかと思うと、フェイトの姿はすでに、上空にいたクリムゾン・ワイバーンの背後に『瞬間移動』していた。
「なっ……!?」
ワイバーンが巨大な瞳を見開く。
フェイトは空中で身体を反らせ、ミスリルソードを上段に構えた。
その切っ先に、100倍の出力で膨れ上がった膨大な闘気が一点に収束していく。
「一撃だ。——【ミスリル・クロス:ジャックポット・スラッシュ】!!」
フェイトの渾身の振り下ろしが、クリムゾン・ワイバーンの巨体に叩き込まれた。
鋼よりも硬いはずの真紅の鱗が、まるで薄い紙切れのように抵抗なく両断されていく。
『ギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
断末魔の絶叫と共に。
全長十メートルの巨大な飛竜の身体が、頭から尻尾の先まで、完全に、そして綺麗に『真っ二つ』に切り裂かれた。
ズスゥゥゥゥンッ!!
左右に分かれたワイバーンの巨体が、大量の血と炎の飛沫を撒き散らしながら、岩山に墜落して地響きを立てる。
静寂が、訪れた。
残ったのは、燃え盛るワイバーンの残骸と、岩山の頂上に悠然と降り立った一人の男の姿だけだった。
フェイトは、ミスリルソードについた血糊を軽く振り払って背中の鞘に収めると、懐から『ポポロ・シガレット』を取り出した。
そして、ワイバーンの残骸からくすぶる残り火でタバコに火をつけ、紫煙を細く天に向かって吐き出した。
「ふぅ……。どうやら、今日の運試しは……俺の大勝利みたいだな」
白銀の鎧。咥えタバコ。巨大な竜の死骸を背にして立つその姿。
それはもう、子供たちが憧れる『絵本の中の英雄』そのものであった。
「……す、すごい……すごすぎる……!!」
沈黙を破ったのは、クラウスだった。
彼は感動のあまり大粒の涙をポロポロと流し、フェイトの足元に駆け寄った。
「これぞ真の英雄! 圧倒的な絶望を前にしても決して退かず、一振りの剣で奇跡を体現する! フェイト殿、貴方こそが僕の理想とする『ノブリス・オブリージュ』の完成形です!!」
クラウスが、完全に目をキラキラさせてフェイトを神と崇め始めている。
「おにいさーん! かっこいいー!」
「ふふっ、見事な切断面ですわ。あれなら内臓も綺麗に摘出できますわね♡」
キャルルとルナも、フェイトの周りに駆け寄って称賛の声を浴びせる。
「お肉! 高級な飛竜のお肉ですわーーッ!! 焼肉パーティーですわーー!!」
リーザに至っては、すでに二つに割れたワイバーンの尻尾に齧り付き、歓喜の舞を踊っていた。
「へっ……まあ、A級として、これくらいは当然の仕事だぜ」
フェイトが子供たちに囲まれながら、照れ隠しのように鼻の下を擦り、ニヒルな笑顔を向ける。
(……くそっ)
その光景を少し離れた場所から見ていたリアンは、ズキズキと痛む胃を押さえながらも、小さく息を吐き出した。
(確かに、認めるしかない。あの一撃は、完全に俺の計算を超越した『奇跡』だった。……普段はギャンブル中毒のクソ株だが、いざという時の爆発力だけは、文字通りSS級の優良資産だ)
リアンはショートソードを鞘に収め、冷や汗を拭った。
そして、次に彼の脳内を占めたのは、目の前に転がる巨大な『クリムゾン・ワイバーン』の死骸だった。
(待てよ……? Aランク魔獣であるクリムゾン・ワイバーンの素材……真紅の鱗、飛竜の牙、そして心臓の魔石。これらをギルドに持ち帰って換金すれば……)
リアンの脳内で、猛烈な勢いで損益計算が弾き出される。
チャチャチャチャッ! チーン!!
(白金貨数十枚……いや、数百枚レベルの超特大黒字だ!! 俺たちSクラスお助けクラン、初日でいきなり億万長者(上場)じゃねぇか!!)
リアンの瞳にも、リーザと同じような『$』のマークが浮かび上がっていた。
「やった……! やったぞ!! 倒産の危機から一転、超絶V字回復だ!! さすがは俺が専属契約を結んだA級冒険者! フェイトさん、あんた最高だぜ!!」
リアンもまた、歓喜の声を上げてフェイトのもとへ駆け寄った。
「おっ、リアン社長にも認めてもらえたか! どうだ、俺の言った通り、ギャンブルには夢があるだろ?」
フェイトがガハハと豪快に笑い、リアンの頭をガシガシと撫で回す。
十歳の子供たちと、フルミスリルの英雄。
絶望の淵から生還し、莫大な富と名声を手に入れた彼らの初陣は、これ以上ないほどの最高のハッピーエンド……大勝利で幕を閉じるはずだった。
——そう、この『ギャンブル中毒のポンコツ大人』が、手にした莫大な金(報酬)を前にして、まともな理性を保てるはずがないという『絶対的なリスク』を、リアンがこの瞬間だけ忘れてしまっていたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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