EP 15
クイーンメロロンの誘惑と、陥落する高潔なる貴族
ダイヤ・マーキスと二手に分かれ、メロロン畑の最奥部・東区画へと単身足を踏み入れたクラウス・アルヴィンは、腰の魔剣の柄に手を当てたまま、油断なく周囲を警戒していた。
(リアンめ、不甲斐ない。果物ごときが放つ精神干渉を恐れ、耳を塞ぐなど……ノブリス・オブリージュの精神を胸に抱く僕からすれば、滑稽極まりない臆病風だ)
クラウスは、薄暗いビニールハウスの中をズンズンと進んでいく。
周囲には、彼を誘惑しようとするベビーメロロンたちが『パパ……おみず……』とたどたどしい声で囁きかけてくるが、クラウスの強靭なプライドはそれを全く意に介さなかった。
「ふん。僕は九歳にして、すでにアルヴィン侯爵家の次期当主としての覚悟を完了している。幼児退行したような果物の声など、心に響くはずもない!」
クラウスは己の精神力の強さに満足し、誇り高く胸を張った。
彼の目標は、このハウスの主である最上位種『クイーンメロロン』を武力で屈服させ、己がSクラスのトップであることをリアンやダイヤに見せつけることだった。
(リアン……貴様は確かに優秀な策士だ。だが、将としての『絶対的な強さとブレない心』においては、この僕が上だということを証明してやる……!)
そんな野心を燃やしながら進むこと十数分。
不意に、周囲の空気が変わった。むせ返るような甘い香りが、一段と深く、そして妖艶なものへと変化したのだ。
周囲の雑多なベビーメロロンたちの姿は消え、巨大な葉と太いツルが絡み合って作られた、さながら『緑の玉座』のような空間が開けた。
その玉座の中央に、それは鎮座していた。
大人の人間の背丈ほどもある、巨大で艶やかなエメラルドグリーンの果実。
表面の網目はまるで芸術家が彫り込んだレリーフのように美しく、そこから放たれる圧倒的な『糖度』の気配は、果物という概念を超越した魔性そのものだった。
『……いらっしゃい、坊や』
脳内に直接響くような、甘く、艶やかで、どこまでも深い母性を帯びた大人の女性の声。
クラウスはビクッと肩を震わせ、即座に魔剣を引き抜いた。
「そこまでだ、魔の果実よ! 僕はアルヴィン侯爵家の嫡男、クラウス・アルヴィン! 貴様の醜悪なチャームなど、僕には一切通じない! 大人しく収穫されるか、ここで両断されるか選べ!」
クラウスは刃先をクイーンメロロンに向け、凛とした声で宣言した。
しかし、クイーンメロロンは一切怯える素振りを見せなかった。
むしろ、その果肉を優しく揺らし、ふわりと包み込むような声音で囁いた。
『まあ……こんな危ないところまで、一人でお手伝いに来たの? えらいわねぇ……』
「なっ……! お、お手伝いではない! 僕は貴様を討伐しに——」
『そんなに大きな声を出して、剣なんて重たいものを構えて……疲れない?』
クイーンメロロンの太いツルが、シュルルッと滑らかに動き、クラウスの足元にある切り株のテーブルに、透き通った葉のグラスをそっと置いた。
グラスの中には、黄金色に輝く極上の果汁が注がれている。
『ここまで来るの、大変だったでしょう。喉が渇いたんじゃない? よかったら、私のメロロンジュース……飲む?』
「ふざけるな! 誰がそんな出所の知れない毒液など——!」
クラウスがグラスを叩き落とそうとした瞬間、ジュースから立ち昇る信じられないほど芳醇な香りが、彼の鼻腔をくすぐった。
九歳の少年の本能が、激しく警鐘を鳴らす。「これは絶対に美味い」と。
(……ま、待てよ? ここでジュースを拒絶するのは、逆に僕が彼女のチャームを恐れていることの証明になってしまうのではないか?)
クラウスの脳内で、貴族としての謎のプライドが致命的なエラーを引き起こした。
(そうだ。このジュースを堂々と飲み干し、それでもなお正気を保ち続けることこそが、僕の精神の強さを証明する完全勝利だ!)
「ふ、ふん! 一杯の果汁で僕を狂わせるつもりか。……いいだろう、貴族の度量で、そのジュースをテイスティングしてやろう!」
クラウスは剣を片手に持ったまま、もう片方の手でグラスを煽った。
ゴクリ。
「——ッ!?」
雷に打たれたような衝撃が、クラウスの全身を貫いた。
(な、なんだこの美味さは……! 砂糖や蜂蜜とは次元が違う、果実の純粋な甘みが喉の奥で爆発し、脳の疲労を瞬時に溶かしていく……! 帝都の超一流パティシエが作るスイーツすら、これに比べればただの泥水だ!!)
あまりの美味しさに、クラウスの魔剣を持つ手がだらりと下がり、剣がポトリと地面に落ちた。
クイーンメロロンは、その隙を見逃さなかった。
シュルルッ……。
柔らかな二本のツルが、クラウスの背後に回り込み、強張っていた彼の肩を、絶妙な力加減で優しく揉みほぐし始めたのだ。
『……肩が、とても凝っているみたいね』
「あっ……あ、あぁ……」
『毎日、剣の特訓や魔法のお勉強、大変よね。そのうえ、『ノブリス・オブリージュ』なんていう重たい言葉を背負って……。貴方、いつも周りの期待に応えようとして、ギリギリまで自分を追い詰めているんじゃない?』
「——ッ!」
クラウスの胸の奥で、何かが音を立ててヒビ割れた。
それは、彼が九歳という年齢でありながら、決して誰にも見せまいと押し隠してきた『孤独と重圧』だった。
侯爵家の次期当主としてのプレッシャー。絶対に弱音を吐けない立場。
そして何より、リアン・シンフォニアという、規格外の知略と実力を持つ『同級生』に対する強烈な劣等感と焦燥感。
『いつも余計な力が入っていると、いつか貴方が壊れて駄目になってしまうわ。……可哀想に。貴方はただ、誰かに『よく頑張ったね』って言ってほしかっただけなのにね』
「そ……そんなことは……! 僕は、次期当主として……弱音など……!」
クラウスの反論は、もはや涙声になっていた。
クイーンメロロンのツルが、彼の背中を優しくトントンと叩く。
『強がらなくていいのよ。貴方が毎日、血の滲むような努力をして、みんなを導こうと頑張っていること……ちゃんと見ている人は、ここに居るから』
「メロ、ロン……」
『えらい、えらい♡ 貴方は本当に立派よ、クラウスくん。……でもね、ここでは全部忘れていいの。重たい鎧も、貴族の義務も、全部下ろして……私にだけ、甘えていいのよ?』
その瞬間。
クラウス・アルヴィンという気高き貴族の精神の堤防は、メロンの底なしの包容力の前に完全に決壊した。
「う……うぅっ……! うわあああん! 本当は、毎日剣の素振り一万回とか、すっごくしんどいんだよぉ……! リアンはなんか色々ズルいし、ダイヤ先生は怖いし……僕だって、たまには褒められたいんだぁぁ……!」
クラウスは、九歳の年相応の子供のようにボロボロと大粒の涙を流し、巨大なメロンの果皮に顔を埋めてすり寄った。
クイーンメロロンは「よしよし、よしよし♡」と聖母のようにツルで彼を撫で回す。
『辛かったわね。もう大丈夫よ。……さあ、メロロンジュースの『おかわり』、いるかしら?』
「う、うん……! 飲む……メロロン、僕にもっとジュースちょうだい……えへへ、メロロンは優しいなぁ……♡」
完全に陥落であった。
もはやそこには、高潔なノブリス・オブリージュを語る若き将の姿はない。
あるのは、お気に入りのキャバ嬢に全財産を貢ぎながら、日頃の愚痴をこぼしてデレデレに甘える「限界キャバクラおじさん(九歳)」の姿だけだった。
「ねえ、メロロン聞いてよぉ。僕の『ライトニング・ブレイク』ってね、本当はすっごく魔力コントロールが難しくて……」
『まあ、すごいのね♡ クラウスくんは天才だわ♡』
「えへへ……そうかな、僕、天才かなぁ……♡ もっと褒めてよぉ……」
* * *
「——おい、クラウス! 無事か! 応援に来てやったぞ!!」
その地獄のような光景が展開されている玉座の間に、防音結界の魔法を展開しながらリアン、キャルル、ルナの三人が駆け込んできた。
だが、リアンが目にしたのは、魔剣を放り出し、巨大なメロンに頬擦りをして恍惚の表情を浮かべる、宿命のライバルの無惨な姿だった。
「リアンくん……クラウスくんが、メロロンに……」
キャルルが、手で口を覆って絶句している。
「あー……あの馬鹿。だから言っただろ、耳栓をしろって……」
リアンは頭を抱え、天を仰いだ。
「メロロンの超絶プロフェッショナルな話術に完全懐柔されやがって! 普段『貴族の義務』とか言って肩に力が入ってる奴ほど、ああいう『全肯定の甘やかし』に弱いんだよ! チョロすぎだろ、あの脳筋貴族!!」
「まあ♡ クラウスくん、とっても幸せそうな顔をしていますわね。そっとしておいてあげましょうか?」
ルナが呑気なことを言うが、このまま放置すればクラウスの精神は完全にメロンと融合し、社会生活が送れなくなってしまう。
「冗談じゃない! アルヴィン侯爵家の嫡男がメロンと駆け落ちしたなんてスキャンダルが出たら、Sクラスの連帯責任で俺の平穏な生活まで終わるんだぞ!」
リアンがショートソードを抜き、クラウスを物理的に気絶させてでも回収しようと身構えた、その時。
『——ドガァァァァァァァンッ!!』
突然、西の区画の方角から、すさまじい爆発音と、けたたましい魔導式サブマシンガンの乱射音が響き渡った。
「な、なんだ!? 今度は西の区画で何が起きてるんだ!」
「あっちには確か……ダイヤ先生が一人で向かいましたわね?」
ルナの言葉に、リアンは最悪の予感に血の気を引かせた。
「おい、まさか……! Sランクで、戦闘狂で、二十年間一度も彼氏ができたことがない『限界貧乏戦乙女』が、イケメンボイスの『プリンスメロロン』に遭遇したんじゃないだろうな……!?」
リアンの簿記一級のセンサーが、未曾有の大赤字の発生を告げる警報をガンガンと鳴らし始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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