第十章 9歳児の勇者
ルナミス帝国の誇る最高教育機関、ルナミス学園。
三歳のスキル検査と五歳の魔力検査を突破した選ばれしエリートたちが集うこの学園で、リアン・シンフォニアは無事に九歳の誕生日を迎え、「中等部」へと進級していた。
とはいえ、彼らの日常の拠点は、きらびやかな学生寮のラウンジでも、格式高い図書室でもない。学園の敷地の片隅にある使われていない旧用具室——通称「タコ部屋」であった。
広さは六畳ほど。謎のガラクタと、ネット通販でリアンが買い揃えた安物の家具が雑然と配置されたこの秘密基地には、今日もルナミス帝国における規格外の曲者たちが集まっていた。
「……おいリーザ、お前いま、シレっとそのタコ焼き器の穴に何を入れようとした」
鉄板から立ち上る香ばしいソースと出汁の香りを遮るように、リアンは手にした菜箸でピタリと動きを止めた。
視線の先には、帝国のアイドルブーム終焉の煽りを諸に受け、ルナミスデパートの特売品である芋ジャージに健康サンダルという極限の姿を晒している海中国家シーランの王女、リーザの姿があった。
「タコですわ! どこからどう見ても新鮮なタコですわ!」
「嘘をつけ。そのドス黒くて毛が生えてる得体の知れない肉塊はなんだ。どう見ても海産物じゃないだろ」
「失礼ですわね! これは今朝、タローソンの裏口で廃棄弁当を巡って、野良犬のボス『マダラ』と血で血を洗う死闘の末に勝ち取った、由緒正しきタンパク質ですわ!」
「それをタコ焼き器に入れるな! 俺の前世(三ツ星シェフ)の矜持が許さん! そもそも保健所の許可が下りねぇよ!」
リアンが鋭く菜箸でリーザの謎肉を弾き飛ばすと、今度は反対側から、ふわふわのフリルドレスを身に纏ったエルフの次期女王候補、ルナが満面の笑みでタコ焼き器に手を伸ばしてきた。
「まあまあ、リアンくんもリーザちゃんも喧嘩はダメですわよ? お肉がダメなら、私が生成したアツアツのお野菜を入れましょう♡ 皆さんの健康のために、栄養満点の根菜を用意しましたの!」
「……待てルナ。お前が掴んでるそれ、さっきから『ギャアアアアッ!』って叫んでるんだが」
「あら、新鮮な証拠ですわ♡ 世界樹の森で採れたての、人参マンドラちゃんの幼体ですもの。タコ焼き器の熱でじっくり焼けば、きっと悲鳴も甘〜い子守唄に変わりますわ」
「変わるかバカ! 鼓膜が破れるわ!」
リアンが絶叫したその瞬間。
「——月影流、鐘打ち」
涼やかな声と共に、ディスカウントショップ『タローマン』で購入された特注の安全靴が閃いた。
月兎族のポポロ村村長、キャルル・ムーンハートが、コンパクトなモーションから放った強烈な回し蹴りが、ルナの手にあった人参マンドラをピンポイントで弾き飛ばした。
マンドラは「ギャアアアア!」と断末魔を上げながらタコ部屋の窓を突き破り、そのまま星となって消えていった。
「もう、二人ともダメよ? リアンくんがせっかく作ってくれた生地が台無しになっちゃうじゃない」
キャルルは人参柄のお手製ハンカチで額の汗を拭いながら、まるで『星の王子様』のような純真無垢な笑顔を浮かべている。しかし、その足元に装備された安全靴には、今の一撃で微かな闘気の残滓が立ち昇っていた。
彼女の物理ツッコミは、一切の無駄がなく、そして致命的である。
「キャルルの言う通りだ。食の秩序を乱す者は、私がこの剣で両断する」
部屋の隅で腕を組んでいたのは、アルヴィン侯爵家の嫡男、クラウス・アルヴィンである。
彼の高潔なノブリス・オブリージュの精神は、なぜかタコ焼きのルール遵守にもいかんなく発揮されていた。
「大体、タコ焼きというものは、正統なる手順と素材によってのみ完成する。それを野良犬の戦利品や悲鳴を上げる植物で汚染するなど、貴族の……いや、人としての道に反する行いだ」
「クラウス、お前は少し黙ってろ。タコ焼きに貴族の義務を持ち込むな」
リアンは深いため息を吐きながら、前世の記憶と手腕を駆使し、流れるような手つきで千枚通しを操った。
外はカリッと、中はトロッと。絶妙な火加減で焼き上げられた正統派のタコ焼きが、次々と皿に盛られていく。ソースとマヨ・ハーブの香りがタコ部屋に充満し、リーザの腹の虫が「ギュルルルル!」と帝国軍の進軍ラッパのような音を鳴らした。
「さ、食え。熱いから気をつけろよ」
「いただきますわーーーッ!!」
リーザが芋ジャージの袖を捲り上げ、猛然とタコ焼きに食らいつく。ハフハフと熱がりながらも、その顔には涙すら浮かんでいた。
「美味しい……! お金を出さなくてもこんなに温かくて美味しいものが食べられるなんて、ここは天国ですの……!」
「お前、いい加減にアイドル路線に戻る努力をしろよ……」
リアンは呆れながら、自らもタコ焼きを口に運んだ。
五人がタコ焼きを囲み、束の間の平穏な時間が流れる。ふと、クラウスが手元の陽薬茶のグラスを置き、真面目な顔で切り出した。
「そういえばリアン、そろそろ夏季休暇に入るな。お前はどうするつもりだ?」
「あ? そうだな……」
リアンはタコ焼きを飲み込み、少し面倒くさそうに首を掻いた。
「実家のシンフォニア領に帰るかな。親父とお袋の顔も、たまには見に行かねぇと煩いからな。それに、領地の帳簿も確認しておきたいし」
簿記一級の血が騒ぐのか、リアンの目には少しだけ冷徹な計算の光が宿っていた。
その発言を聞いた瞬間、タコ焼きを頬張っていたリーザの動きがピタリと止まった。
彼女の瞳孔が見開き、手から爪楊枝がポロリとこぼれ落ちる。
「……えっ?」
「ん? なんだよ」
「リアン様が、実家に帰る……? じ、じゃあ……夏季休暇中の、私の食費は……誰が面倒を見てくれるんですの!?」
リーザの悲鳴がタコ部屋に響き渡った。彼女にとって、リアンという最強の炊き出し元が帝都からいなくなることは、すなわち「死」を意味する。
「お前なぁ……毎日学園の図書館にでも通えば、給食くらい出るだろ。それかタローソンの裏で野良犬と縄張り争いを続けるんだな」
リアンは無慈悲に言い放った。彼はコストパフォーマンスに厳しい。働かざる者食うべからず、だ。
「そんな……! 給食だけじゃ一日一食ですわ! 育ち盛りのアイドルが餓死してしまいますわ! お願いですリアン様、私をペットとして実家に連れて帰って——」
リーザが芋ジャージの膝を擦りむきながらすがりつこうとしたその時、彼女の肩をポンと優しく叩く手があった。
振り返ると、そこには後光が差しているかのような、天使のように愛らしいルナの笑顔があった。
「大丈夫ですわ、リーザちゃん♡」
「ル、ルナ……! まさか、ルナが私を養ってくださるんですの!?」
「ええ! お金に困っているなら、私、いつでも相談に乗りますからね♡」
ルナは両手を胸の前で合わせ、世界樹の加護を受けた聖女の如き慈愛に満ちた声で、こう告げた。
「まずは、リーザちゃんのその新鮮な『腎臓』を、ゴルド商会の闇ルートで売り払ってあげる! 大丈夫、私がすぐに最上級の自然魔法で新しい腎臓を再生させるから! これを夏季休暇の間に一日五十回繰り返せば、リーザちゃんは一生遊んで暮らせる大富豪ですぅ♡ さあ、今すぐここで抉り出しようね!」
ルナの右手から、極太の鋭いツタがメスのように生成され、シャキン!と冷たい音を立てた。
その純度百パーセントの善意と、完全に狂いきったコンプライアンス違反の提案に、リーザの顔面から一瞬にして血の気が引いた。
「い、いやああああああああああああッ!! 寄るなァ! 私の臓器は絶対に売らないからーーーッ!!」
脱兎のごとく——いや、人魚の如き素早さで、リーザはタコ部屋の窓から弾丸のように飛び出していった。
「ああっ、リーザちゃん! 逃げなくても痛くないから!」
ルナが満面の笑みでツタを振り回しながら、窓枠を乗り越えてリーザを追いかけていく。
「……はぁ」
残されたタコ部屋で、リアンは冷めたタコ焼きを口に放り込みながら、深く、深い溜め息を吐いた。
「まあ、休暇中はアイツらのアホなノイズから解放されるだけでも良しとするか」
キャルルはマイペースにタコ焼きを頬張りながら『聖獣機神ガオガオンの社内恋愛事情は辛いよ』の文庫本を開き、クラウスは壁に向かって「タコ焼きに宿るノブリス・オブリージュとは何か」を真剣に自問自答し始めている。
リアンは愛用のバックパック型魔法ポーチを肩に担ぎ、タコ部屋の扉を開けた。
「じゃあな、お前ら。休み明けに生きてたらまた会おうぜ」
こうして、ルナミス学園中等部、最初で最後の平穏な(?)タコ焼きパーティーは終わりを告げた。
リアンはこれから、実家であるシンフォニア男爵家で待ち受ける「脳筋両親の政治的危機」という、新たな損益計算と向き合うことになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
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