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5 おうたの じかん

顔面に押された【さとう】の油性スタンプがまだうっすらと残る翌日。

俺は保育室のアップライトピアノの前に座っていた。


「よし、みんなー! お歌の時間を始めるよー! ピアノの周りに集まってー!」


「ほげー!」

「ほげっ、ほげ!」


俺の声に反応して、パンパース一丁の龍、クマのぬいぐるみを小脇に抱えた徹、

そしてひよこ柄スモックがはち切れそうな悟がドスドスと集まってきた。


見た目は完全に「これから組事務所で始まる緊急幹部会」だが、

全員の目はキラキラと輝いている。

無邪気なのが救いだ。本当に。


「じゃあ、まずは『チューリップ』からいってみようか。さん、はい!」


俺がピアノを弾き始めると同時に、3人が一斉に力強く大声を張り上げた。


「ほーーーげーーー!!!(咲いたー!!!)」

「ほ、ほげげーーー!!!(並んだー!!!)」


ズゥゥゥゥン……!!


保育室の窓ガラスがビリビリと激しく震えた。

190センチの悟を筆頭に全員が地鳴りのような超重低音で

「ほげ」を大合唱し始めたのだから、そりゃそうもなるだろう。


可愛い童謡のはずなのに、

地獄の底から響いてくるデスボイスのハモりにしか聞こえない。

近所の犬たちが一斉に遠吠えを始めたのが壁越しに伝わってくる。


「声! 声が大きすぎるよみんな! あと低すぎる!

 もっと優しく、可愛く『ほげ♪』って言ってごらん?」


「ほげ……?」


龍が首を傾げ、ごつい指を口元に当てて「はて?」というポーズを取る。

仕草は最高に可愛いのだが、その顔だとむしろ威圧感は増すばかりだ。


ーーー


「よし、次は楽器を使ってみよう! はい、みんなにカスタネットとタンバリンね」


俺が赤と青のプラスチック製カスタネットを配ると、

徹の目がキラリと鋭く光った。


カチカチカチカチッ……!


「ちょ、徹くん!? 速い速い!!」


かつて「神速の徹」と呼ばれた男の指技が炸裂した。

残像が見えるほどの猛烈なスピードでカスタネットが乱打され、

もはや打楽器の領域を超えて『乾いた銃撃戦の音』にも聞こえてくる。


一方、悟はタンバリンを両手でじっと見つめていた。

おしゃぶりをチュパチュパと吸いながら、

何かを思い出そうとするように首をひねっている。


(お、悟くんは大人しくリズムを取ってくれるかな……?)


淡い期待を抱いた次の瞬間。

悟はタンバリンを右手にペタッと貼り付けるように構え、


「ほげぇい!!!」


パーーーーーンッ!!!


乾いた破裂音が室内に轟いた。

悟の放った凄まじい「一本締め」により

プラスチック製のタンバリンは見事に粉砕され、

破片と金属のシンバルが虚空を舞った。

退行してもなお、狂犬の掌底威力は健在だったらしい。


「あああああ! 俺の自腹で買ったタンバリンがぁぁぁ!!」


「ほげ? ほげぇ……(壊れちゃった……)」


壊れたおもちゃを見て、悟の大きな目がみるみるうちに涙で潤んでいく。

マズい、世界滅亡レベルの超重低音大号泣(イヤイヤ期)が来る――!


「あーっ! 大丈夫! 大丈夫だから泣かないで悟くん!

 ほら、先生のピアノを見て! アンパンマン弾くから!」


俺は必死の形相で鍵盤に飛びつき、全力で前奏を弾き始めた。


「そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び~♪」


俺が声を張り上げて歌うと3人の動きがピタッと止まった。

涙目を引っこ込めた悟、カスタネットの残像を止めた徹、

そして龍が、じっと俺の指先と顔を見つめている。


「ほげ……?」


龍がふらふらとピアノに近づいてきて

俺の太ももにどすんと大きな頭を乗せてきた。

甘えているのだ。

徹もカスタネットを置いて俺の背中にそっと寄り添う。

最後に悟がおしゃぶりを咥え直して

ピアノの横で嬉しそうに体を左右に揺らし始めた。


「ほげー、ほげー、ほげほげぇ……♪」


今度の「ほげ」はさっきの地鳴りのような咆哮とは違い、

とても穏やかで、どこか温かい響きだった。

拙いリズムで俺のピアノに合わせて一生懸命に歌おうとしてくれている。


顔はまだスタンプが残り、おもちゃは粉砕され、耳はキーンと鳴っているけれど。

俺の周りで小さな子供のように音楽を楽しんでいる彼らの笑顔を見ていると、

不思議と「まぁ、いっか」と思えてしまうのだった。


ーーー


【園長からの連絡帳メモ】

守先生、お歌の時間のご指導お疲れ様でした。

悟くんのタンバリン破壊の件ですが、弁償代は園の雑費から出しておきますね。

なお、通りすがりの方から

「保育園から地響きと銃声のような音が聞こえた後、

急に感動的な聖歌隊のような歌声が聞こえてきて情緒がおかしくなりそうだ」

との連絡がありました。

次回は音量をマイナス30デシベルほどでお願いします(^-^)


ーーー


「はーい、お歌の時間はこれでおしまい! みんなよくできました! ハグしよ!」


「「「ほげーーー!!!」」」


一斉に突き進んでくる合計体重250キロ超の猛烈なタックル。

俺はピアノの椅子ごと後ろに吹き飛びながらも、

彼らの無邪気な「ほげ(先生だいすき)」を受け止めるのだった。


腰の骨が悲鳴を上げているが、俺の保育士ライフは明日もやっぱり終わらない。


続く

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