第5章 隠された世界
病院からの帰り道。
夜風は冷たかった。
カイトとクルミは静かな街を歩いていた。
いつもより人通りが少ない。
カイトはクルミから聞いた話を頭の中で整理していた。
糸。
アクマ。
寄生体。
そして、普通の人間には見えないもう一つの世界。
どれも現実とは思えなかった。
家に入った瞬間――
クルミは勢いよくソファへ飛び込んだ。
「疲れた~……」
カイトの眉がぴくりと動く。
「何に疲れたんだよ。全部俺がやっただろ」
クルミは得意げに自分を指差した。
「果物を盗んで食べた」
「……全然役に立ってない」
クルミは完全に無視した。
「ご飯作って」
カイトは大きくため息をつく。
「分かった。でも手伝えよ」
クルミが即座に起き上がる。
「え?」
「野菜切って」
彼女の表情が真剣になった。
「……やだ」
「やるんだよ」
「やだ」
「手伝わないならご飯なし」
クルミは裏切られたような顔をした。
「アクマ……」
「お前に言われたくない」
十分後――
クルミは不機嫌そうに包丁を握っていた。
「これ危ない……」
「ただの包丁だろ」
クルミは慎重にニンジンを切ろうとする。
スッ――
「いたっ!」
カイトは振り返った。
「……もう指切ったのか?」
「切ってない」
指から血が流れている。
「……それ血だよな」
クルミは慌てて背中に手を隠した。
「向こうから攻撃してきた」
「ニンジンは攻撃しない」
カイトは深くため息をつきながら応急処置をした。
その後もクルミは文句を言い続けながら野菜を切った。
当然、ものすごく下手だった。
やがて――
料理が完成した。
二人は食卓につく。
カイトは満足そうに頷いた。
「やっと食べられる……」
しかし。
瞬きをした次の瞬間。
皿が空になっていた。
クルミは幸せそうに椅子へもたれかかる。
「美味しかった」
カイトは無表情になった。
「……また全部食べたな」
「少し残ってる」
茶碗の隅に米粒が数粒だけ残っていた。
カイトのこめかみに青筋が浮かぶ。
次の瞬間――
彼はテーブルを飛び越えた。
「なんでそんなに食うんだよ!!」
クルミの頬がぐにーっと伸びる。
「むふぅーっ!?」
「もう俺のご飯を盗ませないからな!!」
数秒後。
カイトは敗北した。
結局、残り物を食べながら静かに座る。
しばらく沈黙が続いた。
やがてカイトがぽつりと呟く。
「……俺、小さい頃に両親がいなくなったんだ」
クルミは静かに瞬きをする。
カイトはテーブルを見つめながら話し始めた。
母のこと。
父のこと。
孤児院。
祖父。
学校でのいじめ。
そして――
ヒーローになりたい夢。
全部。
クルミは黙って聞いていた。
だが。
突然、吹き出した。
「ふふっ……」
カイトが固まる。
「……は?」
クルミは笑いをこらえられなかった。
「本当にまだヒーローになろうとしてるの?」
カイトはゆっくり立ち上がる。
「……もういい」
怒ったまま自分の部屋へ向かった。
背後でクルミの笑い声が止まる。
「……待って」
カイトは振り返らない。
少し間を置いて。
クルミが小さな声で言った。
「……ごめん」
カイトは階段の前で足を止める。
家の中が静まり返った。
やがて彼は窓の外を見ながら言った。
「……人を助けたいんだ」
クルミは少しだけ目を見開く。
「まだこの世界のことはよく分からない」
「でも――」
夜空を見上げる。
その瞳に強い意志が宿る。
「もしアクマが人を傷つけてるなら」
「俺が止める」
「ヒーローになる」
しばらくの沈黙。
クルミは黙って彼を見つめた。
そして突然――
微笑む。
「無理」
カイトの希望に満ちた表情が消えた。
「……は?」
クルミは指を差した。
「冗談」
青筋。
「……出ていけ」
「え?」
「俺の部屋から出ていけぇぇぇ!!」
バタンッ!!
勢いよくドアが閉まる。
クルミは閉じられたドアを見つめていた。
そして小さく笑う。
「……面白い子」
◇ ◇ ◇
翌朝。
森の近くにある空き地。
カイトは汗だくになりながら訓練していた。
クルミは木の枝に座り、お菓子を食べている。
「ちゃんと教えてくれよ!!」
カイトが叫ぶ。
クルミは大きなあくびをした。
「まず自然の糸を感じる」
「どうやって?」
「手で掴む」
カイトは無表情になった。
「説明が雑すぎる」
その後数時間。
瞑想。
素振り。
深呼吸。
目を閉じる。
ありとあらゆる方法を試した。
だが。
何も起きない。
一度も成功しなかった。
やがて――
クルミの表情が少し変わった。
「……変」
カイトが見上げる。
「何が?」
次の瞬間だった。
クルミの身体から紫色の糸が広がる。
糸はカイトを包み込み、そのまま胸の中へ入り込んだ。
カイトの目が見開かれる。
そして――
クルミの意識は、カイトの内側にある暗闇へと引き込まれた。
静寂。
何もない空間。
その奥で。
彼女はそれを見た。
巨大な封印。
銀色の鎖が何重にも絡みつき、
カイトの心臓を封じている。
クルミの瞳がわずかに見開かれた。
「……」
ゆっくりと鎖へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間――
ドォォォォンッ!!
封印から凄まじい力が爆発した。
衝撃波がクルミを吹き飛ばす。
彼女は地面を転がるように後退した。
目を大きく見開く。
「……何……?」
「お前の糸は弱すぎる」
クルミは静かに言った。
カイトは固まる。
沈黙。
ゆっくりと自分の手を見る。
「……じゃあ」
声が少し震えていた。
「……俺はどうやってヒーローになればいいんだ?」
その時だった。
初めてクルミの表情が少しだけ柔らかくなる。
「私が手伝う」
カイトは瞬きをした。
「……なんで?」
クルミは腕を組む。
「ご飯のため」
カイトは数秒間黙った。
「……本当にお前ってやつは」
クルミは近くの大きな岩を指差す。
「私の力を一パーセントだけ貸してあげる」
紫色の糸がカイトの腕を包み込んだ。
「壊してみて」
カイトは緊張しながら岩へ近づく。
「……殴るだけでいいのか?」
「うん」
深呼吸。
そして全力で拳を叩き込む。
ドンッ!!
何も起きなかった。
クルミはため息をつく。
「普通の人間なら、基礎を覚えるだけで一か月はかかる」
カイトは痛む拳を押さえた。
「無理だろこんなの……」
その時――
ピシッ。
二人とも動きを止めた。
小さな亀裂が岩に走る。
カイトの目が見開かれる。
「……え?」
「割れた?」
クルミは黙って岩を見つめていた。
そして。
ゆっくり笑う。
「……面白い」
心の中で一つの考えが浮かぶ。
この子、本当に特別かもしれない。
◇ ◇ ◇
その頃。
森の奥の影の中。
一人の男が静かに二人を見つめていた。
顔は闇に隠れている。
その時。
クルミが違和感を覚えた。
「……?」
視線を森へ向ける。
だが何もない。
風が吹いているだけだった。
数秒後。
彼女は視線を戻す。
気のせいだろう。
そう思った。
しばらくして――
近くの道路を数人の学生が歩いてきた。
カイトはすぐに気付く。
学校で自分をいじめている連中だ。
一人が大声で笑う。
「おーい! 今日もヒーロー修行か?」
周囲が爆笑した。
カイトは静かに拳を下ろす。
クルミは冷たい目で彼らを見る。
「……殺す?」
カイトの目が飛び出しそうになった。
「はぁ!?」
「ダメだ!」
クルミは舌打ちした。
「弱気」
やがて不良たちは笑いながら去っていく。
カイトは少しだけ俯いた。
だが。
再び拳を握る。
そして訓練を続けた。
夕方になる。
空がオレンジ色に染まる。
やがて夜。
風が木々を揺らした。
その瞬間――
クルミの顔色が変わる。
「……カイト」
「ん?」
「避けて」
次の瞬間だった。
ドォォォォン!!
巨大な何かが空から落下する。
さっきまでカイトがいた場所が吹き飛んだ。
カイトは息を呑む。
そこにいたのは――
巨大なアクマ。
今までとは比較にならないほど禍々しい。
全身から黒い糸が噴き出している。
「……なんだよ、あれ……」
クルミは即座にカイトの身体へ融合した。
だが。
アクマの方が速かった。
ドガァッ!!
拳がカイトの腹へ直撃する。
「がはっ!?」
身体が吹き飛ぶ。
地面を何度も転がった。
激痛。
息ができない。
それでも立ち上がる。
紫色の糸を拳へ集中させる。
「うおおおおっ!!」
全力の一撃。
しかし。
アクマは簡単に回避した。
鋭い爪が顔面へ迫る。
その瞬間――
一つの手が攻撃を止めた。
時間が止まったようだった。
そこには一人の男が立っていた。
ダークグレーのパーカー。
穏やかな笑顔。
まるで目の前の怪物など脅威ですらないような態度。
男は片手でアクマの頭を掴む。
そして――
握り潰した。
バキッ。
アクマは闇となって消滅する。
カイトの瞳が大きく見開かれた。
「……え?」
クルミがカイトの身体から飛び出す。
そして初めて――
彼女の顔に恐怖が浮かんだ。
「……どうして」
「糸が見えない……?」
男はゆっくり彼女を見る。
「へぇ」
目が細くなる。
「小さなお嬢さんか」
二人とも凍り付いた。
クルミは即座にカイトの身体へ戻る。
カイトは反射的に走り出した。
だが。
次の瞬間。
男が目の前に立っていた。
「――ッ!?」
恐怖で身体が動かない。
カイトは全力で拳を放つ。
持てる糸を全て込めた一撃。
しかし。
男は人差し指一本で受け止めた。
沈黙。
カイトの思考が停止する。
「……ありえない」
その隙に。
クルミが背後から襲いかかった。
紫色の糸が爆発する。
男の腕が吹き飛んだ。
だが――
一秒後。
完全に再生した。
男は平然と腕を動かす。
そして。
「うるさいな」
ドガァァァン!!
拳がカイトの腹にめり込んだ。
カイトは木まで吹き飛ばされる。
口から血が溢れる。
視界が揺れた。
立ち上がることもできない。
その時。
男の周囲に奇妙な色の糸が現れる。
コズミック・ラテ色。
見たことのない糸だった。
その糸がカイトの身体を拘束する。
全く動けない。
クルミも強制的に身体の中へ戻された。
男は静かにカイトの襟を掴む。
そして――
二人の姿は消えた。
◇ ◇ ◇
暖かな陽射し。
カイトはゆっくり目を開ける。
「……うっ」
腹の痛みが蘇った。
戦い。
謎の男。
アクマ。
全てを思い出す。
カイトは慌てて立ち上がった。
「……ここは?」
部屋の外へ出る。
そして。
完全に固まった。
目の前には巨大な訓練施設が広がっていた。
何十人もの少年少女たち。
炎を操る者。
糸を操る者。
見たこともない能力を使う者。
全員が訓練している。
カイトは呆然と呟いた。
「……なんだよ」
「ここ……?」
彼の知らない世界が、
今まさにその姿を現そうとしていた。




