第4章 ヒーローの約束
朝の陽射しが窓から差し込んでいた。
カイトはゆっくりと目を開ける。
「……うぅ……」
全身が痛い。
しばらくの間、彼はぼんやりと天井を見つめていた。
だが次の瞬間――
昨夜の出来事が一気によみがえった。
アクマ。
紫の糸。
クルミ。
カイトは勢いよく身体を起こした。
「待っ――!」
全身に激痛が走る。
「いだだだだ……」
慌ててシャツをめくり、自分の胸を見る。
傷はほとんど治っていた。
薄い痕が残っているだけだ。
「……俺、一体何なんだよ……」
その時。
ふわりと食べ物の匂いが漂ってきた。
カイトは瞬きをする。
「……ご飯?」
不思議に思いながら階段を下りる。
そして――
固まった。
キッチンにはクルミがいた。
カイトの大きめのシャツをパーカー代わりに着て、フライパンで何かを作っている。
「ん?」
クルミがこちらに気付いた。
「あ、おはよう」
カイトは呆然と彼女を見つめる。
「……まだいたのか?」
クルミは少しだけ頬を膨らませた。
「助けてもらったから、お礼しようと思って」
カイトは目を細める。
「……なんか嘘っぽいんだけど」
クルミは完全に無視した。
数分後――
カイトは食卓に座っていた。
目の前には真っ黒な料理が置かれている。
しかも煙が出ていた。
「……なんで煙出てるんだ?」
「食べて」
「急に食欲なくなった」
「食べて」
圧がすごい。
カイトは恐る恐る一口食べる。
沈黙。
そして――
顔色が一瞬で青くなった。
口を押さえる。
「……お、俺……吐きそう……」
クルミの表情がゆっくり曇る。
「……美味しくない?」
部屋の空気が重くなった。
カイトは反射的に背筋を伸ばす。
「ち、違う! 最高に美味しい!」
涙を堪えながら二口目を口に押し込む。
クルミは満足そうに頷いた。
「当然」
数分後。
カイトは牛乳パックを手に取る。
空だった。
ゆっくりとクルミを見る。
「……牛乳も全部飲んだのか?」
クルミは視線を逸らした。
「……たぶん」
カイトは深くため息をつく。
「買いに行ってくる」
するとクルミが即座に立ち上がった。
「私も行く」
「ダメ」
「行く」
「ダメ」
「行く」
カイトは頭を抱えた。
「……なんでずっと付いてくるんだよ」
クルミは腕を組む。
「行きたいから」
「理由になってない!」
当然のように無視された。
しばらくして――
二人は朝の街を歩いていた。
学生たちは学校へ向かい、
会社員たちは談笑しながら歩いている。
どこにでもある平和な朝。
だが今のカイトには見えていた。
人々の周囲を漂う糸。
白。
青。
灰色。
様々な色の糸が街中を流れている。
その時だった。
クルミが突然立ち止まる。
目がキラキラと輝いた。
「……メロンパン」
「は?」
次の瞬間。
店の棚に置かれていたメロンパンがふわりと宙に浮いた。
カイトの目が見開かれる。
「ちょっ、待て待て待て――!」
遅かった。
メロンパンは空中で少しずつ消えていく。
まるで透明人間が食べているように。
店主のおじさんがカイトを指差した。
「おい! 金払え!」
「ち、違う! 犯人はこっち――!」
隣を指差す。
だが誰もいない。
店主は首を傾げた。
「……誰だ?」
カイトが固まる。
クルミは隣で幸せそうにメロンパンを食べ続けていた。
周囲の人々がヒソヒソ話し始める。
「……あの子、一人で喋ってない?」
「ちょっと怖いんだけど……」
カイトは魂が抜けそうになった。
「……終わった……」
結局、何度も謝罪し、メロンパン代を支払うことになった。
その後。
カイトはクルミを引きずるように連れて行く。
「なんで誰にも見えないんだよ!?」
クルミは首を傾げた。
「見えないから」
「説明になってない!」
それからも二人は市場を歩き回った。
屋台。
おもちゃ屋。
ゲームセンター。
クルミはまるで初めて世界を見る子供のように目を輝かせている。
その一方で。
カイトの体力はどんどん削られていった。
やがて夕方。
街に灯りがともり始める。
空はオレンジ色から紺色へと変わっていった。
そして――
夜が訪れた。
カイトは買い物袋を抱えながらため息をつく。
「……帰ろう」
クルミは隣をふわふわと浮いている。
その時だった。
カイトの足が止まる。
違和感。
左目が淡く紫色に光った。
糸。
無数の糸。
街中を流れる糸。
だがその中に――
一本だけ異質な糸があった。
黒い糸。
カイトはゆっくり道路の向こうを見る。
そこには一人のサラリーマンが立っていた。
そして。
その背中には異形の存在が張り付いている。
黒い糸を身体から伸ばしながら。
男の顔は青白く、ひどく疲れて見えた。
「……あれは?」
クルミがちらりと見る。
「レベル1のアクマ」
その直後。
サラリーマンが地面へ倒れ込んだ。
カイトの目が見開かれる。
「あいつ……殺される!」
考えるより先に。
彼は走り出していた。
「カイト、待ちなさい――!」
だがもう遅い。
アクマがこちらを向く。
歪んだ顔がゆっくりと笑った。
カイトは人生の選択を後悔した。
「……なんで笑ってるんだよ……」
アクマは一瞬で距離を詰めた。
カイトは慌てて身をかわす。
ドォンッ!!
アクマの身体が背後の壁へ激突した。
心臓が激しく鼓動する。
だが――
カイトの表情に少しだけ自信が戻った。
昨夜の戦いを思い出したのだ。
「前にも倒せた……」
「なら今回も――!」
カイトは拳を突き出した。
しかし。
アクマはその腕をあっさり掴む。
「……え?」
嫌な予感がした。
握られた腕に激痛が走る。
カイトの自信は一瞬で消え去った。
「やばい」
次の瞬間――
ドガァッ!!
彼は地面へ叩きつけられた。
背中に激痛が走る。
「ああああっ!!」
アクマは容赦なく追撃してくる。
カイトは必死に転がって回避した。
恐怖が胸を満たしていく。
「……クルミ!」
助けを求める。
しかしクルミは近くでメロンパンの最後の一口を食べていた。
「助けてくれ!」
クルミはぷいっと顔を逸らす。
「やだ」
「はぁぁぁ!?」
「うるさいって言われたし」
「今それ関係ないだろ!?」
アクマが再び飛びかかる。
カイトは必死に受け止めた。
「お願いだから助けて!!」
クルミは少しだけ笑った。
「食事と住む場所をくれるなら」
「……今それを交渉するの!?」
攻撃が頬をかすめる。
「分かった! 分かったから助けてくれ!!」
「よろしい」
その瞬間――
クルミの身体が淡い光へと変わった。
そして。
カイトの身体へ溶け込むように入り込んでいく。
「なっ――!?」
無数の糸が体内へ流れ込む。
次の瞬間。
力が爆発した。
紫色のエーテルの糸が全身を覆う。
左目が眩しく輝いた。
世界が変わる。
建物。
人間。
自然。
空気。
全てが糸で繋がっていた。
全てが見える。
全てが分かる。
アクマが咆哮する。
再び突撃。
だが今度は違った。
カイトが先に動く。
高く跳躍。
空中で身体をひねる。
そして――
蹴りを振り下ろした。
バキィィィン!!
空間そのものが砕けたような音が響く。
紫色の亀裂が空中へ走った。
アクマを構成していた黒い糸が一瞬で崩壊する。
闇となって夜空へ消えていった。
静寂。
カイトは着地する。
だがすぐに膝をついた。
呼吸が乱れている。
視界もぼやけていた。
「……疲れた……」
街は再び静けさを取り戻した。
◇ ◇ ◇
その夜。
カイトは人気のない道を歩いていた。
周囲に家はない。
人影もない。
冷たい街灯だけが道路を照らしている。
クルミは静かに隣を漂っていた。
カイトの足取りは重い。
一歩ごとに身体が悲鳴を上げる。
そして――
限界が訪れた。
視界が真っ白になる。
「……もう……無理……」
そのまま道路へ倒れ込んだ。
数分後。
仕事帰りのレイという男がその道を歩いていた。
彼は道路に倒れている人影を見つける。
「……ん?」
慌てて駆け寄った。
「子供じゃないか!?」
呼吸を確認する。
生きている。
すぐにスマートフォンを取り出した。
「もしもし!? 救急車をお願いします!」
その頃。
近くの建物の上では、一人の男が静かに全てを見下ろしていた。
あの謎の監視者だ。
彼の視線はカイトから離れない。
「……面白い」
風が吹く。
そして次の瞬間。
男の姿は夜の闇へ溶けるように消えた。
◇ ◇ ◇
ピッ……ピッ……
規則的な電子音。
カイトはゆっくりと目を開いた。
白い天井。
病室。
「……ん?」
近くにいた看護師が気付く。
「あら、目が覚めたのね」
カイトはゆっくり瞬きをした。
「……ここは?」
「道路の近くで倒れていたのよ」
カイトは身体を起こす。
看護師は説明を続けた。
「通りかかった人が救急車を呼んでくれたの」
カイトは少し安心した。
簡単な検査を終えると、看護師は病室を出ていく。
ドアが閉まった瞬間――
クルミが逆さまの状態でベッドの横に現れた。
しかも果物を食べている。
「うわぁぁぁっ!?」
カイトは本気で悲鳴を上げた。
「そういう出方するな!!」
クルミは無視して果物をかじる。
カイトは真剣な表情になった。
「……全部話せ」
「やだ」
即答だった。
カイトの眉がぴくりと動く。
そして果物を指差した。
「説明しないなら」
「もう食べ物なし」
クルミが固まる。
「……ひどい」
「説明しろ」
クルミは大げさにため息をつく。
そして窓際へ移動した。
「この世界の全てには糸がある」
カイトは静かに耳を傾ける。
「糸は生命そのもの」
「正の糸と負の糸が存在する」
クルミの表情が少しだけ暗くなった。
「負の感情が長い時間集まると――」
「その糸は腐る」
「そしてアクマになる」
病室に静寂が流れた。
カイトはゆっくり自分の手を見る。
「……だから人を襲うのか」
クルミは頷いた。
「人間や自然から糸を奪う」
「特に強い糸を持つ者を好む」
カイトは目を見開く。
「もし糸を全部失ったら?」
クルミはしばらく黙り込んだ。
そして静かに答える。
「自然へ還る」
病室が再び静まり返る。
カイトは拳を握り締めた。
「……なら止めないと」
クルミは興味深そうに彼を見る。
カイトの瞳に決意が宿った。
「もし誰かが死んでいるなら」
幼い頃に見ていたヒーロー番組が脳裏をよぎる。
「……俺が助ける」
クルミは瞬きをした。
「本気でヒーローになるつもり?」
カイトは苦笑する。
「そうだよ」
だが次の瞬間。
彼はあることに気付いた。
「……待て」
クルミを見る。
「お前のこと、まだ聞いてない」
クルミが固まる。
「……あ」
「クルミ」
「……なに?」
「お前、何者なんだ?」
クルミは気まずそうに視線を逸らした。
「……寄生体」
沈黙。
カイトの思考が停止する。
「……は?」
次の瞬間。
黒い生物が自分の口へ入り込んだ記憶が蘇った。
カイトはゆっくり距離を取る。
「……待て」
「お前、あれか!?」
クルミは胸を張る。
「でも今は可愛い」
「問題そこじゃない!!」
クルミは幸せそうに果物を食べ続けた。
病室の外。
一人の男が静かに立っていた。
ドア越しに会話を聞いている。
寄生体。
その言葉を聞いた瞬間。
男の目が細くなった。
そして――
瞬きをする間もなく。
彼の姿は消えていた。




