尋樹(6)
夫の記憶が曖昧だからだろう。尋樹はこれから先にある十年弱の光景は見せなかった。代わりに真っ暗な世界へ私は飛ばされた。
上下左右のわからない真っ暗な世界だ。光の粒ひとつもなく、立っているのか寝転んでいるのか浮いているのかもわからない。黒しか存在できない世界で、多分、異物の私だけが色を持っていた。
手を上げてみようかとも思ったが、動かない気がしてやめた。この体が自由になるとはどうしても思えなかった。
考えるのも億劫で、手足だけでなく頭の中も不自由だった。ぼんやりするしか許されない呪縛のようだった。病院のベッドの上でただ息をするだけになった夫は、こういう気持ちだったのだろうか。
どれくらいの時が過ぎたのか、それとも時間など存在しないのか。黒い世界に、浅い黒が動いた。真っ黒な世界で、その浅い黒は異様に白く浮いて見えた。大きめの犬か、オオカミのように見える。
――ここは、私が望んだ死の世界。
最高売り上げを叩き出した物語のセリフを思い出した。黒い世界で、いくらか薄い黒の生き物が、異物となった主人公を食い殺し、地獄の業火へ突き落とす。その瞬間と似たシーンだ。私は、あの不思議な浅い黒に食われるのだろうか。
「本望よ」
呟くと、記憶を巡っていたときとは違って声に出た。浅い黒の動物の尾っぽがぴくりと揺れた。尾っぽがあちらへ向いて、代わりに白い目が私を捉えた。四足歩行でこちらへ歩いてくる。私は仰向けに寝転がっていたのだろう。床を爪で引っ掻くような足音が大きく聞こえた。
黒い生き物は私の顔の横で止まり、私を見下ろしてくる。牙の生えた大きな口が近くにある。
私は目を閉じた。
黒い生き物に食われる瞬間を穏やかな気持ちで待っていた。私の顔の近くに来た生き物が、どこから食おうか考えているように額と顎とを行ったり来たりする。しばらくそうやって悩んだのち、すっと遠のく気配がした。そして、意地悪そうに笑った。
「たおらしくないな。なんだ、このバッドエンドなストーリーは」
全てがどうでも良くなっていた私の耳に、夫のおっちゃん声が流れてきた。
驚いて目を開ける。そこには、オオカミの毛皮を被った五十代後半の夫がいた。
「何を、してるの?」
訊かずにはいられない。夫は意地悪な言い方はしても意地悪な驚かせ方はしない。もちろんコスプレもしない。オオカミのふりをして私を食べようとするなんてありえない。
「たおが俺を呼んだんだろう」
オオカミの毛皮がさらさらと砂のようになって、一陣の風が遠くへ攫っていく。夫のお気に入りだったマフラーが首に巻かれていて、結び目には青い枝垂れ桜の尋樹がキーホルダーみたくぶら下がっていた。
「訊きたいことがあるって顔してた。まあ、たおのことだし、何が言いたいかは大体わかってるつもりだけど」
頭の中にサッと酸素が回った気がした。いまなら動けそうだと思って腕に力を入れてみる。床だと思っていた場所がグミみたいに軟らかくなって、腹筋もないので体を起こすのに難儀した。
起き上がるだけで一苦労の私を見て、夫は口をぎゅっと閉じて頬をぴくぴくさせていた。わかりやすい。笑いを堪えているのだ。
「笑いたいなら笑ってくださいよ」
降参のポーズで両手を上げてみせると、夫は遠慮なく歯を見せて笑った。上の歯の一部がない。入れ歯はここには持ち込めなかったようだ。
「もう立派な婆さんだな」
「それを言ったらあなただって。最期はあんなにひょろっこくなっちゃって」
小さくなった夫の前では絶対に言わなかったのに、この元気な夫の前では容赦なく指摘できてしまった。夫は豪快に笑った。楽しくて仕方がないようだった。
散々見た目と体の老いの話で盛り上がってから、ほぼ同じタイミングで笑いが収まった。しん……と辺りが静寂に包まれる。静かすぎて、私たちが会話をしない生活をしていたあの家を連想させた。
「生き返ったわけじゃ、ないのね」
子どもではないのだ。あえて問わなくてもわかっていた。
「そうだな。俺は死んだ」
「私も死んだの?」
「さあ、どうだろうな。尋樹か夢か、死後の世界か、それはお前が帰ってから決めればいい」
答えになってないじゃないか、と思ったが、夫の口から出てきた『尋樹』の言葉に気を取られた。
「なんで知ってるの?」
夫は本を読まない人だった。私の書いた小説も、読んでいるところは見たことがない。見せてくれとも言ったことがないのだ。造語の木の名前を知る機会がどこにあるのだろう。
「入院中に読んだよ」
不自由な自分の右足をトントン叩いて、夫は続けた。
「あいつに頼んで、本屋に並んでるたおの小説を全部買ってきてもらった。文学初心者にミステリーは難しすぎたけどな」
なんでもありな世界らしく、息子が買ったという私の小説が天から降ってきた。軽い文庫本からハードカバーまで降ってきて、そのうちの一冊が顔のすぐ横を通って心臓に悪かった。
「ちなみに最新作の『黒い狼犬』も知ってるぞ」
「うそ」
「うそじゃない。たおが尋樹で記憶を巡ってる間にここで読んでいた。だからそれっぽい用意をして待ってたんだ」
バッドエンドにはしなかったけど、と言う夫の頭に、オオカミか犬かわからない耳が生えた。全然似合っていないので吹き出してしまった。そうか、さっきの浅い黒の生き物は、夫がイメージしたオオカミと犬の交雑種だったのだ。
「売れたおかげで葬式代が稼げたよ」
「家族葬の割に豪華だと思った。奮発してくれたんだな」
死んだはずの夫と葬式の話をした。美桜も大きくなったな、と和やかに話した。本当に話したい、訊きたいことよりも、こうして夫とただ話す時間を大事にしたかった。
けれど、きっとこの世界は、夢でも、死後の世界でもないのだ。
夫のマフラーにかかっていた尋樹のキーホルダーが明滅し始めた。本題に入れと促しているようだった。私は諦めのため息を吐いた。夫が苦い笑みを作った。
「たおのせいじゃないぞ」
あえて自分から切り出してくれる夫に、私は眉を下げて笑った。
「あなたはそう言うでしょうね」
「事実だからな」
「わかりませんよ。あれだけ話さなかったんだから」
日本人のおよそ三割が高齢者といわれるいまの時代、認知症は決して珍しくない。だからこそ、よくある事例も予防法も調べれば簡単に出てくる。そして、病気になる理由が『これ』と決めつけられるわけではないことも、頭ではよく理解している。それでも。
「私のせいじゃないかって、どうしても思ってしまうんですよ」
病院のベッドの横で、一向に目の合わない夫を見ながら、ずっと心の中で問い掛けていた。口に出して訊きたくて、そのたびに、あの喧嘩をした日の夫の表情を思い出して、心の中にとどめておいた。どちらにせよ、その頃の夫は私の言葉に何ひとつ反応しないようになっていたけれど。
「じゃあ、仮にそうだとして」
慰めの言葉を素直に受け入れない私を、夫は簡単に認めてくれた。
「それでも俺は、仕事に熱中するたおを見るのが好きだった。たおからすれば行き詰まったり急き立てられたりで悩んでたんだろうけど、俺から見たたおは、いつも生き生きして幸せそうだった」
黒い世界が群青色に変わって、淡い虹色の泡が生まれた。シャボン玉のような泡の中に、私がパソコンに向かっている姿がいくつも映し出される。夫が毎日見ていた私の横顔だ。
「ひどい顔」
ふてくされたように口を尖らせ、画面を睨みつけてキーボードを叩いている。
「いいや、いい顔だ」
「よくないですよ。ずっとこんな顔でいたなんて」
「よく見ろ。このあとすぐにニヤニヤし始めるから」
夫の言うように、不機嫌そうな顔がパッと明るくなって、余計に見ていられない表情になった。
恥ずかしくて、顔を手で隠して俯いた。
「俺は、たおが羨ましかった」
意外な言葉が夫からまろび出て、私は伏せていた顔を上げた。
「夢中になれるものに出会って、ひたすら突き進んでるたおが羨ましかったんだ。俺は、そこまで夢中になれるものには出会わなかった。普通に職に就いて、カメラばっかりだったあの頃の情熱を失って……だから、なんて言うんだろうな。俺みたいになるなよ、頑張れよって気持ちでずっと見てた」
夫は寂しげな笑みを見せた。
「口に出すと恥ずかしいから、絶対言ってやるもんかって思ってな。だから余計にすれ違いが起きて……お前を苦しめる原因になったんだと思う」
夫のがっしりとした大きな手が私の両手を取って、包み込んでくる。夫の真剣な目が私を見つめた。
「ボケはただの結果であって、全てじゃない。俺はお前のせいで病気になったなんて思ってないし、これからも絶対に思わない。お前には、そんな考えは捨てて前向きに生きてほしい」
周りにあったシャボン玉がぱちんぱちんと割れて消えていく。群青の世界だけになり、どこからか淡い光が現れて、悠々と飛び交った。蛍だ。
「伝えるべきだった全部をお前に言うよ」
私の手を握ったまま、夫は若い頃のように儚い笑顔で言った。
「俺は、お前の生き生きした顔を見るのが好きだ。真面目なところも好きだ。意地っ張りなところも、甘え下手なところも、強がりなところも、みんな好きだ」
瞬きすらできずに聞いている私を覗き込んで、夫は少し口ごもる。それから、
「お前が妻でいてくれて、俺は誰より幸せだった。ありがとう」
生前では絶対に言わなかったことを、夫は耳を赤く染めながら伝えてくれた。あまり顔に出ない人ではあったけれど、恥ずかしがっているときは耳が赤くなる人だった。それがなんだかとても可愛らしかった。
「おい、何か言ってくれないか。さっきから、俺ばっかり、その……」
痺れを切らした夫の催促に、私はつい笑った。
「笑うなよ」
「ごめんなさい、つい」
「ひどい奥さんだ」
「だって、あなたがあんまり素直だから、おかしくて」
笑いながら、私は泣いていた。夫の告白に満足な返事もできず、しょっぱい雫を拭いながら笑って、頷いていた。そんな私を夫はそっと抱きしめてくれる。夫の手が私の頭を撫でてくる。
「もう、若くないんですよ」
娘のように扱われると恥ずかしかった。夫は楽しそうに笑った。
「安心しろ。ここには誰もいない」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
「誰もいないんだ。自由にすればいいんだ」
尋樹が枯れる、そのときまでは。夫が飲み込んだ言葉をきちんと理解して、私はそうですね、と返事をする。恥じらいが消えるわけではなかったけれど、小説にすら書かないような想いを――夫に対する甘じょっぱい気持ちを赤裸々に語った。
仕事にばかり必死だった年月は忘れられない。あの頃の私は間違いなく、夫ではなく仕事に重きを置いていた。あの日々をずっと後悔し続けていた。けれど思い出を巡り、夫の気持ちを聞いたいま、あの日々は決して良いものではなかったけれど、しかし大事であったとも思えるようになった。
そして思う。こういう微かな視点の変化と日々について、誰かに語り継ぎたいと。
「終わりの時間が近づいてるね」
小さいけれど、落ち葉を踏んだときのような乾いた音が何度か聞こえた。尋樹が枯れ始めているのだろう。周囲を探せばどこかに小さな亀裂が見つかるはずだ。
私は夫の胸に顔を埋めたまま、意識して口角を上げていく。
「明彦さん、顔を見せてくれてありがとうございました」
暗い声色にならないように気をつけて、私は夫の腕の中で言った。
「話せて良かった。本当に」
お別れの前なのだから元気な顔でいたかった。なのに、本心を伝えてしまったら、また涙が止まらなくなった。
もう二度と、こんなふうには触れられない。
「あなたがほかの何より大切だって、どうしてわからなかったんでしょうね。私がバカだからかな」
もっとずっと、早くに気づきたかった。一緒にいられる時間を大事にすれば良かった。当たり前じゃないことに気づく努力をすべきだった。
大切な人を失うと、人は大抵こういう思考になるらしい。それを知識で知っていても、いざ自分で経験しないことには本当の意味で気づけないのだとわかる。そういう気づきを得るのが、人の死なんだろう。
「俺だけを大切にしていたら、お前の人生は楽しくないだろ」
顔を上げると、近い位置にある夫の顔がしわくちゃになって笑った。
「全部大切にしろ。あれもこれもって手を出してるときが、一番楽しいんだ」
パキン、パキンとガラスが割れるような音が増えてきた。もう間もなく、尋樹の効果は消える。夫と離ればなれになる。
「たお」
私の恐怖を取り除くように、夫は優しい声で私を呼んだ。
「まだこちらへ来るなよ。もっとヨボヨボになってくれないと俺も迎えに行かないからな」
最後の最後に何を言っているのか。意地悪な言い方につい笑ってしまって、「はいはい」と軽い返事をした。次の瞬間、視界が暗転する。この世界に来たときと同じように五感が消え、それから真っ白になった。




