尋樹(5)
夫の様子がおかしいと気づいたのは、ずいぶん先の、六十歳を超えた頃だった。気のせいかと思ってしばらく様子を見ていたけれど、やはりおかしい。
「明彦さん、病院行きましょうか」
急に言われて夫は驚いたようだったが、自覚症状がないだけに抵抗された。それでも車椅子に座る夫を連れ出すのは簡単だった。
症状を話し、検査を受けて、医師から返ってきた言葉は予想通りだった。
若年性認知症。
この頃の夫は、以前に比べてよく私に話しかけるようになっていた。それがただのおしゃべりならどんなに良かったか。夫が話す大半はテレビの内容で、聞き逃しても問題ないことが多かったけれど、その中に数回、テレビと関係ない質問を何度もしてくることがあった。
六十手前だし、ボケ始めたのだろうと安易に考えていた。自分もそのうち、夫と同じように、先程もした質問を繰り返すようになるのだろうと。
「おかん、大丈夫か」
息子に連絡を入れてから居間でボーッとしていると、息子が飛んできた。よっぽど憔悴して見えたのだろう、息子は私の肩に手を置いて結構な力で揺すってきた。
そこで、あれ、と思う。息子の顔が目の前にあった。さっきまでは自分と夫を近くから見ていたのに、いまは作家の自分の目線で息子を見ていた。
その事実を認識すると、瞬きをしたら元の視界に戻っていた。作家の私を息子が勇気づけている光景を他人の目線で見ることができた。
――しっかりしなければ。
どうやら、このときの自分にいまの自分を重ねてしまったらしい。きっと後悔が大きいからだろう。夫がこうなってしまったのは私のせいだと、このときもいまも強く思っているからなのだろう。
作家の私は、息子の手も借りながら夫の病気を食い止める方法を探した。認知症について書かれた論文を片っ端から読み漁り、治る認知症もあると聞けば仕事を放り出して医者のもとを訪れ、神に祈り、最後には万病を治すという怪しげな石まで買った。それでも夫は元には戻らなかった。
絶望する一方で、病気になる確率を高める行為を調べる手が止まらなかった。働き者で思いやりのある夫が、どうして。そうして辿り着いた真実に、私は筆を断つ決意をした。
「私だ……私のせいだ」
覚えがある理由が並んでいた。特に、夫婦の間に会話がないこと、という一文を見て自分を殴りたくなった。
夜中の真っ暗な自室で、私は過去の自分を呪った。
これ以降のことは、見なくてもわかる。
作家をやめるつもりだったのが、担当編集者だけでなく理解力が低下している夫にまで止められて、久しぶりの喧嘩になったのだ。夫が私を責めることはあっても、私が夫に声を荒らげる権利なんてないのに。
私はただ、自分が犯した罪を言葉にして、自分を責めたかったに違いない。だからこういう『たられば』ばかり思いつく。もっと話をしていれば。感謝をしていれば。一緒に過ごしていれば。夫の優しさに甘えず私も働きに出ていれば。夫が孤独を感じないようにしていれば。
息子が見ていることなど忘れてまくし立て、最後に「あなたが認知症になったのは私のせいでしょう」と言ったところで、夫は目を見開いて黙り込んだ。
ようやく正気に戻ったが、もう遅い。
夫は答えなかった。夫には私を責める権利があった。「お前のせいだ」と言ってもらえたら、泣いて癇癪を起こして恨み言を吐いてくれたら、私は楽になれるのに。
そういう思考になる自分を認識して、私がどんなに勝手な人間であるかを思い知って、余計に自分を殺したくなった。
夫の病気を私が引き受けて、どこかで野垂れ死んで、地獄へ行きたかった。
「作家、やめるなよ」
夫は私の発言に答えないまま、驚くほど澄んだ声で言った。
「たおの一生懸命な姿が好きだ。だから、絶対にやめるな」
この喧嘩の次の日から、夫の症状はわかりやすく進行した。まるで昨日の二言のために今後の全てを費やしたかのように、聞いたことをすぐ忘れ、急に泣いたり怒ったりする。
足が悪いので徘徊の心配がないのが救いだった。車椅子のままでは届かない位置に新しく鍵を設置するだけで、目を離した隙に外に出てしまうということは起きなかった。
私は夫が眠っている間に小説を書いた。夫が仕事をやめる少し前から書いていたシリーズの続編だった。私にとっては呪いのシリーズだった。
何度もやめたくなって、そのたび夫の言葉を思い出した。泣きながらキーボードを叩き続けた。夫が持てる全部を使って伝えてくれた言葉を無下にしたくなかった。
夫はよく肺炎を起こした。亡くなった理由も誤嚥性肺炎だ。
病院で過ごすほうが長くなり、面会の時間も限られていて顔を見られない日が多くなった。
病気の進行で夫の顔が夫らしくなくなっていくのを見て、いつも心の中でごめんなさいと言っていた。病気になっても、全てがわからなくなるわけではない。思考がゆっくりになるだけで夫はきっと、私の言葉を聞いている。
辛いのは家族だけではない。ご本人も辛いんですよと教えられてからは、接し方も少し変わった。
面会を終えて家に帰ってから、今日私と会ったことも夫は忘れるのだろうと思うと、勝手に涙が出てきた。一人分しか必要ない料理をする気も起きず、適当に買ってきた惣菜の弁当を機械的に口へ運んだ。
例えようもない辛さと虚しさを、ほぼ義務感でパソコンに打ち込んでいく。
リアルな心情を綴ったその物語はバカみたいに売れた。自分がこれまでに書いたどの作品よりも売れた。
興奮して伝えてくる担当編集者にお礼を言って通話を切ってから、私はトイレで蹲って吐いた。




