尋樹(4)
すぐ子宝に恵まれた。当時は夫が稼ぎに出て女は家のことをするのが当たり前であったから、私は仕事をやめて専業主婦になった。
家事をせっせとこなす私と、すくすく成長していく息子。恋人同士だった頃と同じように、尋樹は夫がいる場面を厳選して見せてくる。一緒に過ごせる時間が短いので、どんどん時が流れていく。
息子の入園式、卒園式、入学式――息子の成長を夫と共に喜びながら、しかし専業主婦の私はだんだんと元気をなくしているように見える。そして、その元気のない理由を私は知っている。
「そろそろ働きに出たいんだけど、どうかな」
息子が小学三年生になった春、専業主婦の私は思い切って夫に切り出した。夫は思いも寄らないことを言われて驚いたらしく、しばらくポカンとしていた。その様子を改めて見た私は、夫は演技でもなく、本当に私の気持ちに気づいていなかったんだなと思う。
家にいることが私の幸せで、息子にとっても幸せだと信じていたのだろう。一家の大黒柱として自分が働くことに何の疑念も抱かなかったのではないか。
実際、働き者の夫のおかげで生活には困らなかった。同居している義母とは時折ぶつかるものの、それは主に魚が好きか肉が好きかといった可愛い揉め事であって、仲は決して悪くない。だから働きに出たいという私の思いは、お金や外に出る理由探しではなく、
「明彦さん、自分の時間……ないでしょ?」
夫がカメラを持たなくなっていることに、私は思い悩んでいた。
息子を心から愛してくれている夫は、残業だらけの仕事でヘトヘトになって帰ってきても、いつだって息子と一緒に遊んで今日一日の話を聞いていた。息子が眠る頃に寝て、朝早くに仕事へ行って、また同じ一日を繰り返す。
家庭を守るために、夫は進んで仕事にのめり込んだ。仕事がカメラいじりよりも楽しいとか、愛息子に癒やされているからほかの時間はいらないとでも考えていない限り、カメラを通して自分と向き合う時間がないのはしんどいのではなかろうか。
夫の頑張る時間を減らせるのであれば、自分も仕事に出て家事の両立もしてみせる。とにかく夫には休んでほしかった。
「心配しなくて大丈夫だよ」
ようやく意図が伝わると、夫は小馬鹿にしたようないつもの言い方で笑った。
「昇進したくて頑張ってるだけだし。あいつが独り立ちしたら、またいくらでも撮りにいくから」
「でも」
「たおは気にしなくていいの。ていうか仕事始めたら、たおの小説家の夢が遠のいちゃうだろ。いままで通り、合間を見て執筆頑張ってくれ」
あいつの寝顔撮るからと、カメラ機能搭載の携帯電話を持って夫は寝室へ行ってしまった。以前より簡単に写真が撮れる時代になったのも、夫がカメラを手放す後押しをしてしまったのかもしれない。
変わらず専業主婦の私が小さくため息を吐く。息子が持って帰ってきたプリントに手を伸ばす。
――このとき、もっと……。
夫を引き止めて、もっとしっかり話をしていれば、違ったのだろうか。喧嘩になってでも踏み込んでいれば、夫は死ぬまで私と話をすることができたのだろうか。
記憶を巡る尋樹の中で考えても意味のないことを私は考え続けた。景色が変わり、息子が大きくなって、夫が歳をとってシワが増えていく様子を見ながらずっと、頭の中では同じ思いが渦巻いている。
「お母さん、賞取ったって本当?」
どこから聞いたのか――おそらく義母だろうが――高校生になった息子が作家一年生の私に問い掛けた。四十も手前になってまだ夢を追いかけていたのかと思うと、恥ずかしくて息子には言いづらかったのだけれど。
「すごいね。頑張って」
嘘偽りない笑顔で応援してくれる息子に、作家一年生の私は照れ笑いをした。素直な子に育ってくれて本当に嬉しかった。
「お父さんからも何か言ってあげたら」
夫はたばこを吸いながら私の原稿を見ていた。嬉しく思った作家一年生の私は、読んでいいよ、と微笑んで言った。
夫は読書をしない人だけれど、私が必死で書き綴った物語なら興味があるのだと、当時の私は思ったのだ。
「いや、いまはやめとくよ。心の準備ができたら読ませてもらう」
その言葉の真意を、浮かれていた私は考えようとしなかった。
作家一年生の私は夫の気持ちに気づかなかった。尋樹によって家族の様子を外から見ることができる私には、夫が原稿を見ているようにみせかけて、別の文字を見ていることに気がついた。
目の端で見ていたのは、賞金の額。
夫が数ヶ月働いたくらいじゃ追い越せない、三桁のお金。
思い出を辿るだけじゃなくて良かった、と私は思った。楽しい時間だけを巡る旅じゃなくて良かった。夫が隠してくれていたこういう夫婦の亀裂を、自分の目で見ることができるのだから。
私と夫は、ゆっくりとだが会話をする機会が減っていった。私が仕事を貰えるようになってから目に見えて話さなくなり、話したとしてもどこか他人行儀でそっけない。
喧嘩をしているわけではなかった。ただ、忙しかった。家事に子どもに執筆に追われる私は、脳のリソースをこれ以上持っていかれたくなかった。
外が静かになる夜のほうが集中できた。昼夜逆転するのも当然だった。
「風邪を引くなよ」
そんな夫の気づかいにも、返事をするだけで「ありがとう」の一言も言わない。憧れていた売れっ子作家とは真逆でお払い箱にされないために必死になる私は、周りが見えていなかった。
見えていなかった私の代わりに、いまの私はしっかり目に焼き付けた。
取り憑かれたようにペンを動かす私に、夫は何度も話しかけようとしていた。夫は私と話したがっていた。私は気づいていながら、気づいていないフリをしていた。
そういう日が続いた。夫に干渉しないせいで、尋樹が見せる一日は驚くほど短くなっていた。ようやく長いと思える日が来たのは、息子の結婚式。次に義母の葬式。それから長いと思ったのは、夫が仕事で大きすぎる怪我をしたときだ。右足が重機に挟まれたのだと、電話を受けて青ざめた。
「もう歳だし、こんな足だからさ。引退しようと思う」
病院のベッドの上で、夫はへらりと笑った。五十二歳だった。
若い頃からずっと働き詰めだった夫の貯金と、安定して仕事を貰えるようになった私の収入で生活は十分に回る。作家の私は二つ返事をした。
「長い間、お疲れ様でした」
私は作家の私に罵声を浴びせた。届きもしない罵声を浴びせ続けた。
もっとほかに掛ける言葉があるだろう。夫がこんなときでさえ笑っている理由がなんでわからない。
私の罵声は私の頭の中でだけ再生される。私が見ている二人には届かない。
夫はしばらく入院する必要があった。必要な衣類や小物を鞄に詰めて持っていった。
「カメラ、いりますか」
戸棚の奥から引っ張り出した古いカメラを一応持ってきたけれど、夫は困った顔で笑った。
「病院で写真は撮らないよ」
「そっか、そうよね。じゃあ、ほかに欲しいものは?」
夫はすぐには答えなかった。悩んでいるわけではなくて、言おうか言うまいか考えているらしく、顔が下に向いていた。夫は決意したように顔を上げた。
「たおとの時間」
まっすぐ見つめられた作家の私は、考えもしなかったことを言われて何度か瞬きをした。それから、照れ隠しで言うのだ。いまは無理、仕事あるから、と。実際、仕事の締切は近かった。けれど夫の心細さを蔑ろにしていい理由ではなかった。
考えればわかることなのに、私は仕事を優先した。一年生だった頃とは違う焦燥感が――実力ある新人作家たちに埋もれてしまう予感が、この頃の私を追い立てていた。
「そうだよな。大作家先生は大忙しだ」
夫がいつもの調子で言うので、さっきの答えは私をからかおうとしたのだと作家の私は思った。傍から見ている私は、私がそう思うように夫がわざと言ったことを悟った。夫はこんなときでさえも、自分を後回しにする。
「じゃあ、何か必要だったら連絡してください。明日また来るからね」
立ち上がる私を夫は呼び止めた。
「来なくていい」
時が止まったかのように、私は微動だにしなかった。夫はほうれい線の目立つ口元に笑顔を作った。目は笑っていなかった。
「忙しいだろ? なんかあればあいつに連絡するから、たおは仕事頑張れよ」
「でも、あの子にも家庭があるし」
「こういうときくらい、いいだろ。呼ばないと顔出さないんだし」
結婚してから正月すら帰ってこない息子を呼び出す理由としては十分だった。私はそういうことならと了承した。
夫は予定通りに退院した。車椅子生活になることがわかっていたので、入院中に家をバリアフリーにリフォームした。夫にも口頭で伝えてはいたけれど、いざ家に戻ってきた夫は悲しそうな声で言った。
「他人の家みたいだな」
夫は唯一変わらない自室に籠もるようになった。食事も移動が億劫だという理由で自室で食べるようになった。
介助がほとんど必要ない家のつくりでは、夫から助けを求める声がない。作家の私もパソコンにしがみついているので話をしない。二十四時間、誰もいないような静けさだった。




