尋樹(3)
暗いトンネルから急に外へ出たと錯覚した。眩しくて反射的に目を瞑る。地面があるのかないのかわからず何かに掴まろうとすると、割と近い場所で石壁のようなゴツゴツとしたものに触れた。ひとまずどこかへ落下する心配はなさそうだ。安堵して、視界が回復するまで支えてもらうことにする。
夫を亡くしただけでも傷心なのに、どうして普通の葬儀をさせてもらえないのだろう。
外部に触れている手から徐々に感覚が戻ってきた。お飾りと化していた耳が役割を思い出したらしく、葉擦れの音を拾った。爽やかな初夏の音だ。鮮やかで張りのある葉が暖かい風に揺れ、太陽の光を浴びて、のびのびとしている――そんな音。
閉じていた瞼をそっと開く。目の前には茶色い壁があった。切り倒せばきっと、とんでもない数の年輪があるだろう大きな木の幹。想像通りの元気な若葉たち。
懐かしさのあまり頬が緩むのを感じた。この大樹には見覚えがあった。
左から右へ、木の表面を指でなぞってみる。しわくちゃで染みの目立つ自分の手が、生命力溢れる木にしっかりと触れている。
リアルだねえ、と声に出したつもりだったが、その言葉は耳から入ってこなかった。そんなところも忠実に再現していて驚いた。
小説の中の『尋ね屋』は、依頼相手が『尋樹』に触れたのを確認すると、依頼相手を幽体離脱させて故人と話せるようにするのだ。魂だけになった依頼者は故人と一緒に思い出の場所を巡り、『尋樹』が枯れるまで共に時を過ごす。
周りにいる人の声は二人には聞こえない。モブはモブらしく、そこに存在することは許されても二人に干渉することはできない。まさしく、いまの私のように。
――あの渋い『尋ね屋』は、私と夫を話させるつもりはないわけね。
独り言が頭の中で流れていく。
彼は依頼通りに動くと言っていた。本当に『尋ね屋』が存在するなどとは微塵も思っていないが、似たような現象を起こせる何者かに頼んだとしたらどうだろう。催眠術師、それとも霊能者。
「そこ、邪魔」
ぶっきらぼうな青年の声に、思考を全部持っていかれた。依頼者は誰だろうと職業病で考えていたのが綺麗さっぱり消えてしまった。
人ひとり簡単に隠せてしまう巨木の反対側で、おそらく邪魔と言われた女の子が青年に抗議をしている。ちょっと待って、いまいいところだから、といった内容のはずだが、ハッキリとは聞こえない。
「またカメラいじってんのか」
夫だ。若い頃の夫の声だ。
「もうちょっと近づいて撮れば。F値変えなくてもそれなりに綺麗に映るんだし」
だいたい初心者には無理だよ、と小馬鹿にしたように笑う夫に、女の子は拗ねて抗議を重ねる。ごめんごめん、と静かに笑いながら、夫は私物であるカメラの基本操作を丁寧に教えていく。
「ま、たおには使いこなせないだろうけどな」
女の子が理解したとみるや、夫は意地悪そうに笑った。けれど知っている。こういうときの夫の表情は、ひどく儚げで優しいのだ。
夫が腰を下ろしたのか、ほんのわずかに草のしなる音がする。夫と女の子――当時まだ高校生の私が他愛もない話を始める。おしゃべりな私に根気よく付き合いながら、夫は時折カメラのシャッターを切る。
私は両手で自分の目を覆った。
懐かしかった。愛おしかった。あんなに我慢していた涙がポロポロと簡単にこぼれ落ちた。
夫が最後にカメラを持ったのはいつだっただろう。プロにならなくても趣味で続けていればよかったのに、気がついたら戸棚の奥にしまわれていた。いっぱいあったアルバムも束ねて隣に置かれていた。すぐに取り出せる場所にあったのは、私が関わる思い出の写真だけだ。
ハンカチを押しつけて涙を引っ込ませ、顔を上へ向ける。火葬場では灰色だった狭い天井が、いまはどこまでも広がる青空に変わっている。遠いとおい夏の青に、心のわだかまりが吸い取られていく。
よし、と軽く太ももを叩いた。自分の置かれている状況はよくわからないが、懐かしい夫の声が聴けるならこんなに嬉しいことはない。なにせ、亡くなる数年前から声すら出さなくなってしまったのだから。懐かしいなんて言葉では足りない。渇望していた。
そろりそろりと大樹から離れる。視界が広がって全体の景色が見える。夫が好きだった、自然豊かで大きいあの公園。その中央広場。
近くにトイレがあるはずなのでそちらへ向かう。お手洗いを済ませて出てきたおばあちゃんを装い二人の前を横切ることにした。だって、声だけでは足りない。まだ高校生の夫の顔も見たい。
不審に思われないよう、ただのモブを意識して歩く。腰か、膝でもいい、どこか悪くてゆっくり動くおばあちゃんになりきって、顔を少しだけ二人に向けながら歩いた。
幸せそうに笑っていた。
将来どんな夫婦になるのかなんて考えていない、いまこの瞬間を心から楽しんでいる表情だった。
高校生の夫と高校生の私、その後ろを七十オーバーの私がついていくという、傍から見たら毎度デートを付け回す不審者おばあちゃんな行為を続けた。
途中で気がついたのだが、どうやら二人に私の姿は見えていないらしい。どんなに近くに立っても空気のように扱われる。少々寂しくはあったけれど、おかげで遠慮なく同行できた。
一日二十四時間という感覚は現実のままだった。朝に待ち合わせをして、出掛けて、お昼を食べて、好きなところへ行って好きに過ごす。夜にはさよならをして、また次のデートの日に変わる。
飽きもせずに一緒に思い出の場所を回った。私が好きな水族館と夫が好きだった美術館が割合多かった。夫が応援していたカメラマン主催の展示会にも一度行った。私に見せてくれるあの儚い笑顔が写真に向けられていて、嫉妬した私のせいで大喧嘩になった。
――まったく、写真に妬いてどうするのやら。
声が出ないのをいいことに、心の広いおばあちゃんの私は大笑いしてその光景を眺めている。
どちらかが引けばいいものを、売り言葉に買い言葉でどんどんヒートアップしていく。どうして喧嘩をしたのかわからないくらいに激化する口論を聞きながら、そうして怒れるのはいまのうちだけだよ、と心の中でぼやいた。
歳をとるにつれて、感情を大きく動かすのがしんどくなってくる。流れに逆らわないほうが楽だと気づいてしまう。人とぶつからない方法を探して、上辺だけの関係しか作らなくなってくる。
心を乱されて、相手の心も乱して、ぶつけ合って、仲直りをして――。そういう大事な力を無くしていく。しんどいから、選ばなくなっていく。そうしてみんな無くしてしまうのだ。
だから、思う存分喧嘩をしなさい。できるうちに。お互いの言葉がきちんと通じるうちに。
時が流れていく。高校を卒業した私たちが写真を撮っている。
次第に出かける頻度が減って、会うたびに二人は大人になっていく。
「蛍、撮らなくていいの?」
私が記憶している最後のデート。蛍が見られる数少ない観光スポットで社会人三年目の私が訊いた。静かな川の上を穏やかに明滅しながら飛び交う蛍。撮らないのはもったいないのではないか、と私は言いたいのだ。
太陽がすっかり沈んで暗い川辺で、表情のわかりにくい夫はふっと笑った。
「生き物は撮らないんだ」
人を怖がりもせずに蛍が寄ってくる。座ったまま置物のように動かない夫の指にとまる。
「いまを必死に生きてるからな。静止させて残したくないというか、命を見ていたいというか」
難しくてうまく言えないけど、と夫が曖昧に笑うと、蛍は夫の指先から飛んで逃げていった。社会人の私がおかしそうに笑う。
「照れたんじゃないの、あの蛍」
「まさか。たおじゃあるまいし」
照れ屋さんは写真撮らせてくれないからな、と夫がカメラを向けてくる。社会人の私は手で顔を隠しながら夫の背後に回る。
「生き物は撮らないんでしょ」
「たおは撮る」
「不公平だ」
「好きなものを撮ってるだけ。何も不公平じゃない」
あーだこーだ言いながら、学生の頃と変わらない二人がそこにいる。こんなふうに普通に接していたくせに、夫はこの数分後にプロポーズをするのだ。恥ずかしがる素振りも見せず、次のデートの予定を決めるかのように。
「たお、太った?」
「失敬な」
婚約指輪のサイズは合っていた。お付き合い中に買ったペアリングと同じサイズだった。恥ずかしさと緊張と夏の暑さで滑らなかっただけ。汗のせいでデブ扱いをされた私はプロポーズを断った。もちろん冗談で、このあと真っ赤になって受け入れるのだけれど。




