192.背後を洗ったが何もなし
エッカルトは再び石造りの階段を下りる。扉を開けるとひんやりした空気が迎え、中へ進むにつれて生臭さが広がった。黴臭さ、血の臭い、死臭……不快さを増す様々な臭いが鼻をつく。薄暗い地下はじめじめと濡れており、気味の悪い音が聞こえた。
「さて、貴様が我が孫を攫った大罪人か。背後に誰もいないと分かるまで、痛みに耐えてもらうぞ。それが終われば……」
わざと言葉を切った。こういう輩には、何が起きるか最悪の予想を自ら立てさせる。激痛に襲われる前は、殺されるのでは? と震えた。だが実際に拷問の痛みを知れば、早く殺してほしいと願う。だから、人は拷問で口を割るのだ。
国を興したばかりのロイスナー以外、歴史が古い国はすべて黒い面を持ち合わせている。現在は清廉潔白な顔のロイスナー公国も、数世代で同じように濁るはずだった。国を運営するということは、綺麗ごとでは済まない。いずれ誰かが手を赤く染め、黒い思考で動き、絶望して闇に落ちる。
エッカルトにとって幸いなのが、その役目を負うのが可愛い孫達より後の世代ということ。子孫であっても、直接知らない者を憐れむ善良さは持ち合わせなかった。大国の筆頭公爵である事実は、周囲が考えるより重い。
響き渡る悲鳴と絶望の表情、言葉をなさない悲鳴のような自白……。死を嘆願するまで苦しんだ元騎士は、壊れた笑いを繰り返す。甲高い笑い声が耳障りだった。眉根を寄せて不快感を示せば、それだけで周囲が動く。
彼に指示を出した人物は見つからなかった。調査結果もそれを物語っている。狂人となった元騎士が一人で行動を起こし、周囲を巻き込んだだけ。裏がなければ、あとは簡単だった。
「もう聞き出すことはない。丁寧にじっくりと処分しろ」
命令を残して立ち上がり、再び地上へ戻ったときには日暮れを過ぎていた。真っ暗になるには早い。夕飯時だが……エッカルトは、くんと自分を匂った。残念だが鼻がマヒしており、悪臭がわからない。夕飯時にあの地下牢の臭いを持ち込めば、妻に八つ裂きにされそうだ。
くつりと喉を震わせて笑い、風呂へ向かった。自室に選んだ部屋は広く、手伝いを拒んで一人で風呂に籠る。何度も洗い、石鹸を大量に使い、ハーブを浮かべた湯舟でもう一度嗅いでみた。ダメだ、わからない。
困惑しながら風呂から出たエッカルトは、髪を拭きながらソファーに座る。と、ノックの音がして妻が入ってきた。クラーラはくんと鼻を引くつかせ、くすくすと笑う。
「今日はラベンダーになさったの? あれほど嫌いだと言っていたのに」
「一番匂いが強い石鹸を使ったんだが、ラベンダーだったか」
そんなことも分からないほど鼻が死んでいた。エッカルトの呟きに、クラーラは距離を詰めて髪や肌に鼻を近づける。
「大丈夫ですよ。夕飯にあなたがいらっしゃらないから、ガブリエルが気にしてしまって。ここへ呼びますね」
止める間もなく、クラーラの指示で軽食が運ばれる。そのワゴンを押す孫娘の笑顔に、エッカルトは満面の笑みで出迎えた。妻の太鼓判付きのラベンダーの香りは、孫にもソフィーにも好評で。ごついアウグストにも「花の匂いがする」と言われて、ついに大笑いした。




