第8話:忘却の断層
第8話:忘却の断層
重く湿った静寂が、空間全体を支配していた。
第6区画『記憶の断層』——そこに広がるのは、過去と未来が支離滅裂に交差する精神の迷宮だった。上下の概念が曖昧な世界の中、崩壊した近代都市のビル街と古風な木造建築が互いにめり込み合い、空には無数の巨大な歯車が静かに回転している。
トムは概念装甲のグリップに手をかけたまま、足元を注意深く踏みしめた。
足を踏み出すたびに、水面を叩いたかのように波紋が広がり、過去の誰かの会話の断片が耳元でささやき声となって弾ける。
「……ここでは、思考すらも書き換えられかねないな」
『その通りだ、トム』
アレックスの声が、強いノイズを伴いながら通信機から漏れ出る。
『そこはアーカイブによって破棄された「ボツとなった史実」の掃き溜めだ。矛盾した世界線が乱立している。長居すれば君の脳が認識する「現実」の定義が狂い始めるぞ』
「適合率の負荷は?」
『……現在五五パーセント。危険域を超えている。体内に入った三つの共鳴球が、君の自我を外側から侵食している状態だ。これ以上の適合率上昇は……君が「トム」という人間でなくなることを意味する』
「戻る道がない以上、進むしかない」
トムは視線を前方に向けた。
歪んだ街並みの中心、宙に浮遊する巨大な時計塔の文字盤の前に、一筋の強い歪みが存在していた。第四の共鳴球——『時間の断層核』だ。
だが、その核心を守るように、無数の黒い影が空間から滲み出てくる。
「また『記録の番人』か……」
『いや、違う! ノイズが強すぎて識別が遅れた……トム、引き返せ! そいつらはただの防衛プログラムじゃない!』
アレックスの悲鳴のような警告と同時に、影たちが一斉に実体化した。
それは、かつて『ヒューマン・アーカイブ』の探索に挑み、自我を失って取り込まれた歴代の「Candidate(候補者)」たちの残滓だった。半透明の肉体に概念装甲を纏い、空洞となった眼孔から凄惨な赤光を放っている。
『言葉を交わす余地はない。彼らはアーカイブの奴隷と化し、新たな侵入者を自らと同じ存在に引きずり込もうとしている!』
「かつての同胞か……」
トムは短く息を吐き出し、静かに構えを取った。
「失われた記憶の苦しみから解き放つ。それが……今の俺にできる唯一のことだ」
「検索要求——対象:『断絶と解放』」
トムの身体を覆うエーテルの圧力が急激に高まる。
襲い来る亡霊たちの影を打ち払うため、彼は迷宮の深層へと身を投げ出した。




