二章 8話
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[王国暦426年9月上旬]
いつの間にか王都を包むように雲が広がる。沈みかけていた細い三日月も隠された。すでに街の喧騒も止み、まもなく街も眠りに落ちる頃、王立中央大学の研究室に小さな明かりが揺らめいている。
「・・・」
アンデルが無言のまま見つめる先には、床に置かれた最後の桶。今日一日の出来事を反芻しながら、それでもなお迷っていた。
「これで最後か」
アンデルは、今後も血を使った研究を続けようとは思っていなかった。そこに嘘は無かった。周囲への迷惑、自分の立場の危うさも理解し始めていた。それでも、目の前に置かれた血の桶の誘惑は払いきれない。
「処分も兼ねて、最後にもう一度・・・」
何かに衝き動かされるようにアンデルは静かに動き出す。これまで何度も繰り返してきた実験、目を閉じてでも実験準備はできる程に身体が覚えている作業。
「いや、同じではだめだ。これは記録にも残さない、誰にも知られることなく終えるべき実験」
アンデルは常とは異なる動きを取り始める。
薄暗い研究室の中央、窓からも入り口からも離れている場所に結界魔法を発動し、更にその外側に一つ結界を重ねる。部屋を照らしていた火の魔法を消す。結界魔法から生じているごく淡い青色の光。しばらく待つと、わずかな光で何とか物の形が認識できるようになる。置かれていた桶を結界内に運び、用意した布地を桶にひたす。おそらく真っ赤に染まっているであろう布地は、暗闇のなかでより一層暗い影を見せる。濡れた布地を、結界内の床に広げる。
「光、火の魔法は目立ってしまう。風か・・・」
アンデルは静かに膝を床につき、布地に両手を置く。
「丁寧に、確実に風を想像しろ、立ちのぼる風の渦が周囲をのみ込み暴れる姿を」
頭の中で風の形を作り上げ、手の先から魔力を流す。いつもの魔法と同様に、身体を巡り、手の先から突き抜けていくのを感じる。
「よし」
完璧な手順、いつも通りの感覚、濡れた布地もいつものようにほんの刹那震える。アンデルは、ほんの少し遅れて発動される魔法を確認するため、布地を見つめる。
「えっ・・・」
それはほんのわずかの間の出来事。アンデルは全身から汗が一斉に流れているのを感じる。緊張、恐怖、恍惚。目の前の布地に光の、とても淡いかすかな光の模様が浮かんでいる。布いっぱいの大きな円。その中に、三角の形がいくつも重なり合っているのがわかった。
「こ、これは・・・」
次の瞬間にはすでに光は消え、風魔法が発動される。結界内を風が暴れ、置きっぱなしにしておいた桶も風に巻き上げられ残っていた血と共にバラバラに飛び交っている。アンデルが手を離すと置いていた布も巻き上げられボロボロになっていく。すべてが粉々になると、アンデルが右手を伸ばす。次の瞬間、結界内で大きな炎があがると、そこには何ものこっていなかった。
血を使った最後の実験を終えた後、アンデルは眠ることができなかった。布地に浮かび上がった光の模様が頭から離れる事はなく、その昂りが眠りを妨げた。
「間違いない。あれは、ベルク要塞で見た、忘れることのできないあの光景。ただ、模様の形は違う気もする。あの時は、もっと複雑だった気がする」
ベルク要塞に広がった模様は広大なものだった。最も近くにいたアンデルには、その全容をうかがい知る事ができなかった。
「それでも、今までの実験であんな模様は確認していない。今回初めて浮かんだ・・・のか?」
初めて布団から火の魔法が出たときから何度となく繰り返した研究を思い返す。水から血に変えて実験を重ねた。その記録も読み込んできた。そこに光の模様は無かった。
「今までのすべての実験と最後の実験の違いがある。部屋の明るさか、こんな単純な違いなのに、一回も試していなかった。くそ。ベルク要塞の時と条件をそろえられていなかったんだ。でも、それなら・・・。あの模様はすべての実験時にも出ていた可能性があるのか」
まるで今までの実験が無駄だったかのように感じ心が沈む。
空が白み始め、教会の鐘が鳴る。一睡もできなかったアンデルは寝台から起き上がり水を一気に飲み干す。
「考えていても、答えなんかでない。そんな事はわかってるのに・・・。別の方策を考えるしかないじゃないか」
アンデルは両手で頬を叩き気合を入れてみる。
「魔法の威力そのものに差はあるけど、水でも血でも変わらずに外部発動は可能なんだ。血がだめなら、また違うものがあるかもしれないじゃないか。それを見つけよう」
少し前向きな気持ちになると今度は身体が正直になる。
「まずは朝食を食べよう。昨日、何も食べていない気がする」
アンデルはふーっと長く息を吐き、研究室を出ていく。
アンデルは、いつもの鶏料理の屋台にやってきた。
「ご主人、おはようございます」
「おう、あんちゃんか。ちょっと待ってな」
屋台の主人は鶏が吊るされた場所へ行こうとする。
「ご主人。すみません、血をいただくのはもうお終いにさせてもらおうと思いまして。勝手にお願いして、勝手に辞めて申し訳ありません」
アンデルは頭を下げる。
「お、そうかい。研究が済んだんだな、良かったじゃねぇか。気にしなくていいぜ、どうする今からなんか食ってくかい?」
「はい。いつものお願いします」
主人に銅貨を渡し料理を待っていると、背後からアンデルに声がかけられる。
「やぁ、アンデルさん、おはようございます。またお会いしましたね」
声をかけてきたのはトマスだった。
「トマスさん。おはようございます。朝食ですか?」
「えぇ、ここの鶏料理が好きになりましてね。ご一緒させていただいてもよろしいですか」
「もちろんです。どうぞ」
アンデルはトマスに隣の席を勧める。
「ありがとうございます。ご主人、こちらと同じものを一つ」
トマスは、屋台の主人にアンデルと同じものを注文し席につく。
「少し顔色が悪いようですが、ご無理されてませんか」
「はは。お恥ずかしいです。いや、なかなか上手くいかないものだなぁと、悩んでいたんです」
「ふむ。アンデルさんの研究所はまだ新しいとのことでしたよね」
「えぇ、つい最近できた所です」
「なるほど。研究所はまだ新しく、アンデルさんもまだお若い。若い頃というのは失敗は付き物ですよ。あぁ、アンデルさんは今おいくつですか?」
「十八歳になりました」
「それはお若い。あぁ、なるほど」
トマスは一人何かを納得したように頷く。
「どうされました」
「失礼しました。実は、南部の方に二人弟がおりましてね、私は三十歳なんですが、弟は二十五歳と二十二歳になります。それで、アンデルさんに若いころの弟たちの姿を重ねていたのかもしれません」
少し寂しそうな雰囲気でトマスは家族の話を続ける。
「アンデルさん、食事をしながら少し私の昔話をさせていただいても良いですか」
「はい。お伺いしたいです」
「それでは・・・。ご存知かもしれませんが、南部は都市ごとに自治政府があり各都市の横の繋がりを持ちながら都市国家連合というかたちで統治されています。この連合はいくつかに分かれておりそれぞれに大商会がついています。お金を支援しその連合内の商売を管理するところや、より直接的に統治に関与する商会もあります」
「大商会が統治ですか。ちょっと想像できませんね」
「王国の方には馴染みのない形ですからね、無理もないかと思います。それにこうした形が整い始めたのはだいたい二十年程前です。二十年以上前はいわば商会同士の戦争のような場になっていました。造船の発達で他国との交易が増え、商会の規模が拡大し始める、そんな時代、私たち兄弟の両親、父と母は小さな商会を立ち上げました。行商から店を持ち、周りに仲間ができ、その仲間たちと商会を起こしたそうです。その商会は主に植物紙とそれに合わせたインクを取り扱い、少しずつ拡大していきました。しかし、商人同士の戦場です、拡大するにつれより大きな商会との衝突が始まりました。父と母の商会はその戦争に敗れました。色々あったようですが、それはこの場では控えます。敗れた父と母は失意の中、財産をすべて失い、仲間も失い、最後には二人とも自身の命をも失ってしまいました」
「それは・・・」
「当時はよくある話の一つにすぎなかったでしょう。残された私はまだ幼い弟たちの為にも働くしかありませんでした。当時、十六歳頃でしたか、両親の真似事のように、商売を始めました。でも所詮若造です、沢山失敗を重ねました。自分の失敗もあれば、人に騙されることも。とにかく多くの経験をさせていただきました。でも失敗しても、だまされても弟たちのためにと必死で走ってきました」
トマスは少し食事を取り、水を飲む。
「何年か前頃からようやく何とか形になってきましてね。弟二人には今南部で店を任せています。あぁ、いけない長くなってしまいました」
「いえ、聞かせてください。すごく勉強になりますので」
「ありがとうございます。それで、生活にも余裕が出来てきましたので新たな一歩として、この王国に来たというわけなんです。今は行商のような事をしながら、王国の事を学ばせて頂いています・・・。アンデルさん、上手くいかないことは当然の事です。大切なのは自分の中の柱を一本必ず忘れないでいる事です。自分の目指すものは何なのか、大切なものは何か。それが少し見えにくくなったときは初心を忘れないでください。始めたきっかけや最初に決心した時の自分の気持ちですかね。まぁ、全部父からの受け売りですが、ふふ。すみません年とともに説教臭くなると弟にも注意されてたんですが、つい悩める若者を前にやってしまいました」
トマスの言葉に深く頷くアンデル。
「いえ、トマスさん、すごく、今の自分にとってとても大切なお話をしていただけたと思います。ありがとうございます」
「えぇ、少しお顔が晴れやかになったようで私もよかったです。お食事お邪魔してすみませんでした。私はこれで」
そう言うとトマスは去っていく。
「初心・・・か」
晴れ渡る空を見上げアンデルはそっとつぶやいた。




