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第79話 約定

◇◇


 三〇三年、十月。

 グランヴェル王国がルスグラナの悲劇と王の重体に揺れている頃、グランヴェル王国の南に位置するエストリア帝国の帝都エーテルガルトは、北方の険しい山を越えてきた乾いた風に包まれていた。


 天を衝くような尖塔が立ち並ぶ帝宮。その最深部、白銀の装飾が施された玉座の間で、皇帝マクシミリアン・エストリアは、窓の外に広がる無機質な灰色の街並みを眺めていた。


「陛下。グランヴェルより密書です」


 静寂を破り、影のように現れたのは、皇帝の側近ヴァレリウスであった。冷静沈着という言葉を形にしたような銀髪の青年は、一寸の乱れもない所作で、封蝋の施された一通の書状を差し出した。


 マクシミリアンは無言でそれを受け取り、一瞥する。

 読み進めるにつれ、帝王の口元には、薄く、しかし確かな愉悦を孕んだ笑みが浮かんだ。


「ふむ。あの『獅子王』も、ついにその牙を折られたか。ヴァレリウス、彼らを集めよ。評議をはじめる」


◇◇


 帝宮の謁見の間。

 重厚な扉が開かれ、四つの巨大な足音が石畳を鳴らした。

 現れたのは、帝国の武威の象徴エストリア四天王。


 マクシミリアンは玉座に深く腰掛け、四人の猛者たちを見下ろして宣言した。


「ついに、時が来た。ヴァレリウス、内容を」


 ヴァレリウスが書状を開き、その硬質な声で内容を読み上げる。


「来月、三〇三年十一月二日。悪魔の化身レオポルド・アルフォンスに正義の鉄槌を下すため、挙兵する。そこで皇帝陛下におかれては、約定通り国境を越え、南地方への進軍を願いたい。事が成った暁には、南地方全域を帝国へ譲渡する。……なお、進軍の際、南地方の領主セレナ・ヴァレンシュタインが抵抗を見せるようならば、容赦なく彼女を討たれたし」


 その血生臭い「取引」の内容に、謁見の間には皮膚を刺すような緊張が走った。南の至宝と謳われるセレナを殺せという、非情極まる文言。だが、四天王の一人、赤い髪を逆立てた女傑アンネリーゼ・ハーゼンは、その瞳に狂乱の火を灯した。


「ちょうど1年……1年待って、ようやく鬱憤を晴らすときがきたわ!!」


 アンネリーゼは、前回の出撃を直前でマクシミリアンに制止されたことへの無念を抱え続けていた。彼女は飢えた獣のように唇を舐め、剣の柄を強く握りしめる。


「アンネリーゼ、貴女は総大将として兵を率いよ。……そしてルドルフ。貴様は参謀として彼女の補佐しつつ、確実に南を制圧せよ」


「御意。合理的な勝利を、陛下に捧げましょう」


 青白い顔に眼鏡を光らせたルドルフが、冷淡に一礼した。

 勇んで城を出立するアンネリーゼと、その後を追うルドルフ。エストリアが誇る武勇と知略。この二人の軍勢が動けば、他国への牽制が弱まり、侵攻の恐れが生じる。その代わりに、グランヴェルの南地方は確実に焦土と化す。ヴァレリウスは皇帝マクシミリアンがこの一戦に賭ける思いを痛切に感じた。


 二人の姿が見えなくなった後、マクシミリアンは背もたれに身を預け、ポツリと漏らした。


「ついに天運が我に味方する時が来たか」


 彼は満足げに頷き、再び白銀の街を見下ろした。

 十一月二日。奇しくもベルクタールの決戦でユリウスが敗戦の将となった、ちょうどその日だ。

 王国、帝国、そして覇王の野望が交錯するその日に向けて、歴史の歯車が不気味な音を立てて回り始めた。


◇◇


 エストリア帝国が北で牙を研いでいる頃、グランヴェル王国南部地方、第二の都市スロークの議事堂は、熱病のような高揚感に包まれていた。


 表向きの名目は「南部の経済発展に関する評議会」。しかし、立ち並ぶ衛兵の鋭い眼光と、集まった貴族たちの殺気立った空気は、これが平時の話し合いではないことを雄弁に物語っていた。


 議長席に座るのは、クック・ヘルマン子爵。

 彼はかつて南部の雄であった亡きヘルマン公爵の甥であり、優れた政務官として知られた男だ。先のベルクタール決戦には参加していなかったが、伯父が戦死し、心から敬愛していた第二王子ユリウスが処刑された後、彼は伯爵から子爵へと降格され、不毛な土地への領地替えという屈辱を味わっていた。


 その冷静な瞳の奥で、彼は静かに復讐の灯を燃やし続けてきた。そして今、彼の手元には二つの「吉報」が届いている。


「諸君、静粛に」


 クックが声を上げると、場は静まり返った。


「一つ、朗報だ。我らが不倶戴天の敵、国王レオポルドはルスグラナにて瀕死の重傷を負った。天は、正義がどちらにあるかを示されたのだ」


 議事堂にどよめきが走る。だが、クックはそれを手で制し、さらに声を張り上げた。


「そしてもう一つ。我らが軍に、あの『ベルクタールの至宝』が帰還した!」


 重厚な扉が開き、一人の女性が姿を現した。

 使い込まれた重厚な大剣を背負い、顔には歴戦の傷跡を刻んだ女傑――ドロテア・ヴァイスハルト。かつてユリウス軍の先鋒として獅子奮迅の働きを見せ、帝国軍からも恐れられた伝説の将だ。クックが三顧の礼をもって、隠棲していた彼女を呼び戻したのである。


「ドロテア様だ!」

「あの英雄がいれば、我らは負けぬッ!」


 貴族たちのボルテージは最高潮に達し、議事堂は地響きのような歓声に揺れた。


 しかし、クックの心中は複雑だった。

 評議室を見渡しても、南部の盟主であるはずのセレナ・ヴァレンシュタインの姿がないからだ。


 クックは事前に、セレナへ密使を送っていた。


『ユリウス様の子、レミ様が成人されるまで、後見人としてあなたに玉座を用意しましょう。実質的な女王として、共に新しい王国を創り上げようではないか』


 それは、ユリウスの血統を保護している彼女への、最大限の敬意を込めた誘いだった。だが、セレナは首を縦に振らなかった。彼女の元には今もユリウスの妻子が身を寄せている。

 クックは、ユリウスの妻や遺児をこれ以上の戦乱に、ましてや「帝国の侵攻」という劇薬を伴う謀反に巻き込ませたくなかった。だからギリギリまで粘り強く交渉を続けるつもりだった。


 しかし、こういう好機に限って、さらに追い風が吹く。

 エストリア帝国から、正式に援軍要請を快諾する返信が届いたのだ。

 もはや、賽は投げられた。


「セレナ様はどうされた! なぜこの場におられぬ!」

「あの女、よもや王国の軍門に降ったのではあるまいな!」


 沸騰した貴族たちの熱気は、次第に「狂気」へと変質していく。彼らにとって、この挙兵に参加しない者はもはや裏切り者でしかなかった。


「ヴァレンシュタインを蹂躙せよ! 逆らうならセレナの首を撥ねろッ!!」


 怒号が渦巻く。クックはこの暴徒と化した貴族たちを止めることはもはや不可能だと悟った。となれば、進むべき道は一つしかない。


「静まれ!!」


 クックは拳を机に叩きつけた。


「セレナ様が共に行けぬというならば、我らだけで行こうではないか!」


 そうだ、そうだ、と威勢の声に場が包まれる。と、その時、ドロテアの低い声が響いた。


「総大将はクック・ヘルマン卿こそが適任であろう」


 一瞬の静寂。衆目の視線がクックに集まる。

 そして彼が小さく、ゆっくりとうなずいた瞬間、再び評議室は歓喜に沸いた。


「……私が、総大将としてこの軍を率いよう」


 立ち上がったクックを、ドロテアが静かに、しかし深い覚悟を宿した瞳で見つめていた。


◇◇


 三〇三年、十月。

 西部地方の要衝、領都ブランフォード。国王レオポルド三世を「救出」し、奇跡の生還を果たしたエリオス・リオンハートに与えられたこの街は、今や王都ヴァルディアを凌ぐほどの熱気に包まれていた。


 だが、その喧騒から切り離された辺境伯邸の最上階。エリオスの執務室には、冬の訪れを予感させる冷徹な静寂が満ちていた。


「スロークにおける評議会の報告だ。クック・ヘルマンが総大将の座に就き、女傑ドロテアが合流。南部連合軍は既に、挙兵に向けて剣を研いでいる」

「挙兵はいつになりそうか?」

「十一月二日」


 卓上の魔導通信機から、隠密行動中のフェリオの声が低く響く。

 エリオスは背もたれに身を預け、目を閉じてその報告を聞き終えた。彼の傍らには、エリオスの軍師となったレオニード。そしてその対面には、もう一人の参謀ルチア。今やエリオスの頭脳とも言える二人が控えている。


「ご苦労、フェリオ」

「いや、いいってことよ。ちょっと酒場に寄って、噂話でも聞いてくるぜ」

「飲みすぎるなよ」

「へへっ。おまえと違って、悪酔いしないんだ、俺は」


 通信が切れると、エリオスはゆっくりと目を開いた。彼が何か言い出す前にルチアが口を開いた


「さて。旧ユリウス派クックが動いた。帝国も動く。この動きは国王陛下の耳にも届いているはず。もう待ったなしってところね」


 エリオスは卓上の地図を指先でなぞる。


「この局面、俺たちはどう動くべきだと思う?」


 まず口を開いたのは、レオニードであった。彼は冷静に、かつ合理的な損得勘定を言葉に乗せる。


「迷う必要はありません。国王レオポルド側として戦うべきです」


 レオニードの声は、機械のように正確だ。


「現在の王軍は、カルヴァン共和国との戦耗により弱体化しています。そこでエリオス様が『唯一の忠臣』として反乱軍を鎮圧すれば、王都における地位は不動のものとなる。それに今やエリオス様はライナルト殿を差し置いて『王国第一位』の軍人。重傷の陛下に代わり、あなたが王国軍の総司令官の座に就くのは時間の問題です。そうなればこの国を自由に動かすことができましょう」


 それは、既存の権力構造を利用して頂点に登り詰める、正攻法の「簒奪」の提案であった。


 対して、ルチアは冷ややかな笑みを浮かべ、首を横に振った。


「レオニードさん、あなたは南部の人間の情念を過小評価しているわ。エリオス様、私は違う意見よ」


 ルチアは一歩前に出ると、その鋭い瞳でエリオスを見据えた。


「今こそ旧ユリウス派と合流し、王都を打ちのめすべきだわ。セレナ様もクックの言葉には耳を貸さなくても、エリオス様の意見は無下にできないはず。セレナ様を動かし、彼女を総大将にまとめ上げれば、南部と西部、王国の大半が手に入る。弱り切ったレオポルドを追い落とし、セレナ様を女王に据え、エリオス様が宰相として実権を握る。ふふ、最高だと思いません?」


 情愛と復讐心、そしてかつての夢。南部の熱狂を燃料に、王国を根底から作り変える。それはルチアにしか出せない、情熱的で過激な破壊の提案であった。


 一人は「王を守ることで支配せよ」と言い、もう一人は「王を壊すことで新生せよ」と言う。

 二人の智将の意見は、どちらも合理的であり、どちらも勝利への道筋として成立していた。


 エリオスはしばらく沈黙を守った。指先でトントンと机を叩く音が、部屋の緊張感を高めていく。

 やがて、エリオスはふっと口角を上げ、静かに椅子から立ち上がった。


「どちらの意見も面白い」


 エリオスは窓際へ歩み寄り、遠く南の空を眺めた。そこには既に、戦火の不吉な予感が漂っている。


「だが、それでは遠回りだ……」


 エリオスが振り返る。その瞬間、レオニードとルチアは、身体を貫くような威圧感に気圧された。


「国王側について恩を売るのも、反乱軍について復讐を果たすのも、結局は遠回り。もはや機は熟した」


 エリオスは地図の上に置かれたチェスの駒――「王」と「反乱者」を、同時に弾き飛ばした。


「俺は両軍とも撃破し、王国の混乱に終止符を打つ」


 その言葉に、部屋の空気が凍りついた。


「……両軍を、ですか?」


 レオニードが驚愕に声を漏らす。


「うそ……」


 普段はどんな状況でも平然としているルチアですら、目を丸くして立ち尽くす。

 二人の反応を楽しむようにエリオスは彼らの表情を交互に見比べながら続けた。


「そうだ。弱った王国軍。烏合の衆の反乱軍。彼らに散々戦ってもらった後、生き残った方を叩きのめす」


 エリオスは不敵な笑みを浮かべ、二人を見据えた。


「機は熟した。この国を俺たちの手中に収めるぞ」



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