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第80話 覇王の布石、女王の覚悟


 エリオス、レオニード、ルチアの3人の話は南方の大国エストリアに向けられた。


「南部地方の挙兵に乗じ、エストリア帝国が侵攻してくるのはもはや確実でしょう」


 軍師となったレオニードが、地図上の国境線に赤い駒を置く。

 エリオスは、窓の外の景色を眺めながら、短く、しかし拒絶の色を隠さず答えた。


「一国の王の葬儀に使者のひとつも寄越さない無礼者に、我が国の領土に土足で踏み込ませるつもりは毛頭ない」


 その言葉に、ルチアがいたずらっぽく微笑み、茶化すように口を挟む。


「あら、それにセレナ様の身も心配ですものね、エリオス様?」


 エリオスは答えず、ただ視線だけでルチアを黙らせたが、その静寂がかえって肯定のように響いた。


 レオニードが話を戻す。


「ですが、まともにぶつかればこちらの消耗も小さくない。さりとて、ヴァレンシュタイン軍だけで帝国の主力を抑えきるのは……正直、無理です」


 合理的な絶望。だが、エリオスは余裕を崩さない。その理由を問うルチアに対し、エリオスは冷徹な「理」を口にした。


「敵の敵は味方だ。エストリアの主力が全軍を挙げてこちらに矛先を向けたその瞬間こそ、彼らの『背後を狙う敵』にとっては、エストリアを攻める絶好の機会となるだろう」


「敵の敵……。エリオス様、まさか我々に味方してくれる国が他にあると?」


 レオニードの問いに、エリオスは淀みなく答えた。


「セラフィア神聖国だ」


 その国の名がエリオスの口から出たとたんにルチアの顔が固まる。

 それもそうだろう。

 そのセラフィア神聖国はエリオスに『悪魔』の疑いをかけて、聖騎士を彼の領土に寄越したのは、まだ記憶に新しいのだから。

 言わば、エリオスにとっては『天敵』といってもいい存在。もし次に『悪魔』の疑いをかけられれば、その時はもう言い逃れはきかない。そんな相手をまさか味方につけようなど、恐れ知らずの大胆不敵なルチアとて想像だにしなかった。


「なるほど……。たしかにセラフィアはかつてエストリアからの侵攻によって、領土の一部を失った歴史がある。数十年たった今でも国境付近の警戒は厳しい。そんな彼らを味方につければ、あるいは背後を突いてくれるかもしれませんね」


 事情を知らぬレオニードは冷静に分析した。


「しかしどの国とも軍事同盟を結んでいないセラフィアが、はたして領土奪還だけを大義名分にグランヴェルと手を結ぶでしょうか……」


 その難題にエリオスはさらりと答えた。


「同盟締結に必要なのは、相手を信頼させること。つまり信頼するに値するものを差し出すことだ」


 ルチアが小首をかしげる。


「では、何を差し出せばいいのでしょう?」


 エリオスはそこで地図の一点を指さした。それは南部地方の領都——セレナ・ヴァレンシュタインの居城だった。


「セレナ様に動いてもらいましょう」


◇◇

 

 王都ヴァルディア。

 内戦の足音は、もはや隠しようのないところまで近づいていた。南部のクック・ヘルマンが、ユリウスの遺児レミの返還を要求し、国王レオポルドがそれを一蹴。この事実が知れ渡ったことで、民衆の間には「再びあのベルクタールの惨劇が繰り返されるのか」という恐怖が蔓延していた。


 そんな中、王都を訪れたのは、南部地方の盟主セレナ・ヴァレンシュタインであった。

 騎士団長オルハンと数騎の供回りを連れた彼女の入城は、張り詰めた王都の空気を一層鋭くさせた。


 謁見の間。玉座に座るレオポルドは、喜んで彼女を迎え入れた。

 だが、その姿は一変していた。かつての猛々しい「獅子王」の面影はなく、負傷の影響か、ひどく覇気に欠けている。その眼差しは、不気味なほど柔和で、別人のようであった。


「セレナ。遠いところよくぞ来てくれた! 嬉しく思うぞ」


 その傍らには、大公ルクレールの姿があった。

 少し見ない間にすっかり老け込んだ印象だが、余計な肉が削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた刃のように眼光だけが鋭い。


「お久しぶりです、陛下」


 セレナは簡潔な挨拶を済ませると、本題を切り出した。


「陛下。エストリアの軍勢が我が領の国境付近に集結しております。内戦に乗じた侵攻は火を見るより明らか。……どうか、国王軍より援軍を賜りたい」


「そんな余裕がないのは、貴女が一番よく知っておられるだろう」


 レオポルドが口を開く前に、ルクレールが遮るように告げた。


「先のカルヴァン共和国との戦いで、王軍の主要な貴族は疲弊しきっている。兵の不満を抑えるだけで手一杯なのだ。そこに逆賊どもが反旗を翻した……我らこそ、たまったものではない」


 ルクレールは忌々しげに言葉を吐き捨て、セレナを睨みつけた。


「むしろ、貴女からリオンハート辺境伯を説得してほしい。奴はあれこれ理由をつけて兵を送るのを渋っているようだが、もし反乱軍制圧に協力せぬならば、忠誠心なしとみなし、処罰せざるを得ない」


「それはいけないッ!」


 玉座から、レオポルドの鋭い否定が飛んだ。ルクレールが驚いて王を振り返る。


「エリオスは俺にとって命の恩人なのだ。それに彼はカルヴァンとの国境を固めるという重責を担っている。たとえ戦いに手を貸してくれずとも、彼を罰することなど……この俺が許さん」


 レオポルドの声には、恩義を超えた「依存」に近い熱が籠もっていた。


 セレナは黙ったまま、目の前の二人を見比べていた。

 この二人の間に、目に見えぬ亀裂が走っている。かつては王国の双璧であったはずの主従が、いまや互いを不信の目で見つめ合っている。


(この亀裂を作ったのは、他でもない。彼だ……)


 ここにいないエリオスの気配。彼の指先が、この王宮を、そしてこの国を、まるでおもちゃのように弄んでいる。そう気づいた瞬間、セレナの心臓が不自然に跳ね、体温がふっと上がるのを感じた。


 ――セレナ様、ひとつお願いがあります。陛下にお会いいただきたいのです。


 実は、セレナが今日この場に立ったことさえ、エリオスの指示によるものだった。

 ルクレールが援軍を拒否することも、エリオスを脅しの材料に使うことも、彼はすべて正確に予言していた。


(彼にはどこまで見えているのやら)


 畏怖と、抗いがたい熱。セレナは乱れそうになる呼吸を整えると、エリオスから授かっていた「真の要求」を、迷いなくレオポルドに投げかけた。


「援軍が叶わぬのであれば、陛下。ひとつだけ、ご許可をいただきたく存じます」


 セレナの声が、静まり返った謁見の間に凛と響く。


「セラフィア神聖国との同盟締結。これをお許しください」


 その一言が、レオポルドとルクレールの表情を凍りつかせた。

 セレナの口から出た「セラフィア神聖国」という名は、この世界の成り立ちそのものを象徴する、あまりにも重い言葉であった。


 遡ること三百年前。

 世界は『魔王』と呼ばれる存在によって、その大半が暗黒の支配下に置かれていた。絶望が大地を覆う中、一人の勇者が現れる。その名はエリュシア。彼女が魔王を討ち果たしたことで、人類は解放の時を迎えた。


 人々は彼女を救世主として称えたが、その熱狂はいつしか信仰へと形を変え、エリュシアは生きながらにして「神」として扱われるようになった。魔王の恐怖から逃れた民は、勇者の代弁者を自称する宣教師たちのもとへ集まり、宣教師たちはいつしか領主として大地を治めるようになった。勇者の居城は大聖堂へと建て替えられ、勇者の死後、正式に「エリュシア教」を国教とするセラフィア神聖国が誕生したのである。


 かつて、この世界の中心は間違いなくセラフィアであった。

 だが、百年の時が過ぎる頃には、あまりにも狂信的な教義に反発する者たちが現れ始めた。彼らは聖地を離れ、独自の道を歩み出す。それがエストリア帝国や、後のカルヴァン共和国へと繋がっていく。グランヴェル王国もまた、教えを尊びながらも政治的な独立を果たした国の一つであった。


 セラフィア神聖国は、かつては不可侵の聖域とされていた。

 グランヴェルの南側は広く神聖国と接しており、かつての両国の仲は、国境に警備を置く必要がないほどに親密であった。


 だが、五十年前。

 急成長を遂げたエストリア帝国が、あろうことか「神の領土」へと侵攻を開始した。グランヴェル王国は同盟国として大規模な援軍を送ったが、結果は惨敗。セラフィアは肥沃な領土の一部を奪われ、その時に現在の「グランヴェルとエストリアの国境線」が引かれることとなった。


 以来、セラフィア神聖国は、武力による領土奪還を諦め、「専守防衛」を国是として掲げた。自ら帝国を攻めない代わりに、帝国からもこれ以上の侵攻をさせないという、屈辱的ながらも平和を維持する約束を取り付けたのである。


「同盟、だと?」


 大公ルクレールは、目の前のセレナを凝視した。

 彼女がこの歴史を知らぬはずがない。セラフィアは「自分たちからは決して手を出さない」と誓った国だ。そんな国と結んだところで、エストリアへの直接的な脅威にはなり得ない。せいぜい、背後からの視線がわずかに気にかかる程度の「有名無実」な同盟に過ぎない。


(なぜだ。セレナ・ヴァレンシュタインは、そのような無意味な策を講じる女ではないはずだ……)


 ルクレールは必死に思考を巡らせた。何かがおかしい。彼女の背後に、誰の影が見える?

 その瞬間、脳裏に一人の青年の顔が浮かんだ。


 ――エリオス・リオンハート。


 その確信を得た瞬間、ルクレールの喉元までせり上がっていた不信感が、無意識のうちに言葉となって漏れ出した。


「認められない。そのような、国家の格を落とすだけの無益な同盟など——」


 セレナの表情が、微かに曇る。

 だが、そのわずかな揺らぎさえも、エリオスから「ルクレールは必ずこう反応する」と言い含められていた通りの演技であった。


「いや、俺は認めよう」


 遮ったのは、玉座のレオポルドであった。

 以前の彼ならば、ルクレールの慎重な進言に耳を傾けただろう。だが、今のレオポルドにとって、ルクレールの「理屈」は、自分を救ったエリオスへの不忠、あるいは臆病にしか聞こえなくなっていた。


「陛下、しかし……!」


「いいではないか。セラフィアと結ぶことで、少なくとも民の不安は和らぐ。それに、エリオスを信じているセレナの願いだ。……認めよう。俺が許す」


「……っ!」


 ルクレールは絶句した。王の瞳には、もはやかつての冷静な判断力はなく、ある種の偏った「信頼」だけが揺らめいている。


「陛下、寛大なるご処置、感謝いたします」


 セレナは深々と頭を下げた。愕然として立ち尽くすルクレールを余所に、彼女は静かに、そしてエリオスが描いた盤面の次なる一手へと進むべく、謁見の間を後にした。


 残されたルクレールは、去りゆく彼女の背中に、自分たちの理解を超えた「覇王の毒」が、王国の心臓部にまで回っていることを痛感していた。



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