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第77話 国王、奇襲

◇◇


 三〇三年、九月。

 要衝ルスグラナを包囲するグランヴェル王国軍の本陣には、九月半ばの冷気が入り込み、軍幕の中を奇妙なほど張り詰めさせていた。


 天幕の中心、巨大な円卓を囲むように並ぶ将校や名門貴族たちの間には、かつての放漫な空気は微塵も残っていない。彼らの視線はただ一点、椅子に深く腰掛け、卓上の戦況図を無機質な瞳で見つめるエリオス・リオンハートに集中していた。かつて彼を「クズ息子」と蔑んでいた者たちは、いまや呼吸の音さえも憚られるほどの重圧に、音もなく喉を鳴らすだけである。


 特に副将ライナルト・シュタインベルクの様子は、数日前とは劇的に変化していた。王国第一位の騎士としての矜持は、エリオスという「底知れぬ深淵」を前に、沈黙という名の服従へと変貌を遂げている。彼は、エリオスの唇が次にどのような「決定事項」を紡ぐのか。それだけを逃すまいと、全身を耳にして立ち尽くしていた。


「全軍に告ぐ」


 エリオスの声が、冷たい風のように静かに天幕を抜けた。


「陛下が本陣にご着陣された後、ルスグラナへの総攻撃を開始する。それまでは、不用意な接触は控えよ。無駄に兵を失うことは、わが本意ではない」


 それは、表向きは兵を慈しむ「賢明な指揮官」としての言葉であった。しかし、その内実にあるのは、レオポルド王という王国の権威そのものを、この戦場という舞台の最前線に引きずり出すための冷酷な計算であった。

 そうとも知らず、「さすがはリオンハート卿、陛下のことを良くご存じでらっしゃる!」などと、貴族たちはてのひらを返すようにエリオスを称賛している。

 そんな彼らに、エリオスは穏やかな表情で続けた。


「また、城内に取り残された市民を、これ以上の戦火に巻き込むつもりはない。カルヴァンシティへと続く西門の包囲のみを一時的に解き、市民の脱出を許可せよ。……ただし、兵の一人たりとも逃すことは許さん。徹底して身元を確認しろ」


 慈悲深いこの命令に、貴族たちは「リオンハート卿は噂に違わぬ賢人だな」と感心した。

 だが、その影でエリオスの口元がわずかに歪んだのを、誰も気づくことはなかった。


◇◇


 対するルスグラナ城内。石壁の隙間から差し込む月光だけが、沈痛な面持ちで並ぶ共和国防衛部隊の指揮官たちを照らしていた。

 なかでも、主任研究員ニックの様子は悲惨であった。かつて『アブソリュート・イージス』という不落の盾を誇っていた時の傲慢さは見る影もなく、その瞳は濁り、憔悴しきった顔はまるで死人のようであった。自らの科学的プライドを「虫」という原始的な手段で粉砕された衝撃は、彼を自決の淵へと追い込んでいた。


 その重苦しい沈黙を、一人の男の声が切り裂いた。


「まだだ。すべてを諦めるには、いささか早すぎる」


 参謀長レオニード・アルヴァレス中佐であった。彼はかつてエリオスの前で見せた絶望的な顔を脱ぎ捨て、再び有能な指揮官としての仮面を被って立ち上がった。その力強い言葉に、指揮官たちが顔を上げる。

 しかし、彼らの耳にも首都でレオニードの名声は地に墜ち『無能』と罵られているのは入っている。そのため、その目は一様に冷ややかだった。


「逆転の一手は、まだ残されている。諸君、国王レオポルドが、わがルスグラナに向けて自ら進軍中であるとの報が入った」


 レオニードの声は、暗い部屋の中で不気味なほど鮮明に響いた。


「勝利を確信した彼らは、あえて寡兵を率い、油断しきった状態でこちらへ向かっている」


「なぜ……そんなことを知っているです? あちらの方への偵察はできない状況なのに……」


「今はそんなことを気にしている場合か!?」


 これまでのレオニードにないほどに、怒気が含まれた声色に、空気が引き締まる。


「とにかく、そこを突く。奴らがルスグラナに着陣する前夜、滞在するキャンプ地を奇襲するのだ。ただし殺してはならぬ。そうなれば、復讐に燃える彼らは、真っ先にここを火の海に変えるだろう。あくまで深手を負わせる。王が負傷したとなれば、、王国軍は王を伴って退かざるを得ないだろう」


 そのあまりに大胆な、死地に飛び込むような策に、一同は息を呑んだ。


「だが、包囲網をどう抜けるのですか?」


「エリオス・リオンハートは、市民のために西門を一時的に開くと宣言した。……その慈悲を利用するのだ。市民の振りに徹して、西門の警備の緩い瞬間を抜け出す」


 レオニードは冷徹に盤面を説明した。しかし、これには致命的な問題があった。兵士であれば、どれほど変装してもその所作や体つきで発覚する恐れが高い。


「その任務……私にやらせてください」


 消え入りそうな、しかし熱狂を帯びた声が上がった。

 ニックであった。

 彼は震える手で机を叩き、レオニードを見つめた。


「私は兵士ではない、ただの非力な研究員だ。……研究員ならば、市民の中に紛れても、彼らの目を欺くことができるはずだ。私の失態は、私の手で……この命を賭して、償わせてください」


 ニックの瞳には、かつての自尊心ではなく、破滅へと向かう異常な執着が宿っていた。


 レオニードはしばし沈黙し、窓の外に見える敵陣の篝火を見つめた。

 彼の脳裏をよぎるのは、数年前に病で先立ち、今はもう声を聞くことも叶わない愛妻の姿だった。


(済まない、お前。俺は、愛する祖国を売る道を選んだ)


 だが、その背徳感を塗り潰したのは、アイザックに保護されている年老いた母、そして最愛の娘――ソフィの安否であった。

 この狂った国家と心中しても、ソフィに未来はない。ヘンリー大統領のような俗物に利用され、最後は泥をすすって死ぬだけだ。ならば、たとえ「化け物」の軍門に降ろうとも、娘だけは光のある場所へ送り届ける。


 レオニードは、深い慈愛を装った残酷な微笑を、エリオスの密命を受けたその裏側で浮かべた。


「わかった、ニック。貴殿の勇気にすべてを託そう。貴殿こそが、共和国の救世主だ」


 こうして、覇王エリオスの描いた筋書き通りに、狂王レオポルドを襲撃するための「狂信的な刺客」が、絶望の城から解き放たれようとしていた。


◇◇


 ルスグラナを目前に控えた平原。国王レオポルド三世の着陣は、王国軍にとって「戦いの終わり」を意味していた。

 キャンプ地には至る所で篝火が焚かれ、芳ばしい肉の香りと、勝利を確信した兵たちの笑い声が響く。前線であるはずの場所は、いまや王を歓待するための巨大な宴会場へと変貌していた。


 中心に据えられた豪華な天幕。レオポルドは上機嫌で毛皮の寝床に横たわっていた。

 彼はふと思い出したように、枕元に置かれた銀細工の魔道具を手に取った。数週間前、出陣に際してエリオスから「万が一の備え」として贈られたものだ。


「ふん。エリオスのやつめ。まったく憎いものをくれたものよ」


 レオポルドは鼻で笑いながら、その魔道具を起動させた。

 天幕の空気がわずかに震え、淡い青色の光が王を包み込む。それは、高威力の魔導攻撃を減衰させる保護結界であった。

 王は満足げに目を閉じ、深い眠りへと誘われていった。


◇◇


 同じ刻、あたりが一望できる小高い丘の上。

 かたわらにカイルを伴ったエリオスは夜空を見上げていた。

 彼の脳裏には、冷徹な盤面が完成していた。


(レオニードが動くなら、剣士の刺客は送らない。陛下の周囲を固める近衛を突破し、確実に命を奪うには、カルヴァンお得意の魔道具を使う以外にないはずだ)


 だが魔道具を使うとなると、調節が難しい。

 一度に数千という人間の命を奪う『アストラ・ノヴァ』という殺戮兵器がいい例だ。

 間近から魔道具を利用されたら……。


(だが、今陛下に死なれては困る)


 だからこそ、エリオスはあらかじめ「護身」と称して、その威力を最小限に抑え、王を死なせないための「安全装置」をレオポルドに渡しておいたのだ。


◇◇


 深夜。

 キャンプ地の外縁に、亡霊のような足取りで近づく影があった。

 正気を失い、泥にまみれた主任研究員ニックである。その身体には、自らの誇りであった魔導の粋を集めた自爆装置が幾重にも巻き付けられていた。

 その原理は『アストラ・ノヴァ』と同じ。威力こそ比べ物にならないほど小さいが、それでもキャンプ地を灰にすることなど造作もないほどであった。


「……光を……。傲慢なる王に、私の最高傑作を……」


 ぶつぶつと呪詛を呟きながら、彼は王の天幕へと近づいていく。


「何奴だ! 止まれ!」


 ようやく異変に気づいた一人の兵士が、槍を構えて呼び止めた。だが、ニックは笑みを浮かべたまま、その足を止めない。

 兵士がニックの装束を見て「共和国の鼠か!」と叫び、その胸元を深く斬りつけた。


 瞬間――。

 夜の帳が、白銀の閃光によって完全に消し飛ばされた。


「――っ!? あああああああ!!」


 凄まじい爆音と共に、王の天幕が、そして周囲にいた兵たちが、暴力的な熱波に飲み込まれていく。

 もしエリオスの贈った魔道具がなければ、レオポルドは骨も残らず灰となっていただろう。だが、エリオスが「予防」として張らせた結界は、ニックの放った必殺の爆発を、ギリギリのところで押し留めた。


 天幕が燃え上がり、地獄と化した現場。

 レオポルドは吹き飛ばされ、大地に叩きつけられていた。


「ぐああああああ!!」


 エリオスの計算通り、彼は死んでいない。しかし、その身体は爆風に焼かれ、王としての威厳を支える強靭な四肢と精神は、再起不能なまでの傷を負っていた。


 エリオスは、夜空を焦がす一筋の光を見つめ、静かに、そして美しく口角を上げた。


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