第75話 約束の10日
三〇三年九月三日。
要衝ルスグラナは、八月の猛暑が嘘のような、刺すような冷気に包まれていた。だがその寒さは季節のせいだけではない。城全体を覆う、あまりにも濃密で、異質な魔力の波動によるものだった。
城内にそびえ立つ三つの巨大な見張り塔。その頂上部には、不気味なほど緻密な紋様が刻まれた、漆黒の巨大魔導装置が据え付けられていた。
国立研究所主任、ニックは、寝不足で充血した瞳に狂気的な光を宿し、最後の手順を終えた。
「起動せよ。魔導防壁『アブソリュート・イージス』」
ニックの声が響くと同時に、三つの塔から天に向かってまばゆい銀光の柱が突き抜けた。光は空中で交差し、ドーム状の薄膜となって城全体を包み込んでいく。
それは単なる防壁ではなかった。魔晶石の魔力を強制的に固定し、外部からのあらゆる魔晶石によるエネルギー干渉を無効化する、究極の「拒絶」の空間。さらにその余波は石造りの城壁にまで及び、表面を鈍い銀色に染め上げた。
「見てくれ、レオニード中佐」
ニックは白衣の裾を風にたなびかせ、城壁に立つレオニードを振り返った。 「このイージスが展開されている限り、ルスグラナの強度は世界一硬い鉱石『ミスリル』に匹敵する。物理的破壊も、魔導による爆砕も、もはやこの城には通用しませんよ。……アストラ・ノヴァを返された屈辱、ここで雪がせていただきます」
ニックのプライドを懸けたその銀の輝きは、ルスグラナを地上の理から切り離された、孤高の「聖域」へと変貌させていた。
◇◇
ルスグラナ攻城戦開始3日目。
城を包囲するグランヴェル王国軍の陣営は、数日前までの活気が嘘のように、重苦しい焦燥感に支配されていた。
「全軍、盾を掲げよ! 退くな、誇り高き王国の騎士としての意地を見せろッ!!」
攻城戦の指揮を執るライナルト・シュタインベルクの咆哮が、ルスグラナの原野に響き渡る。
王国第一位の騎士である彼は、自ら先頭に立ち、兵を鼓舞し続けていた。だが、城壁の上から降り注ぐのは、共和国が誇る最新鋭の魔導ボウガンによる、音速の矢の雨だった。
「突撃ィッ!! 城門を砕け!!」
ライナルトの号令で、巨大な破城槌が引きずり出され、城門へと叩きつけられる。凄まじい衝撃音が響き、大地が震える。
だが、結果は無慈悲だった。
世界一硬いミスリル級の強度を誇る門には、傷一つ付かない。それどころか、反動で破城槌の方が無残に砕け散った。
「馬鹿な……。攻城兵器が、通用しないだと……?」
ライナルトは絶句した。
日が経つにつれ、兵たちは飢えと疲労、そして何より「何をやっても無駄だ」という無力感に蝕まれていく。
数日前までエリオスを嘲笑っていた貴族たちも、今や泥にまみれた陣幕の中で、蒼白な顔をして互いに責任をなすりつけ合っていた。
「けっきょくはライナルト卿も同じ。兵をすり減らすだけではないか」
「これならまだ結果を残すリオンハート卿の方がマシだな」
「王国第一位も過去の話、というわけか……」
聞こえてくる陰口を、ライナルトは拳を血が滲むほどに握りしめて耐えるしかなかった。騎士道に基づいた正攻法が、ニックの狂的な技術と、レオニードの悲壮な決意の前に、無力化されている。
ライナルトは、後方の本陣で静かに「謹慎」しているエリオスの天幕を見つめた。
(あの男なら、この状況をどう打開する……?)
◇◇
同じ頃。
戦場から遥か離れた共和国の首都、カルヴァンシティ。
「非常事態宣言」下にある街は、華やかな看板の裏に、秘密警察の耳目が潜む息苦しい場所へと変貌していた。
粗末な麻の服を纏い、穀物商人に扮したアイザックは、重い荷車を引いて街の北端へと足を進めていた。
エリオスから授かった密命――「レオニードの家族を捜せ」。
数日間にわたる執念の捜索の末、彼はついに、目指す一軒の小さな屋敷を突き止めた。
「ひどい有様だな」
アイザックは物陰からその家を睨み、短く呟いた。
かつての英雄の邸宅であったはずの場所には、見るも無残な落書きが書き殴られていた
『裏切者』
『無能』
『敗戦の責任を取れ』
窓ガラスは割られ、板が打ち付けられている。国家の英雄を、大統領という主君が自ら民衆の憎悪の標的に仕立て上げた、その歪んだ証拠がそこにあった。
アイザックは息を殺し、観察を続けた。
昼間、その家からは一切の気配が消えていた。まるで死人の館のように、親子は人目を避け、屋敷の奥で息を潜めて過ごしているのだろう。
夜になり、街の喧騒が不気味な静寂へと変わった頃。
屋敷の裏口が、かすかな音を立てて開いた。
黒い外套で顔を深く隠した年老いた女性と、その手にしがみつく小さな少女。
レオニードの母と、その幼い娘だった。
二人は怯えたように周囲を気にしながら、近隣の店へ食料品を買いに出かける。街で唯一の味方なのだろうか。店主は彼女たちを周囲の目から守るように店内に招き入れた。そして買い物を終えると、二人は早足で通りを抜けていく。少女は、祖母の服をぎゅっと握りしめ、俯いていた。
「いたたまれないな……」
アイザックにも守るべき家族がいる。だから、もし自分の目の届かないところで、家族がこのような目にあっていると知れば、気がおかしくなってしまうかもしれない。
彼は、闇の中からその様子を静かに見守り、懐にあるエリオスからの「通信機」を指先で起動した。
「エリオス様、こちらの準備は整いました」
エリオスからの返事はない。
しかし、その声が確かに届いたことを示すように、通信機がかすかに熱を帯びた。
◇◇
三〇三年、九月十三日。
王国第一位の騎士、ライナルト・シュタインベルクに与えられた十日間の猶予は、一筋の光明も見えぬまま最期の朝を迎えた。
エリオスの私用テントの周辺だけは、戦場の喧騒から切り離されたような静寂が保たれていた。
テントの主、エリオス・リオンハートは、戦況図など一目も見ることなく、優雅に温かな紅茶を口にしながら、古い魔導書の頁を繰っていた。その身に纏う漆黒の正装には塵一つなく、まるで王都のサロンで読書に耽っているかのような、異常なまでの平穏がそこにはあった。
天幕を揺らし、一人の男が入ってきた。
ライナルト・シュタインベルクであった。
十日前、自信と誇りに満ちていた「王国最強」の姿はどこにもなかった。黄金の装飾が施されていた甲冑は泥と返り血に汚れ、至るところに魔導ボウガンの擦過傷が刻まれている。無精髭に覆われた頬はこけ、その瞳からは、かつての鋭い剣気が完全に失われていた。
エリオスは本から目を離さず、磁器のカップを皿に戻した。
「シュタインベルク殿。戦は終わったのですか?」
その淡々とした、しかし氷のように冷たい問いかけに、ライナルトは絶句した。彼は絞り出すように首を横に振り、やがて、音を立ててその場に両膝を突き、深々と頭を下げた。
「約束、通りだ。私は……一歩も、ルスグラナへ近づくことができなかった」
エリオスは静かに魔導書を閉じ、膝を屈しているライナルトに初めて視線を合わせた。
「大変多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございます」
それは感謝の言葉でありながら、敗者に対するこれ以上ない侮辱でもあった。
エリオスは動けないままのライナルトをその場に残し、静かに天幕の外へと消えた。
◇◇
本陣の巨大な天幕には、ライナルトに付き従っていたレオポルド派の貴族たちが全員揃っていた。
彼らの顔に数日前までの傲慢さはなく、ただ無慈悲な結果に打ちのめされた者特有の、暗い焦燥だけが満ちている。
ライナルトがエリオスに遅れて入ってきた。
それを確認したエリオスは、通信機を起動させる。
そのとたんに、国王レオポルドの苛烈な咆哮が響いた。
『シュタインベルク! 10日によい報告をすると豪語しながら、傷一つ付けられぬとは何事だ!』
エリオスが静かに「陛下」と声をかけると、国王の声は一転して期待を孕んだものに変わった。
『エリオスよ、お前の謹慎を今この瞬間をもって解く。……そしてライナルト。貴様は総大将の補佐を解任だ。即刻、王都へ戻り、己の無能を恥じるがいい!』
「陛下、お待ちください」
エリオスが遮るように声を上げた。
「シュタインベルク殿の献身的な攻勢があったからこそ、敵の防衛網の隙が判明したのです。彼の功績を認め、このまま副将として留めるよう進言いたします」
それは慈悲ではなかった。ライナルトという「最強」の男を、王都へ返さず手元に置き、負い目という鎖で縛り上げるための布石であった。
『お前がそこまで言うのなら許そう。だが、城はどうする!』
「ご安心を。三日後には城を落とす支度が整います」
エリオスは不敵に微笑み、通信機の向こうの王へ告げた。
ライナルトをはじめ、本陣にいる全員が「馬鹿な……」と小声でつぶやく。
それもそうだ。
これまで多くの犠牲をいとわず、休まずに攻め続けたにもかかわらず、まったくの無傷な城を、たったの三日で落とすと宣言したのだから。
「陛下、どうか三日後には、勝利の凱旋をその目で見届けるべく、自ら出陣していただきたい」
その要請をレオポルドは快諾した。
◇◇
軍議を終えたエリオスが次に向かったのは、兵糧や武器が集まる補給部隊の区画であった。
そこには、今回の作戦のために王都近郊から呼び寄せられた、クロエとリアナ率いる小隊、そして偵察を終えたカイルの姿があった。
「あ、エリオス様! 待ってたんだよ!」
クロエがいつもの明るい様子で駆け寄ってくる。彼女は隣でおどおどしているカイルを突き、「ほら、カイルも挨拶して!」とからかっている。
だが、小隊を率いるリアナだけは、目の前の巨大な城壁を見上げ、苦い顔を隠せなかった。
「エリオス様。本当に、このミスリル級の強度を誇る城を落とせるのですか? しかもたった三日で……」
「そのために、皆に来てもらったのだ」
エリオスの合図で、クロエが積み上げられた大きな木箱の蓋を開けた。
中から現れたのは、カサカサという不気味な音と共に這い出してきた、大量の『虫』であった。
「ひっ……虫!? 嘘、エリオス様、本気ですか!?」
虫が大の苦手なリアナが、悲鳴を上げて飛び退く。
それを見てクロエがケラケラと笑った。
「大丈夫だよリアナ、これは本物の虫じゃないから!」
よく見れば、それは金属で作られた精巧な自律型魔道具であった。しかし、動力源であるはずの魔晶石からは、特有の煌めきが一切発せられていない。
「これはね、『空の魔晶石』なんだよ」
クロエが自慢げに解説を始めた。
「魔晶石には、魔力を失うと、周囲の魔力を強烈に吸収して自己修復しようとする特性があるの。この魔道具は、強い魔力に引き寄せられて飛んでいくように設計されているんだ。……まるで夜の街灯に集まる虫みたいにね」
エリオスはその「虫」の一体を手に取り、ルスグラナ城を包む銀色の薄膜を見つめた。
「彼らは魔道具の開発に長けていると聞かされていたからな。だったらそれを無効化するものを、以前からクロエに研究させていたのだ」
リアナはゴクリと唾を飲み込んだ。
この人は常に先の先を見据えて行動している……その先見の明に、あらためて畏怖を覚えたのだった。
さらにクロエが続けた。
「しかもね。この虫。魔力でお腹がいっぱいになると、自動的に爆発するようになっているんだよ!」
エリオスの瞳に、冷酷な光が宿る。
「この飢えた虫たちを、目の前の城に向かって放ったらどうなると思う?」
三日後。覇王の仕掛けた「飢えた罠」が、共和国のプライドを根こそぎ喰らい尽くそうとしていた。




