第74話 叙勲と謹慎
◇◇
カルヴァン共和国の首都、カルヴァンシティ。
かつて活気に満ちていた大統領官邸の執務室は、いまや重苦しい絶望と、焼き付くような焦燥感に支配されていた。
大統領ヘンリー・カールトンは、目の前のデスクに山積みにされた、敗北を告げる報告書の数々を睨みつけていた。
「たったの三日で突破されるとは……とんだ失態だな。レオニード中佐」
ヘンリーの声は、地を這うような毒を含んでいた。
「きみが『死地』と断じ、最強の迎撃態勢を整えていた中央ルートだぞ。きみはそのことをどう考えているのだね?」
デスクの向かいに立つ参謀長、レオニードは、微動だにせずその言葉を受けていた。そして、声を振り絞った。
「……想定外、としか言いようがありません」
それは本音だった。
かつてわずか十名にも満たない兵で敵中突破を果たした男とは同じ人間とは思えない、無謀で強引な強行軍。こちらの兵の損失はゼロ。一方でエリオスの率いるグランヴェル軍は1000以上を失った。
損害の数のうえでは、こちらが圧勝。しかし、戦線を突破された結果だけに焦点を当てれば、完敗と言えよう。
「もし首都が落とされれば、この国はなくなるも同然だ。それはよく分かってるね」
ヘンリーは立ち上がり、高級な絨毯を踏みしめてレオニードの鼻先まで歩み寄る。
「いいか。ルスグラナは首都防衛の最後の砦だ。つまり、きみにとってもラストチャンスというわけだ。もし陥落などという失態をおかせば……分かっているね?」
「責任をとれ、ということですか?」
「いやいや、そんなことはしない。私はきみの味方だからね。しかし、きみは世間でも評判の『天才参謀』。野党の連中は、きみの評判を何としても貶めたい。そうなれば、きみの上官にあたる私の責任を問えるからね」
「つまり……もしルスグラナが落とされれば、私は野党の方々から、『国家反逆罪』として告発される……」
「そうなれば、さすがの私でもきみをかばいきれない。それは分かってくれるね?」
レオニードの頬が、かすかに引き攣った。ヘンリーという男は、自分の支持率と権力を守るためなら、有能な部下を贄に捧げることに一片の迷いもない。
レオニードは深く目を閉じ、そして静かに、しかし鋼のような決意を込めて告げた。
「かしこまりました。ルスグラナは、私がこの命に替えても守り抜きます」
官邸を去ったレオニードは、その足で自宅へと向かった。
夕暮れ時の庭園には、戦場の硝煙とは無縁の、柔らかな風が吹いている。
「レオニード、お帰り」
出迎えた老いた母の穏やかな笑顔。そして、父親の帰宅に歓喜して駆け寄ってくる幼い娘。妻には数年前に病気で先立たれている。
レオニードはその小さな体を抱きしめ、鼻腔をくすぐる温かな匂いに胸を締め付けられた。これが、最後になるかもしれない。いや、ルスグラナが落ちれば、この温もりさえも不当な罪によって奪われるのだ。
「すまない。急な任務が入った。しばらく、家を空けることになる」
息子の表情からすべてを察した母の瞳が、悲しみに揺れる。
レオニードは何も語らず、ただ一度だけ妻の肩を強く抱き寄せた。そして振り返ることなく、彼は馬に飛び乗った。
数刻後。
レオニードは、グランヴェル軍の包囲網が完成しつつある中、死地となったルスグラナ城へと入城した。
城内に溢れるのは、中央ルートでエリオスの軍勢に蹂躙された兵たちの、恐怖に満ちた青い顔だ。レオニードは自ら剣を抜き、城壁に立った。
「私は逃げぬ! 家族のため、国のため、このルスグラナを貴様らの好きにはさせん!」
その悲壮な覚悟が、崩れかけていた共和国兵たちの心に、細い、だが確かな闘志の火を灯した。
と、そこに白衣をまとった壮年がレオニードの横に並んだ。
彼の名はニック。カルヴァン共和国の誇る国立研究所の主任研究員にして、かの『アストラ・ノヴァ』の開発メンバーのひとりだ。
彼もまた並々ならぬ決意を瞳に込めていた。
「決して落とさせませんよ。この城は。私の研究者としてのプライドをかけてもね」
◇◇
対するグランヴェル王国軍の本陣。
ルスグラナ城を包囲する野営地には、勝利への熱狂と、その裏側に潜む凄惨な疲弊が混ざり合っていた。
中央の巨大な天幕で行われた軍議の場。
副将ライナルト・シュタインベルクは、血と泥に汚れた甲冑のまま、総大将エリオスに詰め寄っていた。
「リオンハート卿! 貴殿の采配は、もはや狂気の沙汰だ!」
ライナルトの咆哮が、天幕の空気を震わせる。
「中央ルートを強行軍し、奇襲を受けながらも速度を優先した。その結果、我が軍の精鋭が、戦いとも呼べぬ無惨な死を遂げたのだぞ! 貴殿には、兵の命を守るという騎士の誇りがないのか!」
ルクレール派の貴族たちも、ライナルトの言葉に同調するように、エリオスに殺気立った視線を向ける。
「この悪魔め!」
「ただの若造がいい気になるから、こんなことになるのだ!」
「はじめからライナルト殿が指揮を執れば、こんな損害はなかったはずだ!」
だが、エリオスは椅子に深く腰掛けたまま、退屈そうに指を弄んでいた。
「結果がすべてです」
エリオスの声は、どこまでも冷たく、透き通っていた。
「こうしてわずか三日で敵城への道を開いた。この事実を、陛下がどう評価されるか。それこそが、この遠征における唯一の正解ではないのでしょうか」
「貴様ッ! もう許せん! この場で叩き斬って、同胞たちの無念を晴らしてくれる!」
ライナルトが剣の柄に手をかけたその時、通信機から高らかな笑い声が響いた。 国王レオポルドである。
「ハハハ! よくやった! リオンハート卿、実に見事な手際であった!」
全員の視線が通信機に向けられる。すぐさま姿勢をただしたライナルトは、小さく首を垂れて国王の言葉に耳を傾けた。
「三日でルスグラナへ着くという約束を、お前は果たした。皆の者、聞け! 俺は本日、リオンハート卿に対し、この未曾有の功績を称え、臨時の叙勲を授与することを決定した!」
ライナルトは絶句した。
足元には、無謀な進軍で命を落とした兵たちの死臭が漂っているというのに、その死体の山の上で、総大将が勲章を授かる。
この歪んだ現実に、ライナルトは拳を血が滲むほどに握りしめ、引き下がるしかなかった。
だが、レオポルドの話が終わった直後、エリオスは思いもよらぬ言葉を口にした。
「陛下、そしてシュタインベルク殿。確かに、これまでの強行軍は、兵たちに多大なる負担を強いたことは否めません。私は、自らの功を焦るあまりの過ちを、深く反省しております」
殊勝な面持ちで頭を下げるエリオスに、一同は虚を突かれた。
エリオスは、困惑するライナルトの目を真っ直ぐに見つめ、優しく、慈愛に満ちた声で続けた。
「そこで本日より10日間、私は謹慎し、ルスグラナ攻略の指揮を副将のシュタインベルク殿にお譲りいたしたいと考えておりますが、いかがでしょうか?」
ライナルトの目が大きく見開かれる。
通信機の向こうからしばらく沈黙が流れたが、思いのほか落ち着いた声が聞こえてきた。
「殊勝なるエリオスよ。おまえの気持ちはよく分かった。よし、おまえがそう言うなら、その通りにしたらよい。ただし、一つ条件がある」
「はい、なんでしょう?」
「その10日で城が落とせなかったその時は……エリオス。おまえが再び指揮を執るのだ。よいな?」
ライナルトがエリオスの方へ顔を向ける。
エリオスは穏やかな表情をまったく変えずに即答した。
「かしこまりました。……しかし、その心配は無用かと。ですよね? シュタインベルク殿」
ライナルトは、少しだけ戸惑い、再び通信機の方へ頭を下げた。
「このライナルト・シュタインベルク。必ずや10日以内に陛下へよい報告をしてみせます」
「うむ。……ではそうならなかったその時は、王国第一位の座をエリオスに譲れ」
「……御意」
「では、皆の者! 吉報を待つ!」
「はっ!!」
通信が切れると同時に、エリオスが席を立った。
「では、私は自分のテントで、謹慎させていただきます。あとのことはよろしく頼みます」
ライナルトは冷ややかな視線をエリオスに向け、吐き捨てるように言った。
「俺が本当の戦、本当の指揮官というものを見せてやる。せいぜいテントの中から学ぶといい」
そうして、彼がエリオスの席に座った。
エリオスが本陣の外に出たとたんに、貴族たちの弾んだ声が聞こえてきた。
「これでひと安心ですな!」
「あの生意気な小僧の下で働くなんて、気持ち悪くてかなわなかったのだ! ははは!」
「あんな悪魔みたいな男など無視して、我々だけで勝利を掴みましょう!」
エリオスのもとに、この遠征で同行していたアイザックが駆け寄る。
「いいんですか? あんな風に言われっぱなしで」
エリオスの口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「言わせておけ。10日もすれば、彼らの方から俺にひざまずくことになるだろうからな。それよりアイザック。お願いしたいことがある」
「はい、なんなりと」
頭を下げるアイザック。何度も死線を潜り抜けてきた彼は滅多なことでは動じない。しかしその顔が次のエリオスの言葉が発せられた瞬間に驚愕に歪むことになる。
その言葉とは……。
「レオニードを引き抜く。カルヴァンシティに赴き、その支度するのだ」




