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第73話 中央ルート

◇◇


 カルヴァン共和国、最前線基地の作戦会議室。

 室内には、重苦しい沈黙と、焦げ付いた敗北の残り香が漂っていた。かつて十万を数えた大軍勢の「核」であった五千の精鋭を、たった一撃で失った衝撃は、いまだ軍の中枢を麻痺させている 。


 その沈黙を破ったのは、カルヴァン共和国軍参謀長、レオニード・アルヴァレス中佐であった。


「報告が届いた。グランヴェルの軍勢三万が、ついにソーンウィックより動き出した。しかもその総大将は、かの漆黒の悪魔——エリオス・リオンハートだ」


 卓上の戦況図を囲む将校たちが、一斉に緊張の表情を浮かべる。

 彼らの目的は明確だ。共和国の要衝ルスグラナ、そしてその先にある首都カルヴァンシティである。問題は、その行軍ルートをどう予想するかであった。


 レオニードは指揮棒を使い、地図上に示された三つの道を示した。


「まずは北ルート……険しい山道が続くこのルートは、大軍の行軍には適さない。縦に長く伸びきった行軍の隙を突き、最前線への補給線を断つことができれば、我が軍は一撃で大打撃を与えることが可能だ。しかし、その奇襲チャンスは一度きり。もし失敗すれば、相手が山を越えるのを指を加えて見ているしかないという、博打の側面を併せ持っている」


 レオニードの指揮棒は続けて南を指す。


「南ルート……。足元の悪い砂地が続くこのルートは、一度足を踏み入れれば咄嗟の対応が難しい。敵軍が砂漠の中央に差し掛かったところで全兵力で包囲すれば、殲滅も可能であろう。だが、これがブラフであり、他ルートに主力を割かれていた場合、防御線はあっさりと突破される懸念がある」


 将校たちはレオニードの言葉に聞き入っていた。

 そんな中、レオニードは淡々と続けた。


「最後に中央ルート……最短の死地。遮るもののない平地が続く、最も近道となるルートだ。わずか三日で要衝ルスグラナに到着できるが、その分、共和国側からは奇襲をかけやすく、遮蔽物のない中で一方的に兵を削ることができる。行軍スピード次第では打撃が間に合わない可能性もあるが、通常ならば最も損害が大きくなる『愚策』の道といえよう」


「エリオス・リオンハートなら、どのルートを選ぶと思うか」


 一人の将校が問いかけた。

 レオニードは深く眉間に皺を寄せ、答えた。


「彼は『南』をブラフに、主力を『北』へ送るだろう。あの男は、こちらの奇襲すら見抜いた上で、その裏をかく能力を持っている。であれば、最もリスクをコントロールできる山道を選択するはずだ」


「では、最も考えにくいルートは?」


 この質問に対しては、レオニードは即答した。


「『中央』だ。遮蔽物のない平地を進めば、確実に兵の損害を被る。兵の命を単なる駒として扱わない知略家であるならば、このルートを選択するメリットはない」


 だが、その分析を嘲笑うかのように、伝令が部屋に飛び込んできた。


「報告! グランヴェル軍、国境を突破! 『中央ルート』進軍中!」


「何だと?」


 レオニードの顔から血の気が引いた。

 確実に味方が傷つく道、自らの兵が一方的に削られる道。なぜ、あの冷徹なまでの合理的判断を下す男が、そのような愚策を選んだのか。

 しかし考えている暇はない。

 この好機を逃したら、それこそ首都攻撃の恐れすらある。

 そうなればレオニード自身はおろか、家族すら『国家反逆罪』に問われ、投獄……死罪を言い渡されるに違いない。


「出撃するぞ! 敵を殲滅するのだ!!」


◇◇


 遮るもののない平原が続く「中央ルート」は、逃げ場のない灼熱の地獄と化していた。

 エリオス率いる三万の遠征軍は、凄まじい砂塵を巻き上げながら、一路ルスグラナへと突き進んでいた。その軍勢の多くは、国王レオポルド派の名門貴族たちや、ルクレール大公直属の精鋭たちであった。


「敵襲ッ! 左右の丘から魔導ボウガンの斉射が来ますッ!!」


 先鋒を務めるルクレール派の騎士が叫んだ。

 レオニードの号令を受けた共和国軍が、平地の利を活かして左右から一方的に攻撃を仕掛けてきたのだ。遮蔽物のない平原を進む王国軍にとって、それはまさに死の豪雨であった。


「リオンハート卿! 指示を! このままでは一方的に削られる!」


 激しい着弾音と悲鳴が響く中、貴族出身の将校たちが馬を並べて叫ぶ。

 だが、最後尾から駒を進めるエリオスは、眉一つ動かさなかった。


「速度を落とすな。全軍、さらに加速しろ」


 その指示に眉をひそめたのは副将のライナルトだった。


「なっ……!? 防御陣形も取らずに進むというのか!? 多くの兵が死ぬぞ!」


「三日でルスグラナへ着くと陛下に約束した。端数の命を拾い集めて時間を捨てるつもりはない。止まらぬことこそが、最大の防御だ」


 エリオスの声は、戦場の騒乱を切り裂くほどに冷たく、透明だった。

 命じられるがまま、王国軍の精鋭たちは血の雨を浴びながら突き進む。彼らはエリオス直属の「漆黒の悪魔」ではない。かつてエリオスを蔑み、あるいはルクレールの駒として彼を監視してきた者たちの末裔であった。


 遠方の高台からその様子を観測していたレオニードは、双眼鏡を握りしめたまま凍りついていた。


「馬鹿な。なぜ足を止めない? なぜ盾も掲げず、これほどの犠牲を払ってまで突き進んでくるのだ」


 共和国軍の放つ矢は、確実に王国軍の兵を射抜いていた。既に数百、数千の王国兵が大地に転がっている。しかし、残された軍勢は、まるですべてが予定通りであるかのように速度を緩めることなく、一直線にこちらへ迫ってくる。


「中佐、どうしますか! このままでは弾薬が尽きる前に、奴らがルスグラナに届いてしまいます!」

「撃ち続けろ! 止めるんだ! あの男を……あの怪物をルスグラナに入れるな!」


 レオニードの背中を、嫌な汗が伝う。


(なぜだ? なぜエリオスともあろう者が、このような無謀な策に出たのだ? 必ず理由があるはず……。それを探らねば!)


 その必死の焦燥の中、レオニードの脳裏に一つの考えがよぎったとたん、毛が逆立つような恐怖を覚えた。


(まさか。彼は、自軍の兵が死ぬことを望んでいるのか?)


◇◇


 降り注ぐ魔導ボウガンの雨を、エリオスは本陣の馬上から、硝子の球体を眺めるような無機質な瞳で見つめていた。

 彼の内側に宿る魂……かつての絶対王アルベルトの目標は、前世で成し得なかった「世界征服」ただ一点にある。


(悠長に構えている暇はない)


 現世を見渡せば、弟ユリウスを討った国王レオポルドは、勝利の熱狂と共に日に日にその発言力と武力を増している。さらに、その傍らで辣腕を振るう大公ルクレールの手腕には、一分の隙もない。

 このまま西の辺境で地道に力を蓄えたところで、王国の玉座をひっくり返すには何十年という歳月を要するだろう。その間に隣国が力をつければ、かつて自身が成し遂げようとした統一の夢は、再び指の間からこぼれ落ちてしまう。


(狙うべきは、レオポルドの早期弱体化だ)


 このカルヴァン共和国との泥沼の戦いは、王国の既存勢力を削り取るための、巨大な「間引き」に他ならない。


 当然、この異常な采配に疑問を持つ者はいた。

 今回の遠征において副将を務め、今や王国第一位の剣と謳われる騎士、ライナルト・シュタインベルクである。彼は返り血を浴びた剣を握りしめ、平然と加速を命じるエリオスの背に、鋭い疑惑の目を向けていた。


(なぜだ、リオンハート卿。……貴殿ほどの男が、これほどの無意味な損害を許容するはずがない)


 勘の鋭いルクレール大公もまた、エリオスの背後に潜む「毒」に気づき始めている。

 だが、エリオスにとって、彼らの疑念など些細な問題に過ぎなかった。何より肝心の国王レオポルドの信頼は、先の「奇跡」によって盤石なものとなっている。

 王の寵愛さえあれば、周囲の不信など無視して突き進むことができる。


(疑いたければ疑うがいい。それが真実に届く頃には、貴様らの足場は既に崩れ去っている)


 唯一の懸念があるとすれば、それはカルヴァン共和国側の出方だった。

 共和国軍が中途半端な応戦に終始してしまえば、王国軍の誇るライナルトの軍勢は、その武勇によって容易く敵を撃退してしまうだろう。それでは、王国精鋭の「消耗」という目的が果たせない。


 しかし、その懸念もまた、杞憂に過ぎなかった。

 エリオスは、共和国側の陣営で指揮を執るレオニード・アルヴァレス中佐の実力を高く評価していた。


(レオニード。貴様なら、この中央ルートの脆弱さを逃さず、徹底的に突いてくるはずだ)


 エリオスが自ら認めた「鬼才」が敵にいるからこそ、この無謀な中央突破は完成する。

 敵の知略を利用して、味方の不要な戦力を効率よく処分する。それはまさに、覇道を行く者にしか許されない、神の如き冷酷な盤面操作であった。


「加速しろ」


 エリオスの口元が、わずかに歪んだ。

 目の前で、王国貴族たちの誇り高い騎兵隊が、共和国の放つ魔力の奔流に飲み込まれて消えていく。

 その悲鳴と爆音を子守唄に、転生した覇王は、三〇〇年越しの悲願に向けて着実に歩みを進めていた。

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