第72話 終わりなき炎
◇◇
ソーンウィック城、主塔の最上階。
かつてフェッラーロ家が領地の安寧を祈ったであろうその部屋は、今や西域を飲み込む巨大な謀略の震源地となっていた。
窓の外には、勝利の余韻に浸る王国軍の篝火が点々と揺れている。だが、部屋の中に満ちているのは、祝杯の香りではなく、皮膚を刺すような静謐な緊張感だった。
「それで、エリオス様。そろそろ『本当の理由』を教えてくださってもよろしいかしら?」
沈黙を破ったのはルチアだった。彼女は猫のようなしなやかさで椅子に深く腰掛け、卓上のキャンドルを見つめている。その傍らには、何が起きているのか分からず不安げに視線を彷徨わせるマリアの姿もあった。
「なぜルカ・フェッラーロを利用し、ゾヨラ伯爵をあのような無残な形で亡き者にしたのですか?」
ルチアの紫の瞳が、エリオスを射抜く。
書類に目を落としていたエリオスは、動きを止め、小さく吐息を漏らした。
「……気づいていたのか」
「当然だわ。あなたのことなら、私、何でも知っているもの」
ルチアは艶然と微笑むと、あえて目を丸くしているマリアの方へ視線を向けた。
「そう……エリオス様の体の、どこに、どんな形のほくろがあるかまで、ね」
ルチアはそう言うと、挑発するようにゆっくりと自身の唇を舌でなぞった。
「な……っ!? ル、ルチアさん! あなた、何を……っ!」
マリアが顔を沸騰したように真っ赤に染め、今にも口を挟もうと身を乗り出す。エリオスはこめかみを押さえ、重い溜息をつきながらルチアを制した。
「ルチア、ふざけるのはそのくらいにしろ。……マリア、お前も落ち着け」
エリオスは椅子を回し、窓の外に広がる闇を見据えた。
「ルクレール大公の思惑通りにさせないためだ」
「それは……セレナ様のために、ということですの?」
ルチアの問いに、エリオスは小さく首を振った。
「いいや。……俺のためだ」
困惑するマリアを置き去りにし、エリオスの声は一段と低く、冷徹な響きを帯びていく。
「俺は、ルクレールの傀儡になるつもりはない」
「では、彼の愛娘リーゼロッテ様を招き入れたのも……」
視線を送ったルチアに、エリオスは口角を上げた。
「まあ、人質といったところか」
「人質!?」
驚くマリアに、ルチアは呆れたようなため息をついた。
「まさか本気でエリオス様が彼女を招いたとでも思ってたとしたら、あなた、本当に幸せ者ね」
「ど、どういう意味ですか!?」
顔を真っ赤にするマリアと、その様子をおかしそうに笑うルチアをよそに、エリオスは立ち上がり、はっきりと断言した。
「俺はこの世界を征する」
マリアとルチアの視線が一斉にエリオスに集まる。
先に口を開いたのはルチアだった。
「……となると、ルクレール様。いえ、今の国王陛下をも凌駕する力が必要になりますわね」
ルチアが楽しげに目を細める。エリオスは頷いた。
「ああ。そのためには、もっと強くならねばならない。圧倒的な、誰もが抗えぬほどの力を手に入れる必要がある」
「そんなことが本当に可能だと……」
マリアが懸念を口にする。だが、エリオスはその言葉を遮るように続けた。
「だからこそ、相手を弱くしなくてはいけないのだ」
その言葉の意味を察し、マリアの顔が真っ青に染まっていく。エリオスは怯えるマリアを顧みず、夜の帳を見つめたまま言葉を紡いだ。
「ゾヨラという王の右腕を斬り落とし、共和国との全面戦争という泥沼を演出する。ルカ・フェッラーロという復讐者は、そのための絶好のきっかけに過ぎなかった。混沌こそが、既成の秩序を崩すための唯一の劇薬だ」
ルチアが音もなく立ち上がり、エリオスの横に並んだ。その瞳には、主が描く地獄への道行きに対する狂信的な悦びが宿っている。慌ててマリアも、震える足を叱咤して彼のもう片方の側に並んだ。
「となると、この戦。まだまだ終わらせるつもりはない、ということですね?」
ルチアの囁きに、エリオスは返事をしなかった。
ただ、その口角を不敵に吊り上げ、燃え上がる戦野を、覇王の眼差しで見下ろしていた。
◇◇
ソーンウィック城の奪還、そして『アストラ・ノヴァ』の反射という未曾有の事態を経て、戦場は一時的な静寂に包まれていた。
焼け野原となった村々にはグランヴェルの旗が再び立ち、民は「戦神マルクスの再来」とエリオスを称えた。しかし、この勝利がさらなる泥沼への入り口であることを、前線の将兵たちはまだ知る由もなかった。
ソーンウィック城内に置かれた王国軍本陣。
国王レオポルドは、戦況図の上に置かれた駒をぎらついた瞳で見つめていた。
「まだだ。まだまだこんなもんじゃ終わらせんぞ!」
熱を帯びた大きな声が、側近たちの背筋を凍らせる。
「この俺の逆鱗に触れたことを後悔させてやる! 奴らがひざまずき、許しを乞うまでは、勝って、勝って、勝ち続けるぞ!!」
「さすが陛下! どこまでもついていきます!!」
「陛下に勝利を! グランヴェルに栄光を!!」
側近たちはこぞって国王の意見に賛同した。皆、勝利の美酒に酔い、赤ら顔だ。
その傍らで、大公ルクレールは冷めた心地で彼らを見つめていた。
(危うい……)
レオポルドは、もとより激情型の人間だった。すぐに頭に血が昇り、思い立ったらすぐ行動に起こすたちなのだ。そして、相手を屈服させるまで、戦い続ける習性がある。
その気質がベルクタールの決戦で、弟のユリウスに完勝してから、より強くなった、とルクレールは感じていた。
もはや自分に勝てる相手などいない――その過剰なまでの自信と勝利への執着が、戦争の継続という形になってあらわれている……。
(どうしてこうなった……)
ルクレールは深く考え込んだ。
はじまりは「ゾヨラ伯爵の暗殺事件」だった。
あの毒に使われていた、とされていたのが、カルヴァン共和国でしか採取できない毒草。だからこそカルヴァン共和国の手によって暗殺されたのだ、と断定された。
(しかし待てよ……。もしその毒を”偽装”できたとしたら……)
ただし偽装工作ができるとすれば、かなり薬物と医療に精通していなくてはならない。そんな人物など……。
(フェッラーロ……! 天下一の名医と呼ばれたあの家門であれば、毒の偽装もあるいは可能かもしれん!)
すると浮かび上がってきたのは、黒髪の青年……。
(エリオス・リオンハート……まさか……)
しかし、もはや情勢は彼が立ち止まることを許さなかった。
「ルクレール! 何をぼけっとしている!? 次の作戦に移るぞ!!」
ルクレールは、苦虫をつぶしたような顔で、国王の傍らにいるエリオスに目を向けた。その視線に気づいたエリオスは、何事もないように、ニコリと微笑んだのだった。
◇◇
一方、国境を越えた先にあるカルヴァン共和国側でも、同様の「意地」が理性を焼き尽くしていた。
大統領ヘンリー・カールトンは、国内に出回っている新聞を握りつぶした。
「大統領の大誤算! 国の威信をかけたアストラ・ノヴァ反射される! 五千の精鋭が一瞬で灰に!」
軍需企業の創業者として成り上がった彼にとって、この敗北は政治的死と同義だった。このままでは、下手をすれば政権交代のクーデターが起こってもおかしくない。
そこで彼は『切り札』を使うことにした。
「非常事態を宣言する!!」
非常事態宣言——それは国家存亡の危機の際のみ発令することができる大統領権限。この宣言中は、いかなる政治活動は許されず、国が一致団結して危機に立ち向かうことに集中せねばならないと憲法で定められている。
「我が同胞を虐殺したグランヴェルの横暴を断じて許さん! 同胞たちの無念を晴らすまで戦い、失った尊厳と領地を取り戻す――それこそが、我が国の進むべき道である!!」
民衆は沸いた。
一方で良識ある将校や識者らは、この非常事態宣言こそが、国家を存亡の危機に陥らせるのではないかと危惧していた。
天才軍略家のレオニード中佐もそのうちの一人だった。
「終わりなき戦争の時代に突入か……」
しかしそのつぶやきは民衆の耳には届かなかった。
◇◇
二つの国家が、それぞれの指導者の自尊心と延命のために、再び巨大な歯車を回し始めた。
ソーンウィック城の廊下。冷え冷えとした石壁の合間を歩いていたルクレールは、角を曲がった先で、窓の外を眺めるエリオスの背中を見つけた。
作戦会議を終えたばかりの少年は、涼しげな横顔で城の外を眺めている。
「エリオス殿、ひとつおたずねしてもよいか?」
ルクレールが声をかけると、エリオスは静かに振り返った。
「大公殿下ではありませんか。何用でしょう?」
涼しげな声。まるで戦時中とは思えないほどの余裕のある表情。
ルクレールは、気になっていたことをたずねた。
「フェッラーロ家にここら一帯の領地を任せるようだな?」
「ええ、もとは領主ですからね。縁もゆかりもない人を据えるより、領民たちも言うことを聞くでしょうし」
「……まあ、そうだな。ところで……なんだ。そのフェッラーロ家の当主ルカ・フェッラーロとは、どうやって知り合ったのかね?」
エリオスはしばし沈黙し、微笑を浮かべながら、ルクレールを見つめた。
ルクレールは気圧されないように、必死に平静を保つ。
しばらくしてエリオスは口を開いた。
「なんのことはありません。たまたま我が領内にいるのが分かり、登用したまでです」
「しかし、知っての通り、フェッラーロ家は既に没落した家。そのような家門の末裔を登用し、領地を与えるのは、あまりにも過ぎた抜擢ではないか?」
「ふふ。もちろん家名だけで登用したわけではありません。彼には代々受け継がれてきた、医療の知識と技術があります。必ずや、我が国に貢献できる人材と考え、先行投資をしたまでです」
ルクレールの視線が刃のように鋭くなる。
その視線を柔和な瞳で受け止めていたエリオスは、まったく表情を変えずに問いかけた。
「私がルカ・フェッラーロを登用したことに、他意がある、とでも?」
ルクレールは何も言わなかった。
エリオスは、ふっと口元を緩ませ、視線を外した。
「これから長い戦争になります。きっと彼が活躍するシーンが増えるでしょう。その時は、大公殿下も私の先見の明に感心されるでしょう」
ルクレールは「そうか。しかし彼が活躍するような事態にならない方を期待したいところだ」とだけ答え、その場を立ち去った。
翌朝。
「エリオス・リオンハート辺境伯を、こたびのカルヴァン共和国遠征軍の総大将に任ずる!」
全将兵を前に、レオポルドは直々にそう命じた。
異例の抜擢である。
しかもリオンハートの主力部隊は、自領の守りに残すという条件付きだと言う。
「陛下、なりませぬ! これまで通り、総大将はライナルト殿に任せるべきかと!」
ルクレールは声を大にして反対を唱えた。
しかしレオポルドの意志は固かった。
「ルクレール、戦のことで俺に意見するな。おまえは政治と経済のことだけに集中していればよい」
「ならば、せめてリオンハートからも兵を出させるべきです!」
「うるさい! これまでのカルヴァンとの戦いでもっとも消耗したのは彼らなのだ! それに新たに奪取した領地の立て直しも必要だ。国境警備もある。それなのに、さらなる負担を強いることはできん! もし兵が足りぬというなら、おまえのところから寄越せ!」
これ以上は何も言い返せなかった。
エリオスが率いるのは、レオポルド派の貴族たちから派遣された精鋭たち3万。
無論、中にはルクレールの直属兵もいる。
(エリオス……。かくなるうえは、彼を信じるしかないか……)
三〇三年、八月二十九日。
エリオス・リオンハート率いる大軍が、動き出した。
出立時、いつも通りに漆黒の鎧に身を包んだ彼の口元が、かすかに歪んだのを見て、ルクレールは戦慄を覚えた。




