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第70話 アストラ・ノヴァ

 ――かつて、アルベルトだった頃。

 歴史にその名を刻む以前、彼がまだ若き野心を胸に秘めた王子であった時代のことだ。

 夜明け前の薄闇がすべてを曖昧にする刻限、彼は禁忌を纏う女の元を訪ねた。


 大陸の北端、永久凍土の森の奥深くに隠れ住む魔女、メイリス。

 黒曜石を溶かしたような艶やかな長い髪、透き通るような白磁の肌。そして何よりも、すべてを見透かすような深いアメジストの瞳。見た目は二十代前半の、息を呑むような美女。だが、その美貌の下に幾百年の歳月を隠しているのか、それを知る者はいない。


 焚き火の赤い光が、洞窟の壁に二人の影を大きくゆらめかせていた。パチ、パチと弾ける爆ぜの音が、静寂をより一層際立たせる。

 アルベルトは、彼女が揺らす金の杯から漂う、独特の毒々しくも甘い香りに目を細めながら、ふと問いかけた。


「……メイリス。魔術師という、ことわりの外に立つ存在を無力化する方法はあるか?」


 メイリスは妖艶に唇を吊り上げると、氷のような冷たさを帯びた微笑を浮かべた。


「簡単なことよ、若き王。魔法を、無効化するの」


「……無効化? 言葉にするのは容易いが、放たれた魔力の奔流を止める術など聞いたことがないぞ」


「そうね、凡庸な魔術師には理解できないでしょう。彼らは魔力を媒介にしてしか力を振るえない。ならば、その媒介そのものを拒絶する空間を作ればいい。あるいは――」


 メイリスは立ち上がり、音もなくアルベルトに歩み寄った。彼女の指先が、彼の首筋から胸元にかけて、熱を帯びたなぞり方をする。


「攻撃を跳ね返す『鏡』を生み出すのよ。攻撃魔法の使い手がこの世で最も恐れるのは、自らの死を招く破壊の力が、寸分違わず自分自身に返ってくること。……どう? 陛下が一夜を共にしてくれるのなら、翌朝には貴方を魔術師の天敵、あるいは神の代理人にでもしてあげるけれど?」


 その言葉の真意を、当時の彼は半分も理解していなかった。

 しかし、三〇〇年の時を超え、あらゆる魔法の根源を識るエリオスとして転生した今ならわかる。

 力には、必ずその力が依って立つ「理」がある。ならば、その理さえ理解すれば、世界は彼の指先一つで反転するのだ。


◇◇


 三〇三年、八月十八日。

 ソーンウィック城を分水嶺とした大地は、二つの巨大な鋼の塊が激突する直前の、異常な緊張感に包まれていた。

 上空からは八月の暴力的な陽光が降り注ぎ、兵士たちの重い甲冑を触れれば火傷するほどの温度まで熱している。大地からは陽炎が立ち上り、並ぶ将兵の姿をゆらゆらと歪ませていた。


 城の東側。純白の甲冑に金の鷲を象った豪奢なマントを羽織った国王レオポルドが、高台の馬上で一際高い存在感を放っていた。


「陛下、着陣されました!」


 伝令の鋭い声が響くと同時に、王国軍八万の将兵が一斉に槍の石突を大地に打ち鳴らした。ドォン、という地響きが戦場を震わせる。

 レオポルドは拡声の魔道具を手に取り、その鋭い眼光を西の共和国陣営へと向けた。


「わが臣民よ! 誇り高きグランヴェルの盾たる兵たちよ!」


 王の声は、魔導の力を借りて地平の果てまで、朗々と響き渡った。


「この戦は、単なる土地の奪い合いではない! これは、我らの家門、愛する子ら、そして神に授けられた正義を汚そうとする不届き者どもへの神罰である! 敵は卑劣なる毒を使い、わが友を奪い、今また禁忌の力でこの世界を蹂躙しようとしている!」


 レオポルドの言葉は、熱狂的な信仰を孕んでいた。その瞳には、自らを神の代理人と信じて疑わない狂的な光が宿っている。


「恐れるな! 神の目は常に我らと共にある! 不敬なる賊を、この灼熱の大地に叩き伏せよ! ――全軍、突撃ッ!!」


 号令と共に、大地が爆発した。

 王国第一の剣、ライナルト・シュタインベルクが率いる重装騎兵隊を先頭に、王国軍が雪崩を打って前進を開始する。

 ソーンウィック城の脇を通り抜け、西の野に展開するカルヴァン共和国軍へ激突。鉄と鉄がぶつかり合う凄まじい音が大気を震わせ、瞬く間に大地は血と砂塵に塗れていった。


◇◇


 戦場を一望できる高台。大公ルクレールは、汗を拭うことも忘れ、双眼鏡を覗き込んでいた。その表情は、優勢であるはずの現状とは裏腹に、苦悶に満ちている。


「……押しているな。ライナルト殿の武勇、まさに鬼神の如しだ」


 だが、ルクレールの背筋には、冷たい汗が伝っていた。

 カルヴァン共和国軍。近代的な装備を誇り、数でも勝るはずの彼らが、あまりにも脆く、あえて王国軍を中央に引き込んでいるように見えたからだ。


「ハハハ! 見たか、ルクレールよ!」


 高台に戻ってきたレオポルドが狂喜の声を上げる。


「神が、わが正義を祝福されているのだ! ゾヨラの無念が、兵たちの槍に宿っているのだ!」


「いえ、陛下。これは、罠です……!」


 ルクレールがそう叫んだのと、西の陣営の中央で、巨大な「城」が動き出したのは同時だった。

 黒鉄の装甲を纏い、不気味な魔力の脈動を放つ巨大投石機。

 その射出部には、火、水、土、風の四属性魔晶石が、凄まじい回転を伴いながら収束していた。異なる属性同士が音速で衝突し、本来相容れない魔力が無理やり圧縮されていく。


「アストラ・ノヴァ……。まさか、本当に実戦投入するとは……」


 ルクレールの顔から血の気が引いた。

 それは兵器ではない。天災を人為的に生み出す、冒涜の極みであった。


 次の瞬間、空気が悲鳴を上げた。


 ドォォォォォンッ!!


 鼓膜を破らんばかりの衝撃音と共に、漆黒の巨弾が、尾を引きながら空を切り裂いた。

 それは王国軍を飛び越え、彼らの背後――エリオスたちが留まるソーンウィック城を、真っ向から目指していた。


「避けろッ! エリオス、逃げろおぉおッ!!」


 ルクレールが絶叫する。

 だが、その叫びは、光によってかき消された。

 城門の上空、死神の鎌が振り下ろされるかのような、圧倒的な「終焉」の光が炸裂しようとした、その時――


◇◇


 ソーンウィック城のバルコニー。

 そこには、眼下で繰り広げられる地獄を、退屈そうに眺める一人の青年がいた。

 エリオス・リオンハート。

 彼は迫り来る「絶望」を前にして、眉一つ動かさなかった。


「……メイリス。おまえが言った通りだ。攻撃魔法の使い手が最も恐れるのは、自らの力が自分に返ってくること。……教えてやろう。魔法の知らない貴様らに本物の魔法が、どのようなものかを」


 エリオスが静かに右手を差し出した。

 その瞬間、彼の周囲の空気が、パキパキと音を立てて結晶化した。

 城壁全体を覆うように出現したのは、目に見えぬほど透明な、だが絶対的な拒絶を象徴する魔力の「鏡」。


 激突。

 アストラ・ノヴァの巨弾が鏡に触れた瞬間、まばゆい白い光が空間を支配した。  本来ならば、そこで四属性が弾け、城を粉塵に変えるはずだった。

 しかし、巨弾は炸裂しなかった。  まるで、巨大な壁に投げつけられたまりのように、あるいは主の命に忠実な猟犬のように――。


「……跳ね、返された……?」


 ルクレールは、信じられないものを見るかのように、目を見開いた。


 エリオスの指が、指揮を執るかのように一振りされる。

 逆向きの放物線。

 放たれた時よりも遥かに速い速度で、白光の塊は共和国軍の陣営へと直撃した。


 ――着弾。


 一瞬の、静寂。


 カッ、と天が裂けるような光が溢れ、遅れて世界を揺るがす爆音が轟いた。

 炎の柱が数百メートルにわたって天へ突き刺さり、爆風は数万の将兵、馬、そして最新鋭の兵器群を、紙屑のように空中に舞い上がらせ、一瞬で蒸発させた。

 共和国軍の中央には、巨大なクレーターだけが残された。


「見たか、ルクレールよ! 神の奇跡だ! 不敬なる者に、天の怒りが下ったのだッ!!」


 レオポルドは狂喜乱舞し、大地に跪いて神を讃えている。

 だが、ルクレールは気づいていた。


 城壁の上、砂塵と爆風に髪を揺らされながら、冷徹な瞳で戦場を……いや、この無能な「駒」たちを見下ろしている、一人の青年の姿を。


(あれは……奇跡などではない。エリオス、貴様は何を……。王ですら、ただの観客に過ぎないというのか)


 ルクレールの脳裏をよぎったのは、恐怖という名を超えた、根源的な絶望だった。  王国第一の剣も、最新の大量殺戮兵器も、そして国王の権威も。

 すべては、ソーンウィックの主が描く「再征服」という盤上の、些末な駒に過ぎなかったのだ。


 エリオス・リオンハートは、不敵に笑った。

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