第68話 神速の凱歌、十万の咆哮
◇◇
三〇三年、八月十日。
かつてアレッサンドロ・フェッラーロとその小隊が命を散らした難攻不落の要塞、ソーンウィック城。その堅牢な城壁を前に、エリオス・リオンハート率いる辺境軍は、静かに、しかし確かな殺意を湛えて展開していた。
猛暑がすべてを溶かすような沈黙を破ったのは、リアナの鋭い号令だった。
「爆撃式投石隊、照準固定!――放てッ!!」
空を切り裂いたのは、単なる石塊ではなかった。
クロエによる魔晶石研究の粋を集めた爆裂弾が、城壁の急所に正確に突き刺さる。爆風が陽炎を吹き飛ばし、鉄壁を誇った外壁が、まるで乾いたビスケットのように容易く崩落した。
「……何という威力だ」
馬車からその光景を見ていたルカ・フェッラーロは、息を呑んだ。
兄があれほど苦しんだ城壁が、一瞬で無惨な瓦礫へと変貌していく。
「アイザックさん、あそこが敵の守りが手薄です!」
後方で敵の様子をうかがっていたカイルの言葉を、通信機で聞いた最前線のアイザックは、「了解」と短く答えた。
混乱する城内に、イザック率いる偵察隊が、影のように滑り込む。
「北門の守備、崩壊。……ヴォルフ殿、行けるぞ」
アイザックの低い報告が通信を介して響くや否や、リオンハート軍の「牙」が剥き出しになった。
「野郎ども、道を空けろッ! 突撃ィ!!」
ヴォルフが率いる歩兵隊が、崩れた城壁から猛然と雪崩れ込む。敵兵が防衛線を整える暇など、一秒たりとも与えられない。すべてが精密な歯車のように噛み合い、敵を粉砕していく。
だが、守備隊は死に物狂いで主塔へと集結し、最後の抵抗を試みようとしていた。
その時。
エリオス・リオンハートが、白馬から静かに降り立った。
彼は右手を天に掲げ、冷徹な双眸を城の主塔へと据える。
「……掃討しろ。この地を汚す、不浄な意志ごと」
エリオスの唇が、荘厳なる音節を紡ぎ始めた。
その声が響くと同時に、周囲の熱気が一瞬で奪われ、空気がパキパキと音を立てて凍りついていく。八月の灼熱を塗り替える、絶対零度の静寂。
「極北の主、永劫なる氷冥の神よ。灼熱の空を銀白に染め、罪深き地に静寂なる終焉を。汝が息吹を以て、すべての争いを凍土に封じよ――」
上空。雲一つなかった青空が、一瞬にして魔力の渦に飲み込まれ、銀色に染まった。
そこに出現したのは、数千、数万という無数の「氷の槍」。
「氷神の裁断【グレイシア・ディシジョン】」
エリオスが手を振り下ろした瞬間、銀色の死が降り注いだ。
陽光を反射して煌めく氷の槍は、城壁を貫き、盾を砕き、逃げ惑う敵兵を音もなく大地に縫い止めていく。
爆音も、悲鳴もない。ただ、世界が氷の結晶に包まれる清冽な音だけが響き、攻略開始からわずか二時間、ソーンウィック城は沈黙した。
ルカは、馬車から降り、足元の土を掴みしめた。
かつて自分の家族が愛し、そして奪われた土地。兄が死んでまで守ろうとした城。 それがあまりにも容易く、この若き主君の手によって奪還された。
(……この男は、英雄などという言葉では足りない。……嵐だ。この古い世界を、根こそぎ変えてしまう嵐だ)
ルカは、傍らに立つエリオスの背中に、形容しがたい畏怖を覚えた。同時に、その心に灯ったのは、消えることのない忠誠の炎だった。
「この地を、我が一族の無念を……救っていただき、感謝いたします」
ルカは、血が滲むほどに深く、その場に跪いた。
◇◇
ソーンウィック城陥落の一報は、魔導通信によって瞬く間に王都へと届いた。
「ハハハ! 見たか! さすがは戦神マルクスの再来! やりおったわ!」
玉座の間で、国王レオポルドは快哉を叫んだ。
側近ゾヨラの仇を取り、共和国の要衝を奪った。この勝利は、レオポルドの権威を盤石にする最高の戦果だった。
その傍らで、ルクレール伯爵もまた、安堵の溜息を漏らしていた。
(……これでいい。ソーンウィックを取ったのなら、実利は十分だ)
しかし、その淡い希望は、続く報せによって無残に打ち砕かれた。
「陛下ッ! 緊急報告です! カルヴァン共和国国境、全域で動きが……! 共和国軍、その数……推定、十万を超える大軍勢が、ソーンウィック城に向かって進軍を開始しました!」
広間が凍りついた。十万。それは国境紛争の規模を遥かに超えた、国家存亡の戦いを意味する数字だった。
その時、玉座の横に置かれた大型魔導通信機が、耳を刺すような高音で鳴り響いた。
「聞こえるか、グランヴェルの狂王よ」
通信機から溢れ出したのは、冷徹で、かつ鋼のような重みを持つ声。カルヴァン共和国大統領、ヘンリー・ランカスターその人であった。
「我らは、貴国による蛮行と、わが国の外交官に対する不当な拘束、そしてソーンウィックへの不法侵入を断じて許容しない。……本日を以て、我が国はグランヴェル王国に対し、正式に『宣戦布告』を行う」
「……何だと……?」
「もはや言葉は不要だ。貴様らの傲慢を、十万の鉄靴で踏み潰してやろう」
通信が切れる。
レオポルドの顔が、怒りでどす黒く染まった。
「……ぬかせ……、ランカスターの見栄っ張りがぁッ!!」
レオポルドは、脱ぎかけていた軍装を再び乱暴に身に纏うと、腰の剣を激しく叩いた。
「全軍に出撃を命じよ! 王の直轄部隊、親衛隊、すべてを動員しろ! 共和国の十万が何だ! 我が剣で、奴らすべてを血の海に沈めてくれる!!」
王は一分の迷いもなく、玉座を蹴って飛び出した。
ルクレール伯爵は、目の前が暗転するような眩暈を覚えた。
(……全面戦争……? これほど短期間に、そんな馬鹿な……!)
だが、止まることは許されない。
「ルクレール! いくぞ!!」
王の咆哮に引きずられるように、ルクレールもまた、灼熱の西へと出陣せざるを得なかった。
三〇三年、八月。
もはや一領地の紛争ではない。
王国と共和国。二つの巨象が正面から激突する、大陸全土を巻き込む大戦乱の火蓋が、ここに切って落とされたのである。
◇◇
陥落してから三日後のソーンウィック城。その主塔の一室、かつてフェッラーロ家が政務を執っていたであろう部屋の椅子に、エリオスは深く腰を下ろしていた。
外ではヴォルフたちが城の修復を急がせる声が響いているが、この部屋は静寂に包まれている。
そこへ、手元の魔導通信機が淡く輝き、緊迫した声が響いた。
『エリオス!』
セレナ・ヴァレンシュタインの声だった。普段の彼女からは想像もつかないほど、その声音には焦燥が滲んでいる。
「セレナ様。ご心配をおかけしました。ソーンウィックは今、我らの手にあります」
『それは聞き及んだ。しかし……カルヴァンが、十万を超える大軍をそちらへ向けて動かしたというではないか』
「ええ、それも聞いております。しかし陛下と大公も自ら大軍を率いてこちらに向かっているとのことです」
「……エリオス、すぐに私も兵を率いてそちらに向かうつもりだ』
エリオスは微かに目を細め、窓の外に広がる西の地平を見つめた。
「なりません。セレナ様、今は動かないでください」
『なぜだ!? 十万だぞ!? いくらリオンハート軍が精鋭揃いでも、数の暴力には――』
「今、貴女が動けば、旧ユリウス派の思うつぼです」
エリオスの静かだが断固とした声に、通信の向こうでセレナが息を呑むのが分かった。
「もしセレナ様が居城を留守にすれば、すぐさま兵を入れ、占拠する恐れもあります。城を質に取られれば、セレナ様も彼らの要求をのまざるを得なくなる……」
『しかし……』
「俺のことは、信じていただけませんか?」
『信じている……! 信じているが、それでも……私は貴方を失いたくない』
セレナの声が震える。エリオスはふっと、硬い表情を緩めた。
「心配は無用です。俺は死ぬためにこの城を奪ったのではない。……セレナ様、約束しましょう。この戦が終わったあかつきには、王都へ戻ります」
『……エリオス?』
「その時は、以前のように……いえ、以前よりもゆっくりと、二人で王都の街を散策しましょう。新しい菓子屋でも、古ぼけた本屋でも、貴女の好きな場所へ」
しばしの沈黙。やがて、通信機の向こうから、涙を堪えたような、それでいて凛とした声が返ってきた。
『約束……破るでないぞ』
「ええ。必ず」
通信が切れる。エリオスは冷徹な「支配者」の目に戻り、背後に控えていたリアナを見た。彼女は首をすくめて微笑んだ。
「エリオス様とセレナ様の散策の邪魔をさせるわけにはいきませんね」
エリオスもまた、柔和な笑みをこぼす。
「ああ、なんとしても勝つ。そして生き残る。それだけだ」
◇◇
三〇三年、八月十五日。
西の辺境は、王国軍の先遣隊が巻き上げる土埃と、酷暑の熱気で白く霞んでいた。 国王レオポルドに先んじて、一刻も早く現地へ辿り着いたルクレール伯爵は、馬を飛ばしてアラン・リオンハートの屋敷へと駆け込んだ。
「リーゼロッテ! リーゼロッテはどこだッ!」
埃にまみれたまま、廊下を大股で進むルクレールの前に、驚きに目を見開いたリーゼロッテが姿を現した。
「お父様!? まあ、そんなにお急ぎになって……。それに、軍服をお召しだなんて、何があったのですか?」
娘の無垢な問いに、ルクレールは眩暈を覚えた。彼女は、自分が十万の敵軍に対する「最前線の人質」にされていることすら、まだ理解していないのだ。
「いいから、すぐに支度をしろ。今すぐこの屋敷を出て、王都へ戻るんだ」
「えっ……? 何を仰るのですか? わたくし、まだエリオス様にお会いできておりませんわ。研究所の仕事もこれから――」
「仕事などどうでもいい! これは父としての命令だ。行けッ!!」
ルクレールの怒声に、リーゼロッテの体がびくりと跳ねた。いつも自分を甘やかしてくれた父の、見たこともないような鬼気迫る表情。
「……嫌ですわ! 理由も教えずにそんな……。せっかくエリオス様の近くまで来られたのに。わたくし、帰りたくありません!」
リーゼロッテは頑として譲らず、父の視線を撥ねつけた。だが、ルクレールは娘の肩を強く掴み、その耳元で、絞り出すように囁いた。
「十万だ、リーゼロッテ。共和国の軍勢、十万がこの領地を目指して進軍してきている。ここが戦場になるかもしれんのだぞ! 分かっているのか!」
「十……万……?」
リーゼロッテの顔から、急速に血の気が引いていく。
「エリオス殿も最前線で敵の大軍に囲まれている。彼が敵の侵攻を食い止めているその隙に、安全なところへ向かうのだ」
「そんな……エリオス様が……?」
ルクレールの有無を言わせぬ様子に、彼女はついに、糸が切れた人形のように力なく頷いた。
「……わかりました。お父様……」
数刻後、数騎の近衛兵に守られ、リーゼロッテを乗せた馬車は王都へと向けて走り出した。
それを見送るルクレールの顔には、安堵はなかった。
(これで娘は救った。だが、私は……エリオスに結果として引っ張り出されたわけだ。地獄の最前線に)
その背後で、アラン・リオンハートが、いつもの涼しげな微笑を湛えて立っていた。
「お見送り、ご苦労様です、ルクレール様。……陛下がお待ちですよ。戦議を始めましょう。十万の敵を、どう迎え撃つか」
ルクレールは、その微笑に潜むリオンハート家の底知れぬ悪意に、背筋を凍らせながら歩き出した。




