第67話 毒の連鎖、戦火の序曲
三〇三年、八月。
王国全土を、逃げ場のない酷暑が支配していた。
空は白く濁るほどに晴れ渡り、突き刺すような陽光が地上の水分を奪い去っていく。
王都にあるルクレール伯爵邸の広大な庭園では、途切れることのない蝉時雨が降り注ぎ、耳をつんざくような騒音となって大気を震わせていた。立ち上がる陽炎が景色を歪ませる中、リーゼロッテ・ルクレールは頬を赤らめ、汗を拭うことも忘れて、並べられたトランクを確認していた。
「お父様、見てください。この薄絹のドレスなら、西方の暑さの中でもエリオス様に涼やかな印象を与えられるかしら?」
彼女が手にしているのは、いまや王国屈指の権威となった『クロエ魔導薬学研究所』からの招待状だ。表向きは「特別研究助手」としての招聘。だが、それがエリオス・リオンハートとの縁談を決定づけるための「舞台装置」であることは、親子ともに承知の上だった。
「ああ、実に見事だよ、リーゼロッテ。君のその瑞々しさは、エリオス殿にとっても何よりの清涼剤となるだろう」
ルクレール伯爵は、扇子で風を送りながら満足げに目を細めた。
彼にとって娘の輿入れは、リオンハート家の力を自家の血脈に取り込むための、乾坤一擲の勝負だった。
「研究所で、エリオス様の隣に立つのですね……。わたくし、あの素晴らしい方の力になれるよう、精一杯努めますわ」
娘の無邪気な笑顔を見送りながら、ルクレールは野望の成就を確信していた。
しかし、その馬車が西の辺境領に入った直後、一行を待ち受けていたのは、熱砂の風を孕んだ沈黙だった。
「リーゼロッテ様、ようこそ西域へ」
馬車を止めたのは、エリオスの弟、アラン・リオンハートだった。
彼は額の汗を拭うこともせず、凍るような微笑を湛えて告げた。
「兄上は現在、国境付近の政務に当たっており、万全の警護が敷けません。安全上の理由もあり、しばらくは私の屋敷で避暑を兼ねてお過ごしいただきたい。……これは、兄上からの強い『願い』でもあります」
リーゼロッテは、その言葉の裏にある「父への牽制」という冷酷な意図に、一欠片も気づかなかった。
「ええ、もちろんですわ。エリオス様がわたくしの安全をそれほどまでに……」
彼女は頬を染めたまま、豪華な調度品に囲まれた「鳥籠」へと、自ら足を踏み入れた。
◇◇
同じ頃、王都のゾヨラ伯爵邸では、まさに歴史が動こうとしていた。
国王レオポルドの側近であり、対カルヴァン外交の重鎮であるカシム・ゾヨラ伯爵は、晩餐会の主役としてこの世の春を謳歌していた。
「ハハハ! ゲルハルト殿、このシャンパンは格別でしょう。王都でも最高級のヴィンテージですよ」
ゾヨラは、カルヴァン共和国の外務大臣、ゲルハルト・フォン・アルニムと肩を並べ、談笑していた。かつて激戦を繰り広げた両国の架け橋として、この老獪な伯爵が果たした役割は大きく、今や彼は「平和の象徴」として称賛を浴びていたのである。
「ええ、ゾヨラ伯爵。条約こそ事情により破棄されましたが、我ら個人の友誼は不滅だ。これからも良き隣人として歩んでいこうではないか」
ゲルハルト外相が手を差し伸べる。ゾヨラは力強くその手を握り返した。
「もちろんですとも。わが友、ゲルハルト殿! 乾杯しよう、我らの輝かしい未来に!」
拍手喝采の中、氷で冷やされたシャンパンが喉を通り抜ける。
その直後だった。
ゾヨラの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……あ、が…………っ!?」
喉の奥に、焼けつくような熱塊がせり上がる。冷たい酒を飲んだはずなのに、腹の中には溶岩を流し込まれたような激痛が走った。
ゾヨラは喉を掻きむしり、よろめきながらテーブルの端に縋りついた。銀の食器が派手な音を立てて崩れ落ちる。
「伯爵!? どうされました!」
ゲルハルトが駆け寄ろうとした瞬間、ゾヨラの口からどす黒い鮮血が、噴水のように溢れ出した。
「ひ、ひぎいぃいっ! あづい、あづいぃいいッ!!」
内臓を直接炙られるような苦痛に、ゾヨラは床を転げ回った。かつての気品はどこへやら、彼は自らの血溜まりの中で無様にのたうち回り、白目を剥いて痙攣する。 騒然とする広間。
その喧騒を、二階のバルコニーから見下ろす影があった。
給仕服を纏ったルカ・フェッラーロだ。
ルカは冷淡な瞳で、死の淵で悶える仇を見つめていた。
(……そうだ、もっと苦しめ。兄上を、俺の家族を、この地を笑いものにした報いだ)
だが、その心は晴れなかった。復讐の完遂が近づくほどに、内側には虚しい穴が開いていく。
しばらくたってから、ルカは北塔に向かった。そこには、伯爵の娘で、かつて兄アレッサンドロの恋人であるロサが、幽閉されているのを知っているからだ。
その華やかな喧騒から遠く離れた北棟。
窓に鉄格子が嵌められた一室を前にして、ルカの手は、震えた。
怒りではない。己の内側で、相反する二つの感情が、刃となって彼の魂を削り取っていたのだ。
(こいつはゾヨラの娘だ。兄上を戦場へ送り、あざ笑った男の血を引く女だ。殺すべきだ。ここで、この女も道連れに、ゾヨラの血筋を絶やすべきなんだ――!)
ルカは歯を食いしばり、顔を醜く歪めた。額からは不快な汗が流れ落ち、瞳は血走り、喉の奥からは獣のようなうめきが漏れる。
だが、その脳裏に浮かぶのは、かつて兄が大切そうに抱えていた、彼女からの文であった。
『ルカ、彼女だけは、どうか幸せであってほしいんだ』
兄の、あの穏やかな声。
ルカは吐き気を催すほどの葛藤に身をよじり、壁を拳で殴りつけた。血が滲むが、痛みは感じない。
「……クソ……クソッ……兄上……ッ!!」
ルカは呪詛を吐き捨てるように叫ぶと、無理やり鍵をこじ開け、扉を蹴り開けた。 部屋の隅、ベッドにうずくまっていたロサが、怯えた瞳で彼を見上げる。
「……誰? 何があったの……?」
ルカはロサを見なかった。
見れば、その首を締め上げてしまいそうだったからだ。彼は苦悶に満ちた表情のまま、部屋の外を指差した。
「行け。……門の警備はすべて眠らせた。馬も用意してある。どこへでも失せろ」 「あなた……」
「行けと言っている! これ以上、俺に……俺の兄上を汚させるな……ッ!!」
絞り出すような絶叫。ルカは壁を背にし、顔を覆って崩れ落ちた。
ロサは戸惑いながらも、自分を「檻」から解放してくれた男の傍らを通り過ぎる。
「……ありがとう。お名前を、せめてお名前だけでも」
ルカは答えなかった。
ただ、荒い呼吸を繰り返し、血の滲んだ手で彼女を追い払う仕草をした。
ロサは走り去る間際、その給仕の背中を見つめた。
絶望を背負い、それでも誰かを守ろうとするその孤独な輪郭——。
それは、三年前、二度と戻らぬ戦場へと向かった最愛の人の背中に、あまりにも酷似していた。
「……アレッサンドロ、様……?」
彼女はそう呟き、涙を流しながら闇へと消えていった。
後に残されたのは、血を吐くような嗚咽を漏らしながら、独り暗闇でうずくまるルカ・フェッラーロだけだった。
◇◇
数日後。王都の暑さは、国王レオポルドの怒りを限界まで増幅させていた。
玉座の間。全開にされた窓からは、蝉の鳴き声とともに、まとわりつくような熱風が吹き込んでいる。
「『即時解放を要請する』だと……? ランカスターの野郎、よくもこの俺を……! このレオポルドを、そこまで舐め腐るかッ!!」
レオポルドは、カルヴァン共和国大統領ヘンリー・ランカスターからの抗議文を、獣のような咆哮とともに引き裂いた。破片が床に散らばる。それでも怒りは収まらず、彼は近くにあった豪奢な花瓶を床に叩きつけた。
「陛下、どうか御心を鎮めて……!」
「鎮めていられるか! ゾヨラは俺の腕だった! その男を、我が庭先で、あんな無様な姿に変えおって!」
レオポルドの額には青筋が浮かび、首筋は汗と怒りで真っ赤に染まっていた。そこへ、研究者の報告が追い打ちをかける。
「陛下……検出された毒は、共和国特有の毒草『カルヴァニア・ルート』に間違いありません。これは精製法も共和国内で厳重に管理されているもので……」
むろん、それはルカが周到に用意した、偽りの「指紋」だった。だが、怒りに目が眩んだ王に、真実を見極める冷静さなど残っていない。
「号令せよ! 全貴族、全軍を以てカルヴァンを攻め落とせ! 奴らから笑顔を奪え、希望を奪え! この灼熱の夏を、奴らの血で冷やしてやるわッ!!」
ルクレール伯爵は、噴き出す汗を拭うことも忘れ、愕然と立ち尽くした。
西の辺境には娘がいる。
もし戦火が広がれば、人質として西域にいるリーゼロッテの身に危険が及ぶ。
そのために、なんとしても戦線を食い止めなくてはいけない。つまり、ルクレール自身の兵も温存ではなく、惜しみなく投じる必要があった。
(まさか、エリオスの……。いや、違う。これはすべて『偶然』の積み重ねにすぎない……はず。そう信じさせてくれ……)
◇◇
三〇三年、八月十日。
大地から立ち上がる強烈な陽炎が、進軍するリオンハート軍を揺らしていた。
エリオス・リオンハートは、馬上から冷徹な双眸で前方の要衝『ソーンウィック城』を見据えていた。
その馬車の傍らには、一人の青年が付き添っている。騎士団長でも、兵士でもない。ただの随行員としてこの場に立たされている、ルカ・フェッラーロだ。
「……閣下。なぜ、俺をこんな場所に連れてきたのですか。俺は戦う術など持ち合わせていない」
ルカの問いに、エリオスは視線を前方へ向けたまま、静かに口を開いた。
「あの城をよく見ておけ、ルカ」
陽光を浴びて白く輝く、難攻不落の名城ソーンウィック。
「あれは、かつて貴様の家――フェッラーロ家が治めていた居城だ。……他人の手にあるままでは、貴様の兄も浮かばれまい」
ルカが息を呑む。
エリオスは、彼を戦力として連れてきたのではなかった。
奪われた誇りを、奪われた土地を、己の主君が目の前で取り返して見せる。その光景をルカに刻みつけることで、彼の止まった時間を動かそうという、エリオスなりの「気遣い」だったのだ。
「ルカ。フェッラーロの名を継ぐ者として、見ておくがいい。今、我が軍があの城を奪還し、貴様の家園を浄化してやる」
エリオスが剣を抜き放ち、前方を指し示す。
「全軍、進め! ソーンウィック城を攻略する。一人も逃すな!」
灼熱の太陽の下、リオンハート軍の猛攻が始まった。
ルカは震える拳を握りしめ、自分たちの「家」へと突き進む軍勢を、目に焼き付けていた。




