第66話 地獄の淵にて
◇◇
夜の帳が降りる頃。
ルカ・フェッラーロは、カビ臭い地下室の片隅で、静かに器具を並べていた。 錆びついた鉄製の台。ひび割れた瓶。煤で黒く汚れた壁。
彼が生きてきた泥濘のような年月が、この狭い空間に凝縮されているようだった。
机の上の青い炎が、ルカの削げた頬を冷たく照らす。
その双眸は、静謐な集中と、どろりとした狂気の間を揺れ動いていた。
「……もう少しだ。あと少しで、すべてが終わる」
ルカは細いガラス管を手に取り、無色の液体を一滴ずつ垂らしていく。
波紋が広がり、やがて淡く灰色がかった透明へと収束する。
無味、無臭。
わずか一口で喉を焼き、内臓を腐らせ、絶命させる。名もなき死の雫。
完成した瞬間、ルカは深く、長く、肺の底から息を吐いた。
震える指先。だが、それは恐怖ではない。
脳裏をよぎるのは、あの穏やかな笑みを浮かべていた兄、アレッサンドロの姿。
——必ずこの地を取り戻す。俺たち兄弟の場所をな。
そう言って戦場へ向かった兄は、二度と帰らなかった。
兄を、家を、誇りを奪ったのは、この腐った貴族社会そのものだ。
そして今、その秩序の頂点で「平和」を説き、民を欺いているのが――エリオス・リオンハート。
(あいつを地獄へ引きずり込む。それが、俺の最後の仕事だ)
◇◇
三日後。エリオスの屋敷は、華やかな喧騒に包まれていた。
シャンデリアが放つ金色の光が床に反射し、オーケストラの調べが空気を震わせる。
「エリオス様、あまり飲みすぎないでくださいね? お顔が少し赤いですよ」
柔和な笑みを浮かべ、エリオスの隣で甲斐甲斐しく立ち働くのはルチアだった。その隣には、楽しげに貴族の婦人たちと談笑し、場を華やかに盛り立てるマリアの姿もある。
「わかっているよ。今日は大切な節目だからな。ハロルドにこれ以上小言を言われるのも勘弁したい」
エリオスは冗談めかして笑い、領民たちの献杯に応えていた。
その光景を、廊下の陰から見つめる男がいた。
使用人の制服をまとったルカだ。
本物の給仕を眠らせ、その服を奪い、顔には別人に見えるほどの精緻な化粧を施している。鏡の中の自分には、もはやフェッラーロの面影など微塵もなかった。
「……行くか」
銀のトレイに載せたシャンパングラス。
そのうちの一つには、涙のように透明な毒が溶けている。
音楽が止まり、エリオスがゆっくりと立ち上がった。
会場が静まり返る。
「諸君。この地に新たな希望を築くため、歩んできた日々に感謝を」
エリオスがグラスを掲げようとする。
ルカはその隙を逃さなかった。
人々の笑顔をすり抜け、影のように音もなく彼へと接近する。
「閣下、こちらの新しいグラスを」
ルカが差し出した「死の雫」。エリオスは迷うことなく、そのグラスに手を伸ばし、微笑んだ。
ルカの心臓が、耳元で鳴り響くほどの高鳴りを上げる。
(死ね。死んで償え、リオンハート!)
グラスがエリオスの唇に触れようとした、その刹那。
「……良い色だな。だが、少しばかり『余計なもの』が混じっているようだ」
時間が凍りついた。
エリオスの瞳が、氷のような冷徹さでルカを射抜いたのだ。
「しまっ――!」
ルカが懐のナイフに手を伸ばそうとした瞬間、背後から強烈な圧力が襲った。
「……動くな。鼠が」
短く、硬い声。ヴォルフだ。
彼はルカが動くより速くその手首を掴み、無造作に捻り上げた。
凄まじい筋力で床に叩きつけられ、ルカは呼吸を止める。
銀のトレイが激しい音を立てて転がり、周囲に悲鳴が広がる。
「……下がれ、皆。案ずるな。……ヴォルフ、そいつを地下へ。彼は私が預かる」
エリオスの静かな、だが拒絶を許さない声が広間に響き渡った。
◇◇
夜明け前の、冷え切った石造りの地下牢。 壁につながれた鎖の音が、ルカが呼吸するたびに虚しく響く。 「……くそ、殺せ……早く殺しやがれ……」
足音が響いた。 扉が開き、松明の光が差し込む。 現れたのは、護衛も連れていないエリオス・リオンハート、その人だった。 彼は独房に入ると、自ら重い鉄扉を閉めた。
「……殺せと言っている。俺にはもう、失うものなんて何もねぇんだ」
吐き捨てるルカ。だが、エリオスの視線は彼を憐れんではいなかった。 むしろ、獲物を品定めするような、鋭利な光を帯びている。
「いや――まだ取り返していないものがあるはずだ」 「は……? 何を言ってやがる……」 「フェッラーロ家の誇り。そして、不当に奪われた貴様の土地だ」
ルカの思考が停止した。なぜ、この男がその名を。 エリオスは一歩、ルカとの距離を詰める。
「貴様のことは調べさせてもらった。裏社会で『毒使いのルカ』として恐れられる男の正体をな。……兄アレッサンドロのこと、同情する」
「……黙れ。てめぇに、てめぇに何がわかるッ!!」
ルカが猛獣のように咆哮し、鎖を鳴らして飛びかかろうとする。 だがエリオスは微動だにせず、その目を真っ向から見据えて言い放った。
「わかるさ。理不尽に大切なものを奪われる痛みはな。だが、今の貴様の行いはなんだ? 誇り高き兄が、弟に暗殺者になれと教えたか? 貴様は兄の記憶に泥を塗っているに過ぎない」
「うるせぇ……うるせぇええッ!! 笑いたきゃ笑え! 負け犬だと罵って、さっさと首を撥ねろ!!」
エリオスはルカの顔の横、冷たい石壁を強く叩いた。 低い、地を這うような声。
「貴様に価値がなければ、とっくに首を撥ねている。……チャンスをやる、と言っているんだ。その毒の知識、その執念。すべてを俺のために使い、フェッラーロの名を再び表舞台に刻むチャンスをだ」
ルカは呆然と口を開けた。 「馬鹿な……そんなこと、できるはずが……俺は、あんたを殺そうとしたんだぞ……?」
「できる。俺がさせると言っている。……俺は、地獄の底にいる貴様に手を貸してやると言っているんだ」
沈黙が牢獄を支配する。 ルカの歯の根がガチガチと震える。 屈辱、後悔、そして、枯れ果てたはずの希望。 ぐちゃぐちゃになった感情が、目から、鼻から、溢れ出した。
「……っざけんな……っ、ふざけるな……ぁあああああああああああああああああああかっ!!!」
それは、過去の自分との決別を告げる、魂の絶叫だった。
ルカは震える手を、泥にまみれたその手を、ゆっくりと伸ばした。 エリオスの差し出した白く清潔な掌に、それが触れる。
「……もし、嘘だったら……死んでも呪ってやるからな……」 「いいだろう。その時は、共に地獄へ行こう。……そこで貴様の兄に、膝をついて許しを乞うてやる」
エリオスは微かに口角を上げた。
その夜。 裏社会を這いずり回った一人の毒殺者は死に、エリオスの影として生きる新たな「剣」が誕生した。




