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第64話 ルカ・フェッラーロ

◇◇


 エリオスは時折、夢にうなされる夜がある。

 それはかつてアルベルトだった頃の、最期のあの一瞬を再現したもの。

 もっとも信頼を置き、子のいない彼にとって、ゆくゆくは自分の後継に、と考えていた麒麟児ルシアン。そんな彼が手にした刃が、己の腹に深々と突き刺さる。冷たい感触は、死の直前にも関わらず、生の実感をもたらすものだった。

 薄れゆく意識の中で、ルシアンがつぶやいた最後の言葉。ぼやけているが、確かに彼はこう言ったのだ。


 ――次はこのような結末にしませんから……。


 次?

 結末?


 それらの疑問への答えは分からないまま、窓から朝日が射し込むと同時に、エリオスとして目覚めるのだった。


◇◇


 ソーンウィック地方。

 ブランフォードの街から西へ二日の道のり。現在は、カルヴァン共和国とグランヴェル王国の間に広がる緩衝地帯となっており、『難攻不落』と呼び声高い名城ソーンウィック城は空城となっている。


 かつてその一帯を治めていたのが、フェッラーロ家という名門だった。

 遠い祖先は優れた医師であり、当時の公国王に仕え、その献身と知識をもって多くの命を救った。

 その功績によってフェッラーロ家は子爵の地位と、西部の豊かな土地を授けられた 

 

 ……はずだった。


 しかし、栄光は長く続かなかった。


 ルカの曽祖父、バルド・フェッラーロは、あまりにも愚かな男だった。

 虚栄を愛し、贅沢を求め、金がなければ名誉を売ることもいとわなかった。

 ついには、禁じられた薬物を密かに取引し、莫大な利益を得ようとした。

 その罪が露見すると同時に、フェッラーロ家は爵位を剥奪され、領地も没収された。


 それが百年ほど前のこと。

 それ以来、“フェッラーロ”という名は、医者としての栄誉ではなく、堕落と恥辱の象徴になった。


 そして、その末裔として生まれたのがルカ・フェッラーロである。


 ルカには兄がいた。

 アレッサンドロ・フェッラーロ。


 金髪に青い瞳、容姿端麗で文武両道。

 生まれながらの貴族のような気品を備え、誰からも愛される青年だった。

 領民も兵士も、誰もが彼を慕った。

 一方のルカは、決して愚かではなかった。ただ、外で友人らと遊ぶよりも、フェッラーロ家に貯蔵されている大量の医学に関する書籍を、ひとりで読みふけるのが好きな、少し変わった少年だった。


「兄上は本当に、完璧ですよね」


 幼い頃、ルカが皮肉混じりに言ったとき、アレッサンドロは穏やかに笑って答えた。


「見た目や能力だけがすべてじゃないさ。大事なのは大望を成すまで、決して諦めない強い心だから」


 その言葉の意味は、ルカには難しすぎて理解できなかった。

 ただ、その声の優しさと、兄の手の温もりだけは覚えている。


 その後、学校に通うようになってからルカは落ちこぼれた。

 落ちぶれた家門であること、兄と比べて多くの点で劣っていること、そして何より絶望的に社交性に欠けていること……それらすべてがルカの評価を落とし、彼自身もまた劣等感の沼にはまっていった。


 しかし兄だけは、自分を笑わなかった。


 放蕩息子、浪費家の生まれ変わり、フェッラーロ家の汚点。

 どんなに悪口を言われても、アレッサンドロだけはいつも、同じ距離でルカを見つめてくれた。


 やがて、フェッラーロ家が仕えていたゾヨラ子爵家の軍が、カルヴァン共和国との戦に巻き込まれる。

 アレッサンドロは志願し、ゾヨラ家の旗下の兵となった。


 彼は真面目に訓練を積み、次々と戦功を上げた。

 仲間を見捨てず、敵に情けをかけず、己を律した。

 昇進は早かった。二年も経たぬうちに、小隊長に任ぜられる。

 その翌年には、正式にゾヨラ家の騎士まで登りつめた。


 『西の新星』――アレッサンドロはそう人々から呼ばれ、英雄視されるようになった。


 その頃には、ゾヨラ子爵の娘ロサが彼に想いを寄せるようになっていた。


 麗しい容姿、まっすぐな瞳、正義を信じる青年。

 貴族の娘にとって、それはまるで物語の騎士そのものに見えたのだろう。


 だが、ゾヨラ子爵はその恋を知るや、冷酷に動いた。


「若造が……。ちょっと容姿がいいからといって調子に乗りおって」


 そこで子爵はアレッサンドロに命じた。


 ――ソーンウィック城を攻めよ。


 それは、かつてフェッラーロ家が治めていた城。今は敵の最前線にそびえたつ難攻不落の要塞。そこを小隊で攻めるというのは、実質的な玉砕命令だった。

 さしものアレッサンドロの表情も、苦悶に歪んだ。

 その顔を見て、ゾヨラ子爵は冷たい笑みを浮かべたという。


「できぬ、と言うなら仕方ない。騎士の名誉と小隊長の座を取り上げるしかあるまい」


「……いえ、やります。やらせてください」


 出発の前夜。

 ルカは兄を止めようと、何度も叫んだ。


「逃げましょう! 兄上! こんなの、死にに行くようなものです!」

「ルカ……」


 アレッサンドロは微笑んでいた。


「この地は、元は我らの領地だった。私は、この戦で必ず功績をあげ、フェッラーロ家を取り戻す。

だから……笑って見送ってくれ」


 その夜、ルカは泣いた。

 兄が死ぬことを悟っていたから。

 それでも兄は、最後まで穏やかだった。

 ルカの頭を撫でて、言った。


「お前は自由に生きろ。誰にも縛られるな」


 それが、兄の最後の言葉だった。


 アレッサンドロ・フェッラーロは、三日後の戦で討ち死にした。

 帰ってきたのは、主を失い、どす黒い血に染まった彼の軍服だけ。


 その遺品がゾヨラ子爵(当時)の館に届けられた日、一人の少女の心もまた、永遠に壊れた。


「嘘。そんな、嘘よ。あの方は、必ず戻ると約束してくださったわ……!」


 ゾヨラ家の令嬢、ロサは、血の匂いのこびりついた軍服を抱きしめ、狂ったように泣き叫んだ。

 彼女にとって、アレッサンドロはこの退屈で冷酷な貴族社会に差し込んだ、唯一の光だった。身分の差など超越した、誠実な愛。それを、実の父が奪ったのだ。


「いい加減に見苦しいぞ、ロサ。あのような卑しい身分の男、死んだところで代わりなどいくらでもいる」


 部屋に現れた父・ゾヨラの声は、娘の悲しみを踏みにじるほどに冷たかった。


「お父様が。お父様があの方を殺したのね! あの場所に、ソーンウィックに送れば、あの方が死ぬと分かっていて……!」

「黙れ。これは家門のためだ。リオンハート家への忠誠を示すため、無能な駒を切り捨てたに過ぎん」


 父の瞳に宿る、氷のような功利心。

 ロサは絶望の果てに、父の腰に帯びた短剣を、稲妻のような速さで奪い取った。


「ならば、わたくしも、あの方の元へ!」


 鋭い刃が、その白い首筋に当てられた。

 だが、その刃が肌を裂くより早く、周囲に控えていた衛兵たちが彼女を取り押さえた。


「離して! 離してよ! あの方がいない世界に、何の意味があるの!?」 「連れて行け。……この娘を自室に軟禁しろ。一歩も外に出すな。食事も監視の下で摂らせろ。……これ以上、家の名に泥を塗ることは許さん」


 ゾヨラの冷徹な命令。

 こうしてロサは、窓に格子が嵌められた自室へと押し込められた。

 毎日、アレッサンドロの名前を呼び、壁を爪で掻きむしり、泣き崩れる。かつて「西の新星」と謳われた騎士を愛した少女は、生ける亡霊となって、豪華な牢獄に閉じ込められたのである。


 ◇◇


 同じ頃、城下ではもう一つの絶望が完成しようとしていた。


 兄の死をきっかけに、フェッラーロ家は完全に崩壊した。

 父は病に倒れ、母は錯乱し、妹は身売り同然にどこかへ嫁いでいった。

 残ったのは、ルカひとり。


 彼は、ロサが軟禁されている館の、高くそびえる塔を遠くから見つめていた。  兄を慕っていた少女が、狂気に蝕まれているという噂は、彼の耳にも届いている。


(兄上……。あなたを愛した人も、あなたを愛した家族も、みんな壊れてしまった)


 ルカの中にあったのは、もはや悲しみですらなかった。

 底の見えない、冷たく乾いた虚無。  そして、それ以上に肥大化したのは、この不幸をあざ笑う「世界」への憎悪だった。


 彼は裏の世界へと足を踏み入れた。

 家の蔵に眠っていた古い薬学書を手に取り、夜な夜な独学を重ねた。

 薬草、精製、蒸留、乾燥。それらの技術を、ルカは完璧に再現した。


 ただし、その目的は癒しではなかった。


 ルカが作り出したのは、かつて曽祖父が扱っていた禁薬だった。

 安価で強烈、そして何よりも依存性が高い。


 彼は最初、ゾヨラ領の貧民街の人々にそれを配り始めた。


「これを飲めば、寒さも痛みも忘れられる」


 やがて客は増え、兵士にも、商人にも、使用人にも広がった。

 それは、彼なりの復讐だった。


「滅んでしまえばいい……何もかも」


 ルカの薬は静かに、確実にゾヨラ領を蝕んでいった。

 兵は怠惰になり、街は荒れ、戦は負け続き、領民は絶望した。

 ゾヨラ領は徐々にカルヴァン共和国に削られ、領都までもう後がなくなってきた。

 一方のルカは、純度の高い薬物を武器に、西部地方の裏社会をのし上がり、ついには『ボス』と崇められるまでになった。


 ルカは笑わなかった。

 満たされなかった。

 心はとっくに死んでいた。


 彼が拠点としていた街が敵襲で炎に包まれた夜も、無表情のまま眺めていた。

 すべてが燃え尽きる光景に、悲しみも怒りも湧かなかった。

 あるのは、乾いた虚無と、冷たい煙の匂いだけ。


 だが、その終わりは突然訪れた。


 ――戦神マルクスの再来だ!!


 その叫び声とともに、戦場の空気が一変した。

 ルカが丹念に、そして冷酷に腐らせていったゾヨラ領の軍勢。共和国の猛攻の前に瓦解を待つだけだったその絶望を、突如として現れた「銀の獅子」の旗印が切り裂いたのである。


 エリオス・リオンハート。

 彼が率いる一隊が放った魔法の火光は、夜空を焼き、共和国軍を敗走させただけでなく、ルカが広めた「禁薬」という病に沈んでいた街に、無理やり「勝利」という名の劇薬を流し込んだ。


 その結果、滅びゆくはずだったゾヨラ家は息を吹き返した。

 主であるカシム・ゾヨラは、自軍の壊滅をエリオスの手柄によって覆すと、第一王子派の将としてちゃっかりと勝利の果実を貪ったのである。

 内乱がレオポルドの勝利で幕を閉じると、ゾヨラは子爵から伯爵へと格上げされ、あろうことか辺境の地を離れ、王都に近い豊かな領地へと移り住むことになった。


 兄アレッサンドロを死に追いやり、あざ笑ったあの男が、今は王都の社交界で「英雄の協力者」として我が物顔で振る舞っている。


「……ふざけるな」


 ルカは、王都近郊の新しいゾヨラ伯爵邸の影で、土を噛み締めるように呟いた。  彼にとって、エリオスは領民を救った英雄などではない。

 自分の人生をかけた復讐を完成直前で台無しにし、仇であるゾヨラにさらなる栄光を与えた、忌むべき破壊者だった。


(すべては、あのエリオスのせいだ……。あいつがあの時、余計な真似さえしなければ、ゾヨラは今頃、共和国の土となって消えていたはずなのに!)


 ルカの瞳に、昏い炎が宿る。

 復讐の対象は、今やゾヨラ個人を超え、その「秩序」を守り抜いたエリオス・リオンハートへと向けられていた。


 そんな折、ルカの耳に朗報が届く。

 宿敵エリオスが、西の最果て、荒廃した辺境『ウェスト・フロンティア』の正式な領主として着任したというのだ。


「くく……ははは! 自ら地獄へ飛び込んできたか、エリオス・リオンハート」


 ルカは暗い路地裏で、手元の薬瓶を愛おしそうに撫でながらほくそ笑んだ。

 辺境。法も、王の声も届きにくいその場所こそ、ルカの「禁薬」が最も猛威を振るう舞台だ。


「今度こそ、お前の築き上げる『未来』とやらを、根底から腐らせてやる。兄上のときと同じように、絶望の中で死なせてやるよ」


 ルカは狂気に満ちた笑みを浮かべ、闇の中に消えていった。


 だが。


 その様子を、向かいの建物の屋根の上で片膝をつき、じっと見下ろしている影があった。

 黒髪に灰色の瞳。片方の口角を皮肉げに上げた青年――フェリオ・ダークウェルである。


「……やれやれ。なんでエリオスは、他人から恨みを買うのが得意なのやら」


 フェリオは手元の手帳に、ルカの特徴と、彼が扱っている不審な薬物の情報を書き込んだ。

 エリオスの「耳」として、ブランフォード周辺に蠢くネズミの動向を追っていた彼にとって、ルカの発する濃密な殺意は、夜の焚き火よりも眩しく映っていた。


「恨みを晴らす絶好の機会、か。……まあ、あいつに指一本触れられると思ってるなら、幸せな頭をしてるこった」


 フェリオは音もなく立ち上がると、夜風に紛れてブランフォードの館へと、この「不愉快な土産話」を届けるべく駆け出した。

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