7
アレクシス様が、少し緊張したような面持ちでクッキーのトレイを私に差し出してきた。
(……クッキー? なぜそんなに緊張した顔で勧めてくるの……? ハッ! まさか……毒!? あるいは自白剤!?)
私の脳内で危険信号が赤く点滅する。
しかし、目の前で執事のガルシアさんが、なぜか感極まったような目でアレクシス様と私を見つめている。
「ルチア様、どうぞお召し上がりくださいませ。実はそのクッキー、――」
「コホン! ガ、ガルシア、余計なことは言わなくていい!」
アレクシス様が慌ててガルシアさんの言葉を遮り、顔を真っ赤にして咳払いをした。
(……? ガルシアさんが何か言いかけたわね。まさか『毒を調合された』……!? 恐ろしすぎる! 将軍自ら毒を練り込むなんて、なんて手抜きのなさなの!)
「ルチア、嫌なら無理に食べなくてもいいんだ。ただ……君の口に合うといいなと思って……」
アレクシス様が、どこか小さくなって私を伺うように見つめてくる。
その捨てられた仔犬のような瞳に、私の胸が一瞬キュッと締め付けられた。
(くっ……! その罪悪感を刺激する表情! 『食べないと僕を傷つけることになるよ?』という高度な精神的脅迫ね! 逃げ道がないわ!)
「いいえ! 喜んでいただきますわ!」
私は腹を括った。
これまで数々の罠を潜り抜けてきた私だ。ここで毒の一杯(※クッキーです)や二杯に怯えてどうする!
私は覚悟を決めて、小さなクッキーを一つ摘み、お口へ運んだ。
サクッ……。
口の中に広がったのは、香ばしいバターの香りと、ほんのりとしたアーモンドの甘み、そして――かすかな柑橘類の爽やかな風味だった。
「……っ!?」
私は目を見開いた。
この味……知っている。
アランデルの私の実家で、母様が特別な日に焼いてくれた、あのオレンジピール入りのクッキーの味だ。
「ど、どうだい……? アランデルの伝統的なレシピで、自ら作ってみたんだが……口に合わないかい?」
アレクシス様が、握りしめた手にぎゅっと力を込めながら、不安そうに尋ねてくる。
実は、アレクシス様は昨日の夜、料理長からアランデルのクッキーのレシピを聞き出し、ルチアを喜ばせたくて自ら厨房に立ち、焦がしたり形を崩したりしながら何度も試作を重ねて焼いたのだと……。
だが、そんな甘い背景を知る由もない私は、一瞬で別の結論へと達した。
(お、お母様のレシピ……!? 実家の秘密の味まで完璧に再現されている……! これは……『お前の実家の家庭の味すら、我が帝国の毒殺技師の手にかかれば完璧に再現できるのだ』という故郷の安心すら奪う高度な警告……っ!!)
恐ろしい。なんて冷酷で、完璧な脅迫なのだろう。
私の大好きな思い出の味覚すら、彼らにとっては私を精神的に脅迫するためのツールに過ぎないのだ。
「……とっても、美味しいですわ、旦那様。懐かしい味がして、涙が出そうです(※恐怖で)」
「そうか……! それはよかった……!」
アレクシス様は、心の底から安堵したように、パッと顔を輝かせた。その笑顔はあまりにも眩しく、まるで太陽のようだった。
(くっ……! 私を恐怖のどん底に突き落としておいて、自分はそんな天使のような笑顔を浮かべるなんて……! 『氷の死神』の二面性、恐るべし……!)
お茶を終えた後、読書が再開された。
しばらくすると、隣から規則正しい息遣いが聞こえてきた。
ふと隣を見ると、なんとアレクシス様が、肘をついた姿勢のまま、こっくりこっくりと船を漕いでいたのだ。
長身の彼が、少し首をかしげるようにして眠りに落ちている。黄金色の髪がハラリと額にかかり、長い睫毛が綺麗な影を作っていた。普段の隙のない凛々しさとは打って変わり、まるで無防備な子供のような寝顔だった。
(えっ……? 寝てる……!?)
実は、アレクシス様はルチアを迎えてからの連日、慣れない新婚生活への緊張と「どうすればルチアを喜ばせられるか」の思考、さらには昨夜のクッキー作りの疲労が重なり、限界を迎えていたのだ。
だが、私の脳内では真逆の解釈が炸裂していた。
(……待ちなさい。これは『罠』よ!!)
私は全身の毛穴が開くような緊張感を覚えた。
(あの『戦場の死神』と呼ばれた男が、敵国女の目の前で、こんな無防備に居眠りなんてするはずがないわ! これは私を試しているのよ! 『夫が寝た隙に、屋敷の機密文書を探し始めるかどうか』を試すための、罠としての寝たふりよ!!)
私はゴクリと唾を呑み込んだ。
ここで私が立ち上がり、図書室の奥へ向かったり、彼のテーブルの上の書類を覗き込んだりすれば、一発でアウトだ。影から潜んでいた影護官が飛び出してきて、私の首筋にナイフを突きつけるだろう。
(試されている……私の忠誠心と無害さが!!)
私は背筋を限界までピンと伸ばし、呼吸すら殺して、ひたすら目の前の『騎士と令嬢の甘やかな恋』を凝視した。
一ページもめくらず、ただひたすらに同じ行を視線で往復する。
十分経過。
三十分経過。
一時間経過。
私の首と背中は、石のようにバキバキに凝り固まっていた。足の痺れも限界に近い。
だが私は動かない。微動だにしない。
アレクシス様の寝顔を見つめつつ、「私はあなたの完璧で大人しい妻です」という念を送続けながら、ひたすら耐え続けた。
(負けない……! あなたの『寝たふり耐久テスト』なんかに、私は絶対に負けないわ……っ!)
やがて、ハッと息を呑む音とともに、アレクシス様が目を覚ました。
「……っ!? す、すまない、ルチア! 私としたことが、不覚にも眠ってしまっていた……!」
アレクシス様は自分の失態に顔を蒼白にし、慌てて立ち上がった。妻の前で居眠りをしてしまうなんて、夫として恥ずかしすぎる、と本気で焦っているようだ。
しかし、私は内心で勝利のガッツポーズを決めていた。
(勝った……! 一時間の耐久テストを耐え抜いたわ……!!)
「いいえ、旦那様。お疲れのところ、私にお付き合いくださってありがとうございます。旦那様の安らかな寝顔を拝見できて、私、とっても幸せでしたわ」
私はプルプルと震える身体を隠しながら、完璧な淑女の微笑みを浮かべてみせた。
「ルチア……君はどこまで優しいんだ……」
アレクシス様は、感動に目を潤ませながら、私の手を両手で優しく包み込んだ。
「君のような素晴らしい妻を持てて、私は世界一幸福な男だ。……明日も、ずっと君のそばにいてもいいかい?」
「もちろんですわ、旦那様(※恐怖の二十四時間監視体制が明日も続くのね……!)」
こうして「図書室の心理戦」も、私の驚異的な耐性によって、無事に(?)幕を閉じたのであった。
その夜。
寝室で身体のコリをマリーにほぐしてもらいながら、私は心の中で誓った。
「明日はどんな試練が来ようとも……私は生き残ってみせるわ!」
一方、執務室で「ルチアは私の手作りクッキーを涙ぐむほど喜んでくれたし、私が寝てしまっても怒らずに優しく見守ってくれた……天使だ……」と一人で感無量の涙を流しているアレクシスであった。




