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すっかり見慣れた豪華な天蓋付きベッドで目を覚ますと、今日も今日とて私の隣には誰もいなかった。
そしてサイドテーブルには、いつものように流麗な文字のメモと、今日は一輪の青い小さな花が添えられていた。
『おはよう、ルチア。今日は屋敷の図書室で、ゆっくり読書でもして過ごさないか? 君が起きるのを、ダイニングで待っているよ』
「……情報戦ね」
私はメモをパタンと裏返し、大きく深呼吸をした。
図書室。それはすなわち、知識と情報の宝庫。
一見すれば「インドアな新婚夫婦の穏やかな休日」に見えるだろう。だが、騙されてはいけない。昨日までの数々の罠を掻い潜ってきた私の直感は、鋭く警鐘を鳴らしていた。
(図書室で読書……つまり、私が『どんな本を選ぶか』で、私の思想や知能レベル、そしてスパイとしての適性を図る知能テストというわけね! アランデルの歴史書を読めば『国粋主義者』としてマークされ、帝国の軍事録を読めば『機密を探るスパイ』として断罪される。なんという巧妙な心理トラップ!)
「お嬢様、おはようございます。今朝はお顔の色も優れておいでですね」
「ええ、マリー。今日も戦場へ赴く準備は万端よ。……それで、今日の敵の動向は?」
「は、はいっ! 公爵様は早朝から執務室でいくつかの書類に目を通された後、『本日は妻と図書室で終日過ごす。誰も邪魔をするな』とお屋敷全体に通達を出されました!」
「一先ず、裏表は大丈夫そうね」
着替えを手伝うマリーにそう告げると、彼女は「お嬢様……今日も無事にご生還されることを祈っております」と、私を死地に送り出す悲壮な顔をした。
今日のドレスは、図書室という知的な場にふさわしい、落ち着いた若草色のドレスを選んだ。装飾は極力抑え、首元には昨日アレクシス様からいただいた(実質的に買わされた)あのペンダントだけを身につける。
『あなたへの忠誠心は忘れていませんよ』というアピールである。
貴族の屋敷における図書室とは、単なる読書の場ではない。
裏の帳簿、外交の秘密文書、暗殺の計画書、あるいは他国のスパイリストなど、表に出せない「闇」が密かに隠されている禁断の聖域なのだ。そこへ私を招き入れ、「誰も邪魔をするな」と密室を作ろうという……。
(完全に私を試しているわ……! 私が興味本位で怪しい本棚や隠し扉に手を触れた瞬間、隠れていた暗部が飛び出してきて『公爵家の機密を盗み見ようとした国家スパイめ!』と捕縛される手筈ね!)
「恐ろしい男……。罠のスケールが日に日に大きくなっているわ」
「お、お嬢様……! では、図書室行きはお断りになりますか!?」
「いいえ、断れば『夫の好意を無下に断る傲慢な妻』として点数を引かれるわ。行くわよ、マリー」
戦意を高めた私は、しずしずと公爵邸の東棟にある図書室へと向かった。
重厚なオーク材の二重扉の前に立つと、すでに私を待っていたアレクシス様が、輝くような笑顔で迎えてくれた。今日の彼は、白のタートルネックにダークグレーのカーディガンという、いつもより少しラフで知性溢れる装いだった。髪も少し崩されており、それがまた心臓に悪いレベルの美貌を際立たせている。
「やあ、ルチア。おはよう。今日も素晴らしいドレスだね。……あ、そのペンダント、つけてくれたんだね」
彼の瞳が、嬉しそうに細められる。
「おはようございます、旦那様。はい、旦那様のお召し物と合わせて、このペンダントを選びましたの(※建前です)。本日は図書室をご案内していただけると伺い、楽しみにしておりました」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。さあ、中へどうぞ」
彼の手によって静かに扉が開かれると、そこに広がっていたのは、まさに「知識の殿堂」と呼ぶにふさわしい光景だった。
吹き抜けになった二階建ての広大な空間。壁一面を埋め尽くす、天井まで届く巨大な本棚。数万冊は下らないであろう膨大な蔵書が、整然と並んでいる。ほのかに漂う古い紙と革の匂い、そして窓から差し込む柔らかい光。
「すごい……」
思わず本心が漏れた。本好きの私にとって、この空間自体は夢のような場所だ。
しかし、次の瞬間、私の脳内警戒システムが警報を打ち鳴らした。
(待ちなさい、ルチア! 目を奪われてはダメ! この広大な図書室のどこかに、必ず『踏んではいけない地雷』が仕掛けられているはずよ!)
「君が読書が好きだと聞いてね。アランデルから嫁ぐ際、本をたくさん持ってくるのは大変だったろうと思って、君の好きそうな本を事前に集めておいたんだ」
アレクシス様が私を中央の閲覧用テーブルへと導く。そこには、新しく装丁されたばかりの数冊の本が綺麗に並べられていた。
私がそっとそのタイトルに目をやると――息が止まりそうになった。
『アランデル王国の歴史と地理』
『南部の植物図鑑』
『アランデル宮廷歌集(限定復刻版)』
『騎士と令嬢の甘やかな恋(アランデルで流行した大衆ロマンス小説)』
他数冊。
(……なっ、何てこと……っ!?)
私の背中に、ドッと冷や汗が吹き出した。
(私個人が幼少期に愛読していた絵本から、十代の頃に密かにハマっていた恋愛小説、さらには実家の領地の特産品が載っている植物図鑑まで……完全に私の読書傾向が精査されているわーーーっ!?)
恐ろしい。恐ろしすぎるわ、ローゼンバーグ家の諜報網!
これは単なる読書ではない。「お前の過去の嗜好、趣味、脳内の思考パターンまで、我が機関はすべて把握している」という、無言の宣誓布告だ!
「どうだい、ルチア? 気に召すものはあったかな? 特にこの『騎士と令嬢の甘やかな恋』は、アランデルから原稿を取り寄せて、帝国の最高級の紙で再製本させたんだ」
アレクシス様は、まるで「大好きな女の子にプレゼントを渡す少年」のような純粋な目で私を見つめてくる。
(くっ……! 最高級の紙で再製本ですって……!? なんという精神的拷問! 『お前はこんな甘っちょろい小説が好きだったな?』と公開処刑されている気分だわ!)
「まあ……! なんて素晴らしいのでしょう! 私、感動で声も出ませんわ(※恐怖と羞恥で声が出ないだけです)」
「ふふ、喜んでもらえてよかった。今日はここで、一緒にゆっくり読書をしよう」
アレクシス様は満足そうに微笑むと、私の隣の椅子を引き、優しく腰掛けさせてくれた。
(よし……落ちつけ、私。まずはこの攻撃を乗り切るのよ。危険な本――例えば『帝国の軍事配置図』や『ローゼンバーグ家の暗黒史』みたいな重厚な革装丁の本には絶対に近づかない。目の前にある、この甘っちょろい恋愛小説だけを大人しく読んでいる振りをすればいいのね!)
私は震える手で『騎士と令嬢の甘やかな恋』を開き、必死に文字を目で追い始めた。
隣では、アレクシス様が難しそうな帝国の政治書を開いている。静かな図書室に、ページをめくる音だけがサラサラと響く。
……一見すると、非常に穏やかで理想的な新婚夫婦の読書風景だ。
だが、私の心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
(……隣からの圧迫感がすごい! アレクシス様、チラチラと私の顔を見てくるじゃない! 『いつスパイの本性を現すか』を観察しているのね!? 絶対に隙は見せないわよ。私は今、完全にこの恋愛小説に夢中になっている、世間知らずな純真令嬢よ!)
私は必死で「小説に没頭して頬を赤らめる可憐なヒロイン」を演じ続けた。
一時間ほど経った頃、静かに図書室の扉が開き、執事のガルシアさんがワゴンを押して入ってきた。
「お茶の準備が整いました」
「ありがとう、ガルシア。そこに置いてくれ」
ワゴンに乗せられていたのは、最高級の磁器に入った紅茶と、銀のトレイに盛られた小さくて可愛らしい焼き菓子――クッキーだった。
「ルチア、お茶にしよう。このクッキー、食べてみてくれないか?」




