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馬車の扉が開き、アレクシス様が先に降りて私に手を差し伸べた。
彼の手を取って馬車を降りると、そこにはアランデル王国とは全く異なる、石造りの重厚で賑やかな街並みが広がっていた。焼きたてのパンの匂い、色とりどりの露店、行き交う人々。
「今日は気取った店ではなく、こうして君と並んで街を歩きたかったんだ。……嫌だったかい?」
「いいえ! とっても素敵ですわ!」
私は即座に笑顔を作った。
(ふふん、街歩きね。市民の目に触れる場所で、私に失態を犯させようという腹ね。あるいは、暗殺者に私を狙わせるための無防備な演出……!)
私は警戒レベルを最大に引き上げ、周囲のビルや屋根の上にクロスボウを持った狙撃手がいないか鋭い視線を走らせた。
「ルチア、危ないよ」
「あっ……!」
考え事に没頭するあまり、石畳の凹凸に足を取られそうになった瞬間、ぐっと強い力で引き寄せられた。
気がつくと、私はアレクシス様の腕の中に収まっていた。ほのかに香る上質なウッディの香水と、彼の力強い鼓動が耳元で響く。
「……怪我はないかい?」
「は、はい。申し訳ございません、お恥ずかしいところを……」
「謝る必要はないよ。……こうしていれば、転ぶ心配もないだろう?」
アレクシス様はそう言うと、自然な動作で私の手を指と指を絡める「恋人繋ぎ」で握り締め、そのまま自分の上着のポケットへと滑り込ませた。
ポケットの中は、彼の体温でポカポカと温かかった。
(こ、これは……関節技!? 私の右手足を完全に封じ、いざという時に私が逃げ出せないように拘束したのね……!?)
恐ろしい。なんて自然な関節技の決め方なのだろう。これが「戦場の死神」と呼ばれる男の近接格闘術か。
「見てごらん、ルチア。あの店で売っている焼き菓子は、この街で一番人気なんだ。食べてみないかい?」
「まあ、美味しそうですわね」
彼が露店で買ってきたのは、果物のジャムがたっぷり詰まった、揚げたての甘いパイのようなお菓子だった。
アレクシス様は、それを一口サイズにちぎると、なんと私のお口へ直接運ぼうとしてきた。
「あー……っとしてごらん」
「えっ、あ、あの、旦那様!? 人目がありますわ!」
「夫婦なのだから、何もおかしくはないよ。さあ」
(くっ……! 公衆の面前で『あーん』をさせて、私に恥をかかせる……! ここで拒絶すれば『領主の親愛を受け入れない冷酷な妻』だと周りの市民への印象操作に利用される……!)
私は覚悟を決め、小さな口を開けた。
「……あーん」
サクッとした食感とともに、甘酸っぱいベリーのジャムと香ばしい生地の味が口いっぱいに広がった。
「……おいしいです」
「ふふ、よかった。……あ、頬にジャムがついているよ」
アレクシス様は優しく目を細めると、親指で私の頬をそっと撫で、その指についたジャムを……なんと自分の口に運んで舐めとったのだ。
「……っ!??!?」
私の顔面は、一瞬で茹で上がったタコのように真っ赤になった。
(なななな何をしているのこの男はーーーー!?!? 指!? 自分の指で!? 市民の目の前で!? 狂っているわ! この男、私の羞恥心を極限まで煽って精神を破壊する気だわ!!)
「どうしたんだい? 顔が真っ赤だが……熱でもあるのか?」
アレクシス様が、本気で心配そうな顔で私の額に自分の額をこつんと当ててくる。至近距離に迫る、国宝級の超絶美顔。エメラルドの瞳が、至近距離で私を映し出している。
(ひえっ……! 顔面兵器!! 顔面兵器による精神攻撃!!!)
「だい、大丈夫ですわ!! 少し、陽射しが暖かかっただけで……っ!」
私が限界を迎えてジタバタしていると、突然、背後から重々しい足音が近づいてきた。
「――閣下! こちらにいらっしゃいましたか!」
振り返ると、そこには身の丈二メートルはあろうかという、熊のように強靭な体躯をした男が立っていた。全身に重厚な鎧を纏い、顔には鋭い傷跡がある。まさに「戦士」という言葉を体現したような、圧迫感のある男だ。
「ヴォルフか。非番の日に何用だ?」
アレクシス様が少し呆れたような声を出す。
ヴォルフと呼ばれたその男――騎士団副団長は、私を一瞥すると、地響きのような声で言った。
「新しい公爵夫人様にお目にかかりたく、参上いたしました。……初めまして、ルチア様。ローゼンバーグ騎士団副団長、ヴォルフ・フォン・バウアーと申します」
ヴォルフ様は、その巨体を折るようにして、私に深々と頭を下げた。
しかし、私には見えた。彼が頭を下げる一瞬、その鋭い眼光が私の喉元(頸動脈)を正確にロックオンしていたことを!
(ひっ……! この人、完全に『いざとなったら一瞬で殺れる』間合いを測っているわ! さすがは死神の部下、隙がない……!)
「初めまして、ヴォルフ様。ルチアと申します。夫がいつもお世話になっております」
「はっ! 閣下からは『私の妻はこの世で最も愛らしく、儚い天使のようなお方だ。傷一つつけたらタダでは済まん』と、毎日耳がタコになるほど聞かされております!」
(……はい? 毎日耳にタコ??)
私は一瞬、自分の耳を疑った。
だが、すぐに思い直した。
(そうか! 『お前は我が騎士団にとって人質同然だ。ボロを出せばすぐに消す』という隠語ね! 『天使=すでに天に召されかけている存在』という意味に違いないわ!)
「まあ、旦那様ったら……お恥ずかしいですわ」
私は内心で冷や汗を流しながら、完璧な微笑みを維持した。
ヴォルフ様は、私の完璧な(と思い込んでいる)対応を見て不敵な笑みを浮かべた。
「閣下、素晴らしい奥様ですな。これなら、我ら騎士団も安心して奥様をお守りできます!」
「当たり前だ。私のルチアだからね。……ところでヴォルフ、例の新人を甘やかすなよ。さっさと訓練させろ」
「ははっ! 大変失礼いたしました! ご歓談を!」
ヴォルフ様は嵐のように去っていった。
一命を取り留めた……。私は小さく胸を撫でおろした。
その後も、アレクシス様による「関節技(手繋ぎ)」、「顔面兵器による至近距離攻撃」、「あーんによる公開処刑」という数々の過酷な拷問(?)を受けながら、無事に屋敷へと帰還したのだった。
その夜。
自分の部屋(兼夫婦部屋)で、私は疲れ果ててベッドに倒れ込んでいた。
「ハァ、ハァ……今日も、生き残ったわ……」
宝飾品全買いの罠、街中での心理攻撃、そして騎士団副団長による脅迫。
今日も今日とて、冷酷な『氷の死神』が仕掛けてくる死のトラップを、私は持ち前の機転と完璧な演技力で間一髪回避してみせたのだ。
「でも……負けない。明日はどんな罠が待ち受けていようと、私は完璧な妻として生き抜いて見せるわ!」
私は静かにメラメラと闘志を燃やしていた。
一方、隣の部屋で書類を整理していたアレクシス様は、手帳に今日の出来事を嬉々として書き込んでいた。
『○月×日
ルチアと一緒に街へ出かけた。
彼女は私の瞳と同じ色のペンダントを選んでくれた! 私をそんな風に思ってくれていたなんて、夢のようだ。
焼き菓子も嬉しそうに食べてくれたし、手をつないだときは顔を赤くして照れていた。なんて可愛いのだろう。
ヴォルフにも自慢できた。明日は、彼女と一緒に屋敷の図書室で読書でもしようか。彼女の好きな本をたくさん集めておこう』
アレクシス様は、世界で一番幸せな男の笑みを浮かべていた。
すれ違いの針は、今日も今日とて、盛大に噛み合わないまま回り続けているのだった。




