4
新婚生活が始まって、はや三日目の朝。
目が覚めると、やはりアレクシス様の姿はベッドにもソファにもなかった。
サイドテーブルには、昨日と同じく流麗な文字で書かれた「おはよう、ルチア。今日も良い天気だね。朝食の準備ができているよ」というメモと、一輪の可憐な白い小花が添えられていた。
「……またしても先手を打たれたわ」
私はメモを握り締め、天井を見上げて呟いた。
夫より遅く起きる妻など、本来であれば失格だ。だが、彼は私を責めるどころか、メモと花で優しく私を起こしてくれる。
一見すれば「世界一甘くて甲斐性のある旦那様」だ。だが、私の研ぎ澄まされた危機管理能力は、その裏にある恐ろしい罠を絶対に見逃さない。
(『いつでも君の寝顔を観察できる位置にいる』という無言のアピール……! そしてこの花は……そう、『お前の行動はすべて咲いた花のように私から丸見えだ』という暗号ね!)
「お嬢様! 今朝もお無事で何よりです……っ!」
部屋に駆け込んできたマリーが、涙目で私を抱きしめる。毎朝の恒例行事になりつつあるこのやり取りだが、今日のマリーの顔には、いつにも増して深刻な色が浮かんでいた。
「お嬢様、大変ですわ。今朝、屋敷の前に……帝国一と名高い高級宝飾店と貴婦人服の仕立て屋の馬車が、ズラリと列をなして到着いたしましたの!」
「宝飾店と仕立て屋……?」
「ええ! なんでも、公爵様が『新しく迎えた私の可愛い妻に、最高級の品々を揃えたい』とお命じになられたそうです……! お嬢様、これは……!」
「落ち着きなさい、マリー。……ついに来たわね」
私はドレスの袖をギュッと握り締めた。
(来ちゃったわ……貴族社会における最大の罠、『無限無制限ショッピング・トラップ』が……!)
一見すると、妻を喜ばせるための素晴らしいプレゼントだ。
しかし、これには悪魔のような二重の罠が仕掛けられている。
もし私が「わあ、素敵! これもあれも全部いただくわ!」と調子に乗って高級な宝石やドレスを買い漁ればどうなるか?
「敗戦国同然の分際で、我がローゼンバーグ家の財産を貪る強欲で浅ましい女」というレッテルを貼られ、帝国の貴族社会で徹底的に孤立させられる。最悪の場合、無駄遣いを理由に離縁・追放だ。
では逆に、「私には勿体ございません。何もいりません」と辞退したらどうなるか?
「ローゼンバーグ家からの贈答品を侮辱した」「帝国の美意識や文化を拒絶した」として、夫の顔に泥を塗ることになる。
(選んでも地獄、選ばなくても地獄……! なんて精密に組み上げられた踏み絵なの……! さすがは『氷の死神』、一筋縄ではいかないわ!)
「マリー、今日の私の着替えは、手持ちの中で一番慎ましく、それでいて品のあるものにして。戦いは、もう始まっているわ!」
「は、はいっ! お嬢様!」
身支度を整え、意気揚々と応接間へと向かうと、そこは眩いばかりの光に包まれていた。
テーブルの上には、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイアが散りばめられたネックレスやティアラ、指輪が山のように並べられ、壁際には最高級のシルクやベルベットで作られた色鮮やかなドレスがずらりと吊るされている。
「おはよう、ルチア」
その光り輝く宝飾品の中央に座っていたアレクシス様が、私に気づいて立ち上がった。今日の彼は、上質なグレーのジャケットを羽織っており、相変わらず絵画から抜け出してきたような美しさだ。
「おはようございます、旦那様。これは……一体……?」
「君がアランデルから持ってきてくれた衣装や宝飾品も素晴らしいものばかりだが、帝国の気候に合わせた暖かい冬服や、ローゼンバーグ公爵夫人としての公式な場に出席するための装身具が必要だと思ってね。街の最高の職人たちを呼び寄せたんだ」
アレクシス様は、極めて爽やかな笑顔でそう言った。
そして、老舗宝飾店の店主に向かって頷いてみせる。
「ルチア、好きなものをどれでも選んでおくれ。いや、ここに並んでいるものすべてが気に入ったのなら、すべて買い取っても構わないよ」
(出たーーーー!! 『全部買っていいよ』という悪魔のささやき!!)
私の脳内警報が鳴り響く。
商人たちも、アレクシス様の言葉に目を輝かせて私を見つめている。「さあ、どれをお選びになりますか、公爵夫人様!」と言わんばかりの圧力だ。
(落ち着け、ルチア。思考を加速させろ。ここで選ぶべきは、『高価すぎず、安物すぎず、かつ洗練されていて、夫のセンスを立てる一品』……!)
私はゆっくりと歩み寄り、山のように積まれた煌びやかなジュエリーには目もくれず、端の方に置かれていた、ひとつのシンプルなペンダントに手を伸ばした。
それは、華奢な銀の鎖に、小ぶりの深緑色の小石――ルハン産の高品質なエメラルドがひとつだけあしらわれた、極めて控えめなデザインのものだった。
「旦那様。私、これがよろしいですわ」
「……え? それかい?」
アレクシス様が驚いたように目を丸くした。
「もっと大きなダイヤモンドや、君の瞳と同じ色のサファイアのティアラなどもあるのだが……本当にそれでいいのかい?」
「はい。この深い緑色が、まるで旦那様のお美しい瞳の色のようで……私、一目で心奪われてしまいましたの。高価な宝石をいくつも身につけるより、旦那様の存在をいつも身近に感じられるこのペンダントが、私にとって何よりの宝物になりますわ」
完璧だ。我ながら完璧すぎる回答だ!
「欲深さ」を排しつつ、「夫への深い愛と敬意」をアピールし、さらに「あなたの瞳の色だから選んだ」という甘い言葉で攻撃を無力化する!
これなら、どんなに冷酷な死神であっても、私を責める口実を見つけられるはずがない!
「……ルチア」
アレクシス様は、ペンダントを見つめたまま固まっていた。
やがて、彼の白い頬が、みるみるうちに熟したリンゴのように赤く染まっていく。彼は口元を手で覆い、あからさまに動揺しながら視線を泳がせた。
「き、君は……そんな風に私を見てくれていたのか……? 私の瞳の色だから、と……?」
「ええ、もちろんですわ(※演技です)」
「……っ! 商人、このペンダントをいただく。それと、ここに並んでいるドレスと宝石、すべて我が家の付けで購入しよう」
「「「かしこまりました、公爵様!!」」」
(……はい????)
私の思考がフリーズした。
今、なんて言った? 「全部購入しよう」……!? なに言ってるの!?
「旦那様!? 全部だなんて、そのような破格のお買い物、あまりに勿体なさすぎますわ!」
「勿体なくなどない! 君のような慎ましく、心の清らかな妻を持てたのだ。ローゼンバーグ家の財産はすべて君のためにあると言っても過言ではない! さあ、次は街へ出かけよう。君に見せたいものがあるんだ」
アレクシス様は、興奮を隠しきれない様子で私の手を握ると、力強い足取りで私を外へと連れ出した。
(なんでーーー!? 『慎ましい選択』をして罠を回避したはずなのに、なんで全買いという最悪の展開になってるのー!?)
私の計算は完全に狂っていた。
彼の意図がわからない。私を「金遣いの荒い女」に仕立て上げるために、自ら力技で全買いしたというの……? 自分から罠の中に私を力ずくで放り込むスタイルなの……!?
呆然としたまま豪華な馬車に揺られること数十分。
馬車が停車したのは、帝国の首都の中心部、活気あふれる中央広場だった。
「さあ、着いたよ、ルチア」




