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「お、お嬢様……! 無事だったのですね!? お怪我はありませんか!? どこか痛むところは……っ!」
私が自室(※正しくは夫婦の寝室だが、実質私専用になっていた)で身支度を整えようとメイドのマリーを呼んだ途端、彼女は部屋に転がり込むなり私にすがりついて号泣し始めた。
どうやら彼女は、私が昨晩の「初夜」で、ムチで打たれたりロウソクを垂らされたりして、今頃ボロ雑巾のように泣き崩れていると本気で心配していたらしい。
「落ち着いて、マリー。見ての通り、私は無傷よ。指一本触れられていないわ」
「えっ……? ゆ、指一本、ですか?」
「ええ。アレクシス様は、私に大きなベッドを譲って、ご自身はソファで寝てくださったの」
私が事もなげにそう告げると、マリーは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ぽかんと口を開けた。
「そ、そんな……天下の『氷の死神』が、妻を抱かずにソファで寝た!? まさか、お嬢様のお身体に何か重大な欠陥があると勘違いされたのでしょうか!? それとも、アランデルの女は抱く価値もないと……っ!」
「違うわよ、マリー」
私は、鏡の前でゆっくりと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「これは『心理戦』よ」
「し、しんりせん……?」
「そう。彼は私に『優しくて理解のある夫』を演じることで、私の警戒心を解こうとしているの。私が油断して彼に心を許し、甘えた態度をとった瞬間に、アランデルの国家機密を聞き出したり、あるいは私を『帝国に染まったふしだらな女』として断罪したりするための、高度な罠なのよ!」
私が自信満々に推理を披露すると、マリーはしばらく呆然としていたが、やがて「さすがお嬢様……! 公爵様の恐ろしい陰謀を、一晩で見抜かれるなんて!」と、尊敬の眼差しを向けてきた。
ええ、そうなのよ。私は負けない。彼が『理想の夫』を演じるなら、私は『彼を盲信して愛し尽くす、純真無垢な妻』を完璧に演じ切って、彼の罠をすべて無効化してみせるわ!
気合を入れ直した私は、マリーに手伝ってもらい、帝国風の少しタイトな、しかし清楚で可愛らしい水色のドレスに着替えた。髪はハーフアップにまとめ、白薔薇の髪飾りを添える。
鏡に映るのは、どこからどう見ても「新婚の幸せオーラ全開の初々しい若妻」だ。完璧な擬態である。
「よし、行くわよ。朝食という名の、第一ラウンドへ!」
意気揚々とダイニングルームへ向かうと、そこは私の実家の晩餐会が開けそうなほど広大な部屋だった。
長大なマホガニーのテーブルの端と端に座らされるのかと思いきや、アレクシス様はテーブルの中央付近に二つの椅子を隣り合わせに並べて座っていた。
「おはよう、ルチア。よく眠れたかい?」
朝の光を背に受けて微笑む彼は、朝から暴力的なまでの美貌を放っていた。
漆黒の軍服から一転、今日は仕立ての良い純白のブラウスにネイビーのベストという、少しラフな貴族の装いだ。それがまた、彼のエメラルドの瞳の美しさを際立たせている。
並の令嬢なら「きゃあっ」と顔を赤らめて卒倒するだろう。だが、私の目は誤魔化せない。
(隣同士の席……! 私の細かい表情の変化や、ナイフとフォークを扱う際の筋肉の動きから、私の精神状態や暗殺スキルの有無を分析する気ね! なんと恐ろしい観察眼!)
「おはようございます、旦那様。おかげさまで、とってもよく眠れましたわ。旦那様の寝顔がとても安らかで、私もすっかり安心しきってしまって……ふふっ」
私は、頬に手を当てて小首を傾げ、この世で最も無害で頭の中がお花畑な新妻を熱演した。
すると、アレクシス様はピクッと肩を震わせ、なぜか少し顔を赤くして口元を片手で覆った。
「そ、そうか。君が安心してくれたなら、何よりだ……」
(ほら! 動揺してる! 私が罠に怯えるどころか、自分の寝顔を見て和んでいたと知って、計画が狂ったことに焦っているのね! 勝ったわ!)
内心で高笑いしながら席に着くと、すぐに使用人たちが朝食を運んできた。
銀のドーム型の蓋がパカッと開けられると、ふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
そこに現れたのは、ふっくらと焼き上げられたパンケーキに、たっぷりの木苺のジャムと、厚切りのベーコン。そして、アランデル地方特有の、ハーブを効かせた温かいミルクスープだった。
「……えっ?」
私は思わず目を丸くした。これは、どう見てもガルディア帝国の伝統的な朝食ではない。私が幼い頃から実家で親しんできた、アランデルの郷土料理そのものだった。
「君は、アランデルの南部の出身だったね。帝国の味付けは少し濃くて胃に負担がかかるかもしれないと思って、我が家の料理長に頼んで、アランデルのレシピを再現してもらったんだ。木苺のジャムも、アランデルから取り寄せたものだよ。口に合うといいのだけれど」
アレクシス様は、少し心配そうに私の顔を覗き込んできた。
彼のその言葉を聞いて、私の背筋にゾクッと冷たい汗が伝った。
(わ、私の実家の正確な場所から、好みの味付け、さらには食材までアランデルから密輸(?)しているですって……!?)
なんてことだ。これは単なる朝食ではない。「お前の故郷の流通経路も、実家の内情も、すでに我が帝国の諜報部が完全に把握しているぞ」という、無言の脅迫状だ!
木苺のジャムの鮮やかな赤色は、まるで「逆らえばアランデルを血の海にする」という暗喩のようにも見える。
(くっ……朝からなんて重い精神攻撃を仕掛けてくるの、氷の死神……! でも、ここで怯えて食欲をなくせば、彼の思惑通りに精神を削られるだけよ!)
まだ始まったばかりである。




