2.子供を殴るんか
ノートパソコンのモニターを見つめながら、片山千佳は小さくため息をついた。
「はぁ……あれほど、なるべく希望休はほかのスタッフと重ならないようにと言ったのに」
介護業界は常に人手不足である。ここ、孤狼の里も例外ではない。限られた人員でうまく運営しなくてはならないため、スタッフのシフト作成は悩みの種だ。
「申し訳ないけど……未来ちゃんに夜勤増やしてもらおうかしら」
そんなことを考えていた矢先。コンコンとノックの音が響き、施設長室の扉が開いた。
入ってきたのは、人懐っこそうな童顔の男性。副施設長の宮崎健斗だ。
「施設長、ちょっといいですか?」
「宮崎君。どうしたの?」
「えっと。赤城静江さんなんですけど、最近寝つきが悪いみたいで」
「ああ……未来ちゃんからの申し送りにも書いてあったわね」
「はい。夜になると、少々興奮気味になるので……昨夜はデエビゴを服用してもらって、何とか眠れたみたいです」
デエビゴ錠は、不眠症に効果が期待できる薬だ。
「そう……少し様子を見ましょう。一度、お医者様にも相談してみるわ」
「お願いします」
宮崎は軽く頭を下げると踵を返した。が──
「最近、フキさんの様子はどう?」
「え? ああ……相変わらずですね。認知症の進行も見られません」
「そう……。六郎さんたちも?」
「ですね」
千佳がメガネをスッと指で押し上げる。レンズの奥。その瞳が鈍く光る。
「じゃあ……しばらくは大丈夫ね」
「問題、ないかと」
「例の件についても、情報はなし?」
「はい。会話の中でさりげなく探りは入れているんですが……」
「……こちらの意図に気づいて、とぼけている可能性もあるわね」
「いや、さすがにそれは……」
「侮ってはダメ。彼女をはじめ、ここの入居者はすべて元闇の住人。フキさんたちにいたっては、レジェンドクラスの殺し屋なのだから」
宮崎がゴクリと喉を鳴らす。これらの事実、そして施設の運営目的まで知っているのは、施設長である千佳と副施設長の宮崎のみだ。
「まあ……焦っても仕方ないわ。時間は限られているけど、ね」
口をきゅっと結んだ宮崎は、再び頭を下げると静かに部屋を出ていった。
──バチンッ、と乾いた音がリビングに響く。古ぼけた将棋盤の前に座るフキが、ニヤリと口元をしならせた。
「王手さね」
「ぐ……」
将棋盤を挟んでフキと向き合う大柄な男が低く唸る。
男の名は須藤源治。元極道であり、超武闘派のヒットマンとしても名を馳せた男だ。
「さあ、源さん。どうすっさね? 投了すっかい?」
「たいぎいのぅ……じゃが、まだ負けとらんけぇ」
顔を顰めた源治が駒を動かす。が──
「はい。また王手さね」
「お、おどりゃ……!」
源治のこめかみがピクピクと脈打つ。
「もう盤面は完全に詰んでるさね。潔く負けを認めたらどうだい?」
「くそが……やめじゃやめじゃ」
リビングの片隅に設置された一平米ほどの畳スペース。苦々しい表情を浮かべた源治は、杖を手にするとゆっくり立ち上がった。
「ありゃ。まだ、参りましたを聞いてないさね」
「じゃかあしいんじゃ。この嫌味ババアが」
フキが憤慨したように立ち上がり、源治の顔を見上げて睨みつける。
「誰が嫌味ババアね。このデカブツじじい!」
「なんじゃとおどりゃあっ」
一触即発の空気。リビングでテレビを観ていたサトや六郎たちが、呆れたように苦笑いを浮かべた。
「ほんま、ようやるわぁあの二人」
「ケンカするほど仲がいい、とはよく言ったもんだ」
将棋を指したあとのケンカ。孤狼の里、一階フロアで暮らす面々にとって、この光景は日常茶飯事だ。
「ひゃひゃっ! ほんと元気だぎゃあ。あの二人、実はデキてるんじゃにゃーか?」
どぎつい名古屋弁で口を開いたのは、二条清次。違法ドラッグから生きた人間、遺体まで何でも運んでいた凄腕の元運び屋。
「おどりゃ清次。たいぎぃこと言いよったら、ぶちまわしちゃるぞ」
「おうおう。どえりゃあこえーがや」
清次がおどけたように肩を竦める。と、そこへ──
「はいはいお二人さんっ! 元気なのはいいけど、ケンカはダメだようっ!?」
二人の間に割って入ったのは、介護職員の飯田可憐。とても可愛らしい名前ではあるが、アラフォーかつでっぷりとした体格のベテランスタッフだ。
「それはこいつにだけ言ってほしいさね。この負けを認めない頑固ヤクザに」
「んじゃとおっ!?」
「はーいはいっ! ダーメですよっと」
可憐がその太い腕で源治の首根っこをがっしりと掴む。かなり大柄な源治だが、可憐はその上をいくため、あっさりと動きを封じられてしまった。
「ほらほら、フキさんも源さんも。もう少しで二人が大好きな『暴れまくり将軍』が始まるようっ」
その言葉にハッと我に返るフキと源治。
「それに、明日は楽しい楽しい地域交流イベントがあるしねんっ。夕方から、みんなで縁日へお出かけだわよっ」
フキをはじめ、サトや六郎、清次たちも「おおっ」と目を輝かせる。
閉鎖された空間で生活している彼らにとって、こうしたイベントは何よりも楽しみなのである。
──あれは、うだるような暑い夏の日だった。
「ひっ……! い、嫌だ……た、助け……ぎゃっ!」
袈裟に振り下ろした白刃が男の体に吸い込まれる。男の着ていた白シャツが瞬く間に赤く染まった。
床に尻餅をついて震える二人の男。源治は瞳に冷たい色を宿したまま、二人の男を見下ろした。
「おどりゃあ……誰のシマで商売しとんじゃ。おお?」
源治が刀の先端を突きつける。
「ま、待って……! こ、殺さないで……!」
「か、金ならいくらでも、払いますか──ぶふぅっ!」
源治の足裏が男の顔面にめり込んだ。
「ここまで好き勝手やっちょって、何をたいぎぃこと抜かしとんなぁ」
「ゆ、ゆゆ、許してくださいっ! お、俺ら、ヤクザじゃないし、か、堅気なんです!」
土下座する男の頭を、源治は思い切り蹴飛ばした。
「ぎゃあっ!」
「堅気のくせに、ようもあがいな下衆い商売やりおったのぅ」
源治が鋭い目で睨みつける。
「あ、ああ……」
「児童売春なんぞやりおって、ばかタレがぁ」
「も、もうしません! に、二度とこのあたりで、そんなこと……!」
二人の男は揃って土下座したまま、ひたすら許しを乞う。
「ふん……これまで稼いだゼニ、全部こっちに渡さんかいやぁ」
「も、もちろんです!」
「今後このあたりで見かけたら、ただじゃおかんけのぅ」
「は、はい!」
金髪と茶髪の男がノロノロと立ち上がり、深々と頭を下げる。命が助かったと分かり、明らかに表情も和らいでいた。
「い、いやあ……ほんと、ありがとうございます。あの、お金だけじゃなくて、別のお礼もできますが、どうします?」
「別のお礼じゃと?」
「へへ……うちのガキども、いつでも派遣しますよ?」
源治の眉がぴくりと跳ねる。
「あいつら、俺たちの言うことなら何でも聞きますから。どんなプレイでもできますよ」
「何でも……言うこと聞く、じゃと?」
「ええ。生意気言ったらぶん殴ってるんで、今じゃすっかり俺らの飼い犬ですよ」
刹那、源治の頭の中で何かが弾けた。
「おどれら……子供を、殴るんか?」
「へ……?」
鬼の形相をした源治が、金髪男に詰め寄る。
「……言え。子供を殴るんか?」
「や、その、まあ……ときど──ぎゃあっ!!」
みなまで言わさず、源治は刀を振り抜いた。金髪男の胸が裂け、鮮血がほとばしる。源治は茶髪男に目を向けた。
「おどれも……子供を殴るんか?」
「い、い──ひぎぃっ!」
白刃が茶髪男の胸を貫く。わずかな時間痙攣を繰り返し、やがて男は物言わぬ肉塊になった。
──源治がベッドの上で弾けるように起き上がる。一瞬ぼーっとしてから、壁の時計に目をやった。
三時半。外はまだ真っ暗だ。
胸に手を当てた。心臓の鼓動が速い。背中にはじっとりと汗が滲んでいる。
「たいぎい夢、じゃの」
一つ大きく息を吐いた源治は、再び布団の中に潜り込んだ。
──翌日の夕方。地域交流イベントとして縁日に招待されたフキたちは、思い思いに楽しい時間を過ごしていた。
「やっぱり祭りはいいさね。気持ちが明るくなるさね」
「せやなあ。おっ、フキさん。あっちにたこ焼きあんで! 行ってみよ!」
「いいねぇ。静江さんもどうだい?」
「私、は、いい。それ、より、りんご飴、食べたい」
「お。俺もりんご飴食いてゃあな。静江っち、一緒に探しに行くでや」
グッと親指を立てて見せる清次へ、静江がジト目を向ける。
「俺は酒でも飲みてぇところだが、肝臓が終わってっからなあ。ジュースで我慢するか」
六郎が腹のあたりをさすりながら言う。
目当ての屋台に突撃していく老人たち。その様子を見て、引率の未来がくすりと笑みをこぼす。
「みんな、あまり遠くに行っちゃだめですよっ!? あと、お金の無駄遣いもダメですからねっ!?」
まばらに飛んでくる「はーい」という返事の声。
「まったく……って、源治さんは一緒に行かなくてよかったんですか?」
「ああ。特に食べたいものもないけぇの。祭りの雰囲気は好きじゃが」
杖をつきながら歩く源治の背中を、未来がそっと支える。
「わしなら大丈夫じゃけぇ、未来ちゃんは楽しんできんさいや」
「そ、そうもいきませんよ。源治さん膝悪いし、こけちゃったりしたら大変だし」
「それもまたリハビリみたいなもんじゃけぇ」
「じ、じゃあ、みんなの様子を見がてら、ちょっとその辺周ってみます。すぐ戻るんで、あまり遠くに行かないでくださいねっ?」
「ああ。楽しんできんさい」
弾むような足取りで人混みへ向かう未来の後ろ姿を見て、源治の口元がかすかに緩んだ。
杖をついたまま、源治は大きく息を吸い込んだ。
焼き鳥の屋台から漂ってくる香ばしい匂い。軽やかに鳴る下駄の音。沈みゆく赤い太陽と、ぼんやり浮かぶ赤提灯。
ああ、やっぱり祭りはいいな。
感慨深げにしていた源治のすぐそばを、数人の小さな子供が楽しそうに駆け抜けていく。
「ふふ……元気じゃのぅ」
源治はかすかに笑みをこぼした。
さて、と。射的の屋台でも覗いてみるか。
そう思った矢先──
「……ん?」
少し離れたところにある屋台。その前で、複数の男が屋台の主人と大声で言い争いをしていた。
「ざっけんなっ! 因縁つけてんじゃねぇぞ!」
「んだとこらっ! 誰のおかげで商売できてると思ってんだ!?」
スーツを着崩した若い三人組の男が店主に怒声を浴びせる。
「ふん、地元のヤクザ……チンピラか」
そういや、ここらを仕切ってる組は、テキ屋の組織とはあまり仲がよくなかったな。いざこざが起きるのも仕方ないことか。
関わらないでおこう、と源治が踵を返す。そのとき──
「何しやがんだ、このクソガキっ!」
源治は反射的に振り返った。見ると、先ほどまで店主に怒鳴っていたチンピラの一人が、小さな子供の前で仁王立ちしている。
「ご、ごめんなさい……!」
「ごめんで済むか! どうしてくれんだ、ええっ!?」
チンピラのズボン、その股間のあたりに広がるシミ。どうやら、ジュース片手に走っていた子供にぶつかられたようだ。
「あ、あの……これ……」
男の子がポケットから五百円玉を取り出し、恐る恐るチンピラへ差し出す。
「な、舐めてんじゃねぇぞっ!!」
バチンッ、と鈍い音が縁日の会場に響く。頬を力いっぱいはたかれ、男の子が地面に転がった。
「ったく……ふざけやがって……ん?」
忌々しそうにするチンピラの前で、大柄な男が倒れた子供を優しく抱き起こした。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
源治は男の子を立ち上がらせると、服についた土埃を手でパンパンとはたいた。そして、チンピラたちへ鋭い目を向ける。
「おいおい、じじい。何勝手なことしてんだ? それにその目。俺たちに文句でもあるってのか?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるチンピラたち。だったが──
「おどれら……子供を殴るんか……?」
底冷えするような冷たい声。一瞬にして、三人のチンピラは固まった。
「あ、う……!」
獰猛な獣を思わせるような目で睨みつけられ、チンピラたちは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
源治が杖をつきながら、じりっじりっとチンピラたちへ近づいていく。と、そこへ──
「おい! お前ら何してやがる!」
人混みを掻き分けて現れたのは、スーツをピシッと着こなした壮年の男。
「あ……柳楽さんっ」
柳楽と呼ばれた男。このあたりを仕切るヤクザ組織の幹部である。
「よ、よかった……! 柳楽の兄貴、実はこのジジイが舐めたことしやがって……」
「ああ?」
柳楽が源治を見やる。瞬間、柳楽もまた氷のように固まった。まるで幽霊を見たかのように、顔から血の気も引いた。
「あ、ああ……! あんたは、まさか……!」
ただごとではない柳楽の様子に、チンピラたちは困惑しながら顔を見合わせた。
「まさか……人斬り源治……!?」
「……その呼び方はやめぇ」
源治が柳楽を睨みつける。
「わしはただの、老いぼれじゃ」
柳楽はハッとしたようにチンピラたちへ向き直ると、一人ずつ渾身のパンチを顔面に叩き込んだ。
「ぎゃっ!」
「あがっ!」
「ぶふぅっ!」
地面にうずくまる三人。柳楽は再び源治へ向き直ると、深々と頭を下げた。
「うちの若いもんが、大変失礼をしました。ここは、私の顔で許してやってもらえませんか?」
「許すか許さんかは、わしが決めることじゃあないけぇ」
「は……?」
源治の背中に隠れていた男の子。源治は体をかがめて目線を合わせた。
「どうする? 坊主が決めんさい」
「あ……うん。こっちも、悪かったし……」
源治が男の子の頭をくしゃっと撫でる。そして、柳楽へ向き直った。
「よかったのぅ。許してくれるそうじゃ」
「あ、ありがとうございます」
チンピラたちの首根っこを掴んで去っていく柳楽を見送り、源治は小さく息を吐いた。
「お、おじいちゃん」
「……ん? なんじゃ、坊主」
「ありがとう!」
男の子はぺこりと可愛らしく頭を下げると、元気に走り去った。その様子を見て、源治も笑みを浮かべる。と、そこへ──
「あっ! 源治さんいた! んもうー、どこ行っちゃったかと思ったじゃないですかぁ〜」
声の主は未来。片手にはたこ焼きのパックを持っている。どうやら楽しんでいたようだ。
「てか、何ですかこの人だかり? 何かありました?」
「いや……何もないよ」
「ふーん。あ、向こうでフキさんたちも待ってますよ! さ、行きましょ」
未来が源治の手を優しくとる。
「ちっ……仕方ないのぅ」
かすかに微笑んだ源治は、未来と一緒にゆっくりと人混みの中を歩み始めた。




