1.ぼやけるねぇ
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広々とした自然公園。大股を開いて噴水前のベンチに腰を下ろす男が、下品な笑い声を上げた。
「ぎゃははっ! あん? 金? 心配ねぇよ。俺の代わりにせっせと働いてくれるバカな女がいるからさ」
スマホを耳に当て、大声で話し続ける粗野な男を、人々が蔑むように見ながら通り過ぎる。
「言うこときかなきゃ、また顔の形が変わるほど殴ってやりゃいいだけさ」
男の口元が下品に歪む。
「ほんと、あの女はかっこうのカモだぜ。これからも俺のために──っ!」
刹那。
男が弾けるようにベンチの後方へ転がる。額に空いた風穴。遅れるようにして、ターンッと乾いた音が遠くから追いかけてきた。
倒れ込んだ男と、地面に広がる真っ赤な血。
何事かと近づいた通行人たちが、目を覆いたくなる惨状にパニックになる。たちまち、公園内は騒然となった。
──公園から一キロほど離れた、商業ビルの屋上。一人の老婆がライフルのサイトを覗き込んでいた。
「ふう……何とか、仕留めたかねぇ」
照準を合わせるためのサイトから目を離した楢崎フキは、小さく息を吐いた。
「やっぱり、年だねぇ。ターゲットはぼやけるわ、指は震えるわ……」
楢崎フキ、七十歳。かつて『狂蜂』と呼ばれた、伝説の殺し屋。
「まあ、目的は果たしたからいいさね」
フキが腰をさすりながら立ち上がる。先ほどまでターゲットがいた公園のほうを見やり、スッと目を細めた。
「……女を食いもんにするような生き方してると、ろくな死に方しないってことだわさ」
冷たく吐き捨てると、フキは狙撃に使ったライフルを手早く分解し始めた。
これで、あの子にも笑顔が戻るといいんだけどねぇ。
かすかに霧がかかった頭の中で、フキは数日前のことを思い返した。
──やはり、何度経験してもなかなか慣れない。というより、恥ずかしい。
「み、未来ちゃん。あたしゃ、自分一人で入れるから、大丈夫さね」
「だーめーでーすー。もし、フキさんが浴室の中で転倒したり、浴槽で溺れちゃったりしたらどうするんですかっ」
「あ、あたしゃまだ、そこまで耄碌しちゃいないさね」
「でもダメですっ。さ、早く脱いで脱いで。お手伝いしましょうか?」
グループホーム『孤狼の里』の介護職員、綿貫未来が口元をにんまりとさせる。
「わ、分かったさね。自分で脱ぐっちゃ……」
フキは渋々ながら服を脱ぐと、脱衣所の洗濯籠へバサっと放り投げた。
洗い場で体を洗い、湯船に浸かる。他人に見られながらの入浴は恥ずかしいが、やはり手足を伸ばして湯船に浸かるのは気持ちがいい。
それにしても──
「あんたも大変だねぇ、未来ちゃん。夜勤明けだってのに」
「仕方ないですよ。遅番の香ちゃんがちょっと遅れるみたいなんで」
「あの子、この前も遅刻してなかったかい?」
「ですね。さすがに、そろそろ施設長から注意されちゃうかも」
狭間香は二十四歳の介護職員。茶色の髪にやや濃いメイクと見た目はやんちゃそうだが、実際にはまじめで優しい女の子だ。
「何か、理由があるのかねぇ……」
「さあ、どうでしょう? あ、フキさん、そろそろ出ましょうか」
髪を乾かし、服を着てリビングへ戻ると、テレビを観ていた花咲サトが声をかけてきた。
「お。フキさん、めっちゃさっぱりしたやん。うちも風呂入りたいわ〜」
「あんたは昨日入ったばかりだろ。毎日風呂とか贅沢さね」
サトが梅干しを食べたときのように口をすぼめる。
花咲サト、七十二歳。あらゆる毒物の扱いに長け、毒殺姫の異名をとった元殺し屋。
「いや、風呂くらい毎日入りた──」
「すみません! 遅れました!」
リビングに飛び込んでくるやいなや頭を下げる若い女性。狭間香だ。
「あ、香ちゃんおはよう。てか、大丈夫?」
「だ、大丈夫です。すみません、未来さん。私のせいで残業させてしまって……」
「まあ、別にいいけど。でも、気をつけないと、そろそろヤバいよ?」
「はい……」
香が目を伏せる。キッチンで昼食の準備をしていた早番の伊藤沙耶が、かすかに非難めいた視線を向けた。
「香ちゃん。何か事情があるのかもしれないけど、あなたが遅刻することで、スタッフだけじゃなく利用者さんにも迷惑がかかってるんだからね?」
「は、はい……すみません……!」
伊藤に深々と頭を下げた香は、すぐさま申し送りのノートを手に取り視線を這わせ始めた。
椅子に座ったまま、フキは心配そうに香を見つめた。そのとき。
「濃い、ファンデーション……血色をよく見せるための、明るい色合いのリップ……」
フキの向かいに座る老婆が、ぼそっと口を開いた。部屋の中だというのにツバの広い帽子を被り、ドレスのような服を纏う女。
「あん? 何か言ったかい、静江さん」
女の名は赤城静江。自分の過去をいっさい話さない、謎の女。
噂では、国の暗部機関に所属していた経緯があり、海外諜報活動に従事していたとか。
「多分……目の下にクマ……極度の寝不足……顔色の悪さを隠すため……わざと、メイク、濃くしてる……」
「……もっとサクサク話せないもんかねぇ。で、そんなこと、分かんのかい?」
フキは前屈みになって静江に顔を寄せると、小声で囁いた。
「分かる……」
「極度の寝不足、ねぇ……ん?」
横から軽く肘で突っつかれ、フキが顔を向ける。
「何だい、六郎さん?」
隣に座る男、新居六郎。元公安の協力者にして情報屋。ただの情報屋ではなく、潜入から暗殺までこなす裏社会の元便利屋。
「……あの子、最近笑わなくなったと思わねぇか?」
「そういや……そうさねぇ。何か、問題でも抱えてるのかもしれないねぇ」
真剣な顔で夕食の献立と服薬チェックをしている香をちらりと見やる。メイクはバッチリと決まってるが、その横顔には疲れが滲んでいるように見えた。
──翌日。
遅刻こそしなかった香だが、その顔を見て誰もが息を呑んだ。
「ど、どうしたんだいっ!? 香ちゃん!?」
浅黒く腫れあがった右目周りと口元。誰の目にも、暴行を受けたのは明らかだった。
「な、何でもないんです……ちょっと、その……転んじゃって……」
「い、いやいや……どう見ても、転んでできるような傷じゃあないさね……」
「だ、大丈夫ですから。えっと、今日の入浴は六郎さんからですねっ。私、お風呂の温度確認してきますっ」
香がそそくさとリビングを出て行く。
「ち、ちょっと、香ちゃ──」
「フキさん」
立ち上がろうとしたフキの手を、六郎が掴む。
「何すんだい、六郎さん」
「ここは、俺に任せてくんねぇか」
フキの目を真っ直ぐ見ながら六郎が言う。
「はぁ……まあ、いいさね」
──その日の夜。
「じゃあ、皆さん。お疲れ様でした。また明日もよろしくお願いします」
時刻は十九時。遅番は帰る時間だ。夜勤担当の未来は、鼻歌まじりに洗い物をしている。
香が玄関を出たのを確認したフキたちは、テーブルを囲んで顔を突き合わせた。
「六郎さん、どうだったさね?」
「……あの子、悪い男からカモにされてるな」
「男?」
フキとサトが眉を顰める。
「その……男に……殴られた……?」
静江へ向き直った六郎が、静かに頷く。
「いったい……どんな男なんさね」
「入浴中にさりげなく聞き取った情報をもとに、調べさせたんだが……まあ、ろくでなしだ」
六郎は懐から一枚の紙を取り出すと、フキたちの前に広げた。
「あ、もしかして。夕方六郎さんを訪ねてきてた男って……」
「ああ。今でも繋がりのある同業……情報屋だ」
「なるほどねぇ」
フキたちが紙に目を落とす。
「ん……黒川亮介、元ホスト崩れ。数名の女に金品を貢がせて生活してる、と……。要するに、ジゴロかい」
「フキさん、今はヒモとか言うんちゃうの?」
「んなもん、どっちでもいいさね」
六郎が顔を顰めたまま紙を指さす。
「こいつ、かなりの悪だぞ。香ちゃん、何度も別れてほしいってお願いしたそうだが、そのたびに暴力振るわれてたらしい」
「……なるほどね。あの子のメイクが普段から濃かったのは、殴られた跡とかを隠す意味もあったのかもしれないねぇ」
「ああ。しかも、それだけじゃない」
「まだ、何かあるんさね?」
「香ちゃん、無理やり風俗で働かされてるみたいだ。金が少ねぇって。介護は……給料安いしな……」
フキをはじめ、全員の瞳がギラリと鈍い光を帯びる。
「だから……最近、遅刻が増えてたんだねぇ……」
「クソッタレ……ほんま下衆野郎やな……!」
サトが苛立たしげに吐き捨てる。
「フキさん。どうする?」
六郎がフキの顔を正面から見る。
「許せない、ねぇ」
「だよな……」
椅子の背もたれに体をあずけたフキは、一瞬だけ目を閉じた。そして、再び開く。
「この件、あたしがやっていいかい?」
その言葉に反対する者は、誰もいなかった。
──生温かい風が頬を優しく撫でていく。どこか懐かしさを感じながら、フキはライフルのサイトを覗き込んだ。
噴水前のベンチ。ターゲットの男は下品な笑みを浮かべながら電話を続けている。
「ん……見にくいねぇ」
加齢による視力の低下。ぼやけるターゲットの姿。スナイパーにとって致命的だ。
「まあ……撃ち返される心配がないのは、救いだけどねぇ」
そう、仮に一撃目を外したとしても、カウンタースナイプされる心配はない。
昔、中東では何度かカウンタースナイプで死にかけた。だからこそ、スナイパーは一発でターゲットを仕留めなくてはならない。
トリガーにそっと指をかける。かすかに震える、指。
緊張しているわけでも、怖いわけでもない。これは、ただの老い。自分の意思や感情とは無関係に、体のあちこちが震える。
「長丁場は、無理だねぇ。時間もないし……」
トリガーにかかる指先に、わずかな力を加える。何度か瞬きを繰り返した。一瞬、クリアになる視界。
「あんたに直接的な恨みはないけど……因果応報ってやつさね」
刹那、風が止んだ。タイミングを見逃さず、フキがトリガーを引く。
パンッ、と乾いた音が響いた。サイト越しに男が仰向けに倒れる様子が視界に映る。
「……女を食いもんにするような生き方してると、ろくな死に方しないってことだわさ」
フキは素早い手つきでライフルを分解すると、ギターケースの中へ仕舞った。なお、ケースは二重底になっており、本物のギターも入っている。
「はぁ。この重さも堪えるねぇ」
と、そのとき──
「あー! いた! もう、フキさん! いきなりいなくなったら、びっくりするじゃないですかっ!」
屋上の扉を開けてやってきたのは、孤狼の里の介護職員、綿貫未来。
「ありゃ、未来ちゃん。悪いねぇ、うっかり降りる階を間違えちゃって」
「んもう……フキさんがギターの練習したいって言うから、スタジオが入ってるこのビルに来たんですからね」
「はいはい。ごめんなさいね」
「フキさんに何かあったら、私が施設長に怒られちゃうじゃないですかっ」
「心配してるのはそこかい。あんたもしっかりしてるねぇ」
「や、もちろんフキさんのことが心配ってのは大前提ですよっ」
「はいはい。あー……ここから景色眺めてたら、もうギターを弾く気もなくなっちゃったさね。未来ちゃん、今日はもう帰ろうかねぇ」
「ええーっ!? せっかくここまで来たのに!?」
「すまないねぇ。いい景色も観られたしねぇ」
「んもう〜……てか、そんなにいい景色ですかぁ?」
フキの隣に立った未来が、眼下に広がる景色へぐるりと視線を這わせる。
「普通の、都内の街並みのような。夜景なら素敵だろうけど」
「ふふ。そりゃもう、最高の景色だったさね」
意味ありげに微笑んだフキは、「よっこいしょ」とギターケースを背中に担いだ。
「さあ、帰ろう未来ちゃん」
「はーい」
背中のギターケースを軽く揺らしながら、フキは未来に付き添われ、ゆっくりと屋上をあとにした。
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