第18話 魔書を取りに
塔の煙が、背後でまだ細く登っていた。
朝の山道は、霜が薄く岩の縁に残っていた。フィンは先を歩き、ミアは半歩後ろを歩いた。ケーディスから受け取った皮の地図は、フィンの胸の内側、上着の合わせの奥にたたんで仕舞ってある。
尾根をひとつ越えた。
下り道に入ると、植生が少し変わった。痩せた木がまた生えそろってきた。岩肌の白さが土の色に押されて後退していく。
昼をわずかに過ぎた頃、二つ目の尾根の手前でミアが足を止めた。
「フィン……」
ミアがフィンの腕を軽く掴んだ。
「あれ」
フィンはミアの指の先を目で追った。
谷の向こう、遠く低い場所に町が見えた。山の裾野に抱かれるように、屋根がいくつも寄り集まっている。屋根の色は灰色と土色と、わずかに赤い瓦の混じる程度の地味な町だった。
町の北側、町と岩肌の境のあたりに、何かが群れていた。
距離があり、ひと目で形までは分からなかった。だが、群れているということだけははっきり分かった。
「マリウス」
フィンが低く言った。
『……うむ』
マリウスの声も低かった。
『岩鱗リザードの群れだろう』
二人はもう少し谷の方へ足を進めた。木立の間を縫って、町がもう少し近く見える位置まで降りた。フィンは岩の陰に身を低くし、ミアにも同じようにさせた。
そこから見えた光景ははっきりしていた。
町の北の外柵の前で、男たちが慌ただしく動いていた。
外柵は丸太を組んだだけの簡素なものだった。その手前に、自警団らしい男たちが新しい丸太を運び込んでいた。柵の隙間に太い丸太を横に渡して補強しているらしかった。剣や槍を持った男たちも何人か柵の前に出ていた。だが構えてはおらず、群れの方をただ睨んでいるだけだった。
柵から北へしばらく離れた、岩肌の手前。
そこに岩鱗リザードがいた。
群れだった。
ミアが息を止めた。
低い四つ足の、岩のような色の獣が数十体、岩肌の手前でゆっくりたむろしていた。
体の長さは人の腰ほど。背中から尾の先まで、岩の鱗がぎっしりと覆っていた。鱗は互いに重なり合い、関節の隙間にだけ薄い生身の筋が見えた。一頭が首をゆっくり巡らせると、鱗どうしが擦れて低く乾いた音が立った。
群れの動きは自然なものではなかった。獣は互いを牽制せず、整列を崩さず、町の方をただ見ていた。
群れはまだ攻めてはいなかった。
柵までの距離は、走ればほどなくの間合いだった。だが群れはそこで足を止めていた。何かを待っているような、あるいは計っているような止まり方だった。
柵の前の自警団の一人が、丸太を抱えたまま群れの方を見やった。それからまた丸太を柵に当て、別の男と声を交わして縛り始めた。
「……まだ来てない」
ミアが小さく漏らした。
フィンは肯いた。来てはいない。だが群れの構えは、ただ町を見ている。
「マリウス、あの柵では……」
『一斉に体当たりされれば長くは保たぬ。男たちが内側に丸太を渡しておるのは、それを少しでも遅らせるためじゃろう』
「自警団の人たちでは……」
『あの鱗は並の刃も槍も表面で滑る。普通の自警団の腕では押し返せはせぬ』
岩鱗の群れは、まだ突進してはいなかった。
ただ町の方を見ていた。
柵の内側からは、女の声と子供の声が断続的に流れてきていた。声は泣き声というよりも、何かを呼び合うような慌ただしい声だった。
フィンは息を深く吸った。
「マリウス、僕の風の刃で——」
『よせ、フィン』
マリウスが即座に遮った。
低い、しかしはっきりした声だった。
『お前の風の刃では一匹しとめるのがせいぜいだ。数十体おる。仮に一頭倒したとて、残りはお前らに気付いてこちらへ向く。お前の風の刃で数十体は止められぬ』
「でも」
フィンは口を結んだ。
マリウスの言葉は頭では分かった。今の自分の風の刃ではあの数は倒せない。その上でこちらが姿を晒せば、群れに動くきっかけを与えてしまうこと。
それは町を助けることにはならない。
ミアがフィンの上着の裾を握っていた。指がわずかに震えていた。
「フィン」
ミアの声が小さかった。
「……マリウスの言う通りだと思う」
『岩鱗を群れごと押し返す方法はある』
マリウスが続けた。声はまだ低かった。
『大規模な火か雷だ。鱗の上を面で焼くか、関節の隙間に雷の針を一斉に刺し込む。それなら数十体をまとめて止められる』
「マリウスは、それができるんですか」
『私の本領はそれだ。ただ、大規模魔術になるゆえ、魔書がなければ、魔術が組めても途中で形が散る』
『……魔書を先に取る』
マリウスが、フィンの考えに答えるように言った。
『庵はここから北へ迂回すれば近い。地図のその迂回路を辿る。庵に行き、魔書を取り、戻ってくる。それがいま町を本当に助ける唯一の道だ』
「間に合いますか」
『群れはまだ攻めかかってはおらん。あの止まり方なら、今日のうちは動かぬ可能性が高い。だが明日には分からぬ。柵ではいざ攻められれば長くは保たぬ。我々が急げば、間に合う見込みはある』
フィンは息を吐いた。
それからミアの方を見た。ミアもフィンを見ていた。
「行こう」
フィンが低く言った。
ミアは肯いた。
二人は岩の陰から身を引いた。
町の方はもう見ない。
——
谷を北へ外れた。
地図の迂回路は、道としてはほとんど無いに等しかった。獣道のさらに薄いものを繋いでいるような道だった。木の根が地表を這い、足を何度も引っ掛けた。フィンはミアの前に出て、枝を手で払った。ミアはその後ろで、息を整えながらついてきた。
昼を過ぎた。
『この先、岩場に出る』
マリウスが、地図の墨の点をフィンの記憶に重ねるように言った。
『岩場の向こう側に、急な登りがある。そこを上りきれば、山頂の手前の平らな場所だ。庵は、その平らな場所に立っておる』
フィンは肯いた。
岩場はすぐに現れた。広いものではなく、谷の片側の一面が白っぽい岩で剥き出しになっている、というだけだった。だが足元が不安定だった。靴の底が何度も滑った。
フィンはミアの手を自然に取った。ミアの指が、フィンの手の中でわずかに強く握り返した。
「ありがとう」
小さな声だった。
岩場を抜けた。
急な登りが始まった。木は再び痩せ、岩肌が目立ち始めた。風が強くなった。先ほどまで肩のあたりにあった風が、頭の上を抜けていくようになった。
ミアの息が上がっていた。フィンも足が重くなり始めていた。
『あと少しじゃ』
「はい」
——
登りがゆるんだ。
木がぱっと開けた。
平らな小さな台地に出た。
台地の中央に、それは立っていた。
小さな石造りの庵だった。塔ではなく、屋根の低い平らな建物だった。石は灰色がかった白で、長い年月を経た苔の色が所々滲んでいた。庵の周囲には、朽ちかけた円い石組みがいくつかあった。台座のようなもの。古い観測の遺構らしかった。
庵の正面に石の扉があった。
扉には装飾はほとんど無かった。中央に円い窪みが一つ彫られていた。窪みの周りに、薄い線が放射状に刻まれていた。線は磨り減って、ほとんど見えなかった。
『ここだ』
マリウスが低く言った。
『私の庵だ』
庵の周りには誰もいなかった。風が石の扉の前を渡っていった。
「マリウス、ここはどうやって開けるんですか」
『扉の中央の窪みに、お前の胸の刻印を当てればよい』
『胸を扉に押し当てるのではない。お前の上着の合わせを軽く開けて、刻印が窪みに向かい合うようにすればよい。刻印の魔力が窪みを通る。それで開く』
「それだけですか」
『それだけだ。詠唱も要らぬ』
フィンは扉の前に進んだ。
ミアが半歩後ろで立ち止まった。
フィンは上着の合わせを軽く緩めた。胸の、薄い影のような七つの円が外気に触れた。一点目だけが淡く灯っていた。
扉の中央の窪みに胸を近づけた。
その瞬間、窪みの周りの放射状の線が、薄く青みを帯びた光を走らせた。
線は互いに繋がり、円の縁を一周した。
低く石が軋む音が、扉の奥から聞こえた。閂の代わりに、石そのものが内側でずれていく音だった。
扉がゆっくり内側に開いた。
『……開いたな』
マリウスが低く言った。
——
中は薄暗かった。
外の光が、扉の口から斜めに差し込んでいた。光の筋の中に、細かい埃がゆっくり浮かんでいた。床は石の板で、ところどころ白っぽく磨り減っていた。壁の一面に書棚が組まれていた。書棚は空だった。
中央に石の机が一つあった。机の上には何も置かれていなかった。
庵の奥の壁に、低い扉がもう一つあった。
『地下がある』
マリウスが、奥の扉を指すように言った。
『魔書は地下の祭壇にある』
「祭壇」
『祭壇と言うてはおるが、本来は魔書を置く場所だ。私の個別の継承碑石でもある。お前はもう私を継いでおる。だからここで改めて継ぐわけではない。祭壇は、魔書をお前と繋ぐ場として機能する』
フィンは肯いた。
ミアがフィンの隣に来た。
奥の扉も閂は無かった。フィンが軽く押すと、内側に開いた。
扉の向こうに石の階段が、下へ続いていた。
——
階段は思ったよりも短かった。
十段かそれより少し多いほどで、地下の円い部屋に出た。部屋の天井は低かった。フィンが軽く屈まねば、頭がつかえそうな高さだった。
部屋の中央に石の祭壇があった。
祭壇は円い低いものだった。直径はフィンの身の丈ほど。表面は磨かれた黒っぽい石だった。表面に、細かい文字のような刻みが放射状に走っていた。文字はフィンには読めなかった。
祭壇の中央に、魔書が一冊置かれていた。
革の表紙の厚い魔書だった。表紙は深い青みがかった黒で、年月を経て色がわずかに褪せていた。表紙の中央に、銀色の星が一つ刻まれていた。星の刻みも磨り減って、ほとんど平らになっていた。
ただの古書のように見える。それでいて、近づくほど重い魔力の気配があった。
『あった』
マリウスが低く言った。
『儀式の朝、わしは、もう使わないであろうこの魔書、相応しき後継者が現れた際に託すためここに封じた』
『いくつか仕掛けもしておいたがの、さて、取れ、フィン』
マリウスが続けた。
『お前が手で取ればよい。難しい手順は要らぬ、おぬしなら魔書に認められるはずだ』
フィンは祭壇の前に進み、魔書の上に手を伸ばした。
指が革の表紙に触れた。
その瞬間、祭壇の放射状の文字が、薄く淡い橙の光を放った。
光はフィンの周りを、確認するかの様に何度も回った。
それからゆっくり、フィンの魔書に触れている指の方へ集まってきた。
光は、フィンの指の腹に触れたところで止まった。
熱くはなく、わずかに温かい程度だった。
『ふむ無事に認められたようじゃの、お前の魔力と魔書が繋がった』
『これでお前は、持つ力を十分に引き出すことができるようになる』
『大規模な魔術も組めるようになるぞ』
フィンは魔書を両手でゆっくり持ち上げた。
重さは見た目よりも軽かった。
フィンは魔書を腰に括りつけた。
——
地下から上がった。
庵の中を抜けた。
石の扉は、二人が外に出ると、ゆっくり内側へ閉じた。窪みの周りの放射状の線の光が消えた。閉まる時の音は、開く時よりも短かった。
外はまだ明るかった。風は強いままだ。
「町はまだ無事かな?」
『急ぎ戻るぞ』
ミアも肯いた。
二人は台地を抜け、登ってきた道を下り始めた。
『フィン、戻りながら大規模魔術の組み方を伝えておく』
『風と雷の複合魔術を覚えてもらう。風と雷の複合だ。風刃の十倍ほどの魔力を練り上げ、刃を大量に発生させて竜巻のように回す。その渦の中に雷を這わせる。組み立ては私が教える。お前は私の言う通りに魔力を流せばよい』
「はい」
『ミア、今回、町に被害を出さぬために術者中心に技を発動する。従来術発動時の魔力結界で術者に影響は出ないが、大規模魔術を術者中心とするため、術者を守る結界が必要となる。お前はフィンの背の後ろについて結界を張れ。これはお前にしかできぬ仕事だ』
「はい」
ミアの声は、走りながらもまっすぐだった。
——
岩場まで戻った。
来た時、登りで滑った場所を、今度は降りていった。フィンはミアの手をまた取った。ミアの指は、もう震えてはいなかった。
岩場を抜け、獣道の薄い筋に入った。
風が変わった。
南から、湿った生臭い気配が流れてきた。
フィンは足を止めた。
ミアも止まった。
谷の向こうの方から、低く何かが軋む音が、断続的に聞こえていた。鱗が互いに擦れる音だった。先ほどよりも、その音ははっきりしていた。音は止まらず続いていた。群れが歩き出している。
それからその音に遅れて、人の声が混じった。何人かが互いに号令を掛け合っているような、張り詰めた声だった。
『……動き出したか』
マリウスが低く言った。
『群れが柵の方へ寄り始めておる。攻めかかるのは、これからだ』
「マリウス」
フィンの声が低くなった。
『急ぐぞ、フィン』
フィンは走り出した。
ミアも続いた。
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