第9話 それぞれの冬と春
雪解けが始まっていた。
屋根の雫の音が日に日に大きくなり、道端の雪の下から泥まじりの石畳が顔を出し始めた。
その日の午後、使用人が知らせを持ってきた。
「街道の通行が回復しました。王都方面からの定期便が到着しています」
手紙が二通、届いていた。
*
一通目。
見覚えのない筆跡。けれど封蝋はグランヴェール家の紋章。
──アリア。
震える字だった。不安定に揺れる、細い字。
『お姉様。わたしが何をしたか、もう知っていると思います。会って話がしたいの。お願い』
便箋一枚に、それだけ。
二通目は父から。
『近日中にブランシュ辺境伯領を訪問する。アリアを連れていく。直接話すべきことがある』
アリアと、向き合わなければならない。
ずっと避けてきた。
嘘がばれたと知った日、わたしは「アリア自身が向き合うべきだ」と書いた。
それは正しいと今も思う。
でも──わたし自身がアリアと向き合うことからは、逃げていた。
*
馬車が正門に到着した。
父が先に降りた。旅装の父は、少しくたびれて見えた。
けれどその目は周囲を見回していた。
市場を歩く領民たち。工房から上がる煙。荷を運ぶ職人。
「ノエラ様、おはようございます」と声をかけてくれる人がいた。
父の目が見開かれた。
「……ノエラ。お前は、ここで」
言葉が途切れた。何かを飲み込んだように見えた。
続いて、馬車からもう一人。
アリアはなかなか出てこなかった。
ようやく降りてきた妹は──変わっていた。
蜂蜜色の巻き毛は乱れ、頬はこけ、目の下に隈がある。
けれど、これは演技ではなさそうだった。
あの頃の「病弱」のアリアとは目の色が違う。
演技のときは、どこか計算された弱さがあった。
今のアリアの目には、それがない。
ただ──疲れ切っている。
*
客室で二人きりになった。
アリアは椅子に座り、膝の上で手を握りしめていた。
沈黙。
「……六歳の時、本当に死にかけたの」
知っている。あの高熱は本物だった。
「治った後、みんなが──お父様も、使用人も、お姉様も──わたしのことを心配してくれて。手を握ってくれて。お姉ちゃんがいるから大丈夫だよって──」
ああ。言った。わたしが言った。
「治ったら──もうあの温かさがなくなるのが怖かった」
涙がアリアの頬を伝った。
「だから体が弱いふりをしたの。最初は少しだけ。そうするとみんなが優しくしてくれた」
アリアの手が震えている。
「お姉様のものを奪いたかったんじゃないの。ただ──誰かに心配されていたかったの。でも気づいたら、止められなくなっていた」
六歳の子供が始めた小さな嘘が、十五年かけて膨れ上がった。
誕生日を奪い、舞踏会を奪い、婚約者を奪い、姉の人生を削り取るまでに。
アリアが泣き崩れた。
アリアの恐怖は──理解できる。
六歳の子供が死の淵から戻って、愛情を失うことを恐れた。
その気持ちは、わかる。
けれど。
「アリア」
姉の声になっていた。
「あなたの気持ちは、わかるよ」
アリアが顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「でも、わたしの三年間は返ってこない」
声が揺れた。けれど止めない。
「わたしの誕生日も。舞踏会も。婚約者も。あなたが怖かったからと言って、それが消えるわけじゃない」
一呼吸置いた。
「だけど──わたしはもう、あなたを恨むことに時間を使いたくない。わたしにはやることがあるの」
「だからアリア。あなたも、これからは嘘じゃない自分で生きて」
アリアの目がわたしを見た。
「それが──わたしへの唯一の償いだと思う」
赦しではない。断罪でもない。
「嘘のない人生を歩け」──それだけが、姉としてわたしが言える最後の言葉だった。
*
父と二人きりで向かい合った。
父は辺境で目にしたものを語り、そして深く頭を下げた。
「お前に甘えていた。帳簿も、アリアの世話も、全てお前に背負わせて──私は目を逸らしていた」
「お父様。顔を上げてください」
父の目が赤い。書斎で謝られたあの日と同じ。
「わたしはもう大丈夫です」
言って、気づいた。
「大丈夫です」。わたしの口癖。
三年間、本心ではないのに言い続けた言葉。
──でも、今は。
「本当に、大丈夫です」
初めて、本心から言えた。
*
父とアリアが王都へ帰る朝。
アリアが馬車に乗り込む前に、わたしの方を向いた。
目は腫れている。けれど三日前よりも少しだけ、まっすぐな目をしていた。
「お姉様。わたし……嘘じゃない自分で、やり直す」
小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
この先のアリアの行動が、すべてを語るだろう。
馬車が走り出した。丘の向こうに消えていった。
*
春の市が迫っていた。
ルシアン様に、ようやく言えた。
「ご心配をおかけしました」
帳簿から目を上げたルシアン様が答えた。
「お前は一度も仕事の手を止めなかった。心配はしていない」
ひと呼吸おいて。
「……嘘だ。少し心配した」
思わず笑ってしまった。
ルシアン様の口角が、ほんの僅かに上がった。
あの微かな笑みの欠片。
今度ははっきりとわかった。
──この人は、笑っている。
*
春の市の前日。
領都の広場に露店が設営された。
白い陶器が並ぶ棚。「雪の器」と名付けた札。
白粉を入れた小さな木箱。マルグリットが考えた包装。
老職人が何度も並べ直している。「もう少し右だ」「傾いてる」と。
わたしが考え、職人たちが作り、マルグリットが売る。
ルシアン様が守り、領民たちが支えた。
誰か一人が欠けても、この棚は立たなかった。
夜。手帳を開いて、母の押し花の栞を取り出した。
色はすっかり褪せていた。けれど形はそのまま。
──お母様。わたし、ちゃんと立ってるよ。
明日のために、早く眠ろう。
灯りを落として布団に入る。
窓の外から微かに水の流れる音が聞こえた。
雪解けの水。
冬が終わる音だった。




