第10話 約束を、今度はわたしから
春の市の朝。
目を覚ますと、窓の外が明るかった。
雪はほとんど溶けている。
屋根の端に残った最後の白が、朝日にきらきらと光っていた。
着替えて館を出ると、もう広場に人が集まり始めていた。
辺境伯領の領民だけではない。周辺の領地から来た商人の馬車が何台も停まっている。
王都からの仲買人の姿もあった。
雪解け後、最初の大きな市。
冬の間ずっと、この日のために準備をしてきた。
「落ち着きなよ。商品は逃げないから」
マルグリットが笑っていた。
「……落ち着いてます」
「嘘おっしゃい。朝からもう三回も棚の位置を直してるじゃないか」
棚には白い陶器が並んでいた。「雪の器」と名付けた札。
隣には白粉を収めた小さな木箱。
老職人が何度目かわからない回数、並べ直している。
「もう少し手前だ。光の当たり方が変わる」
最初は「よそ者の令嬢に何がわかる」と言っていた老人が、今は誰よりも真剣な顔で器を並べている。
広場の隅にルシアン様が立っていた。
いつもの場所。いつもの無表情。腕を組んで市場を見ている。
けれどその目は、領民たちの顔を一人ずつ追っている。
わたしには、もうわかる。
*
市が始まった。
最初に足を止めたのは、隣の領地から来た商人だった。
白い陶器を手に取り、光にかざし、目を丸くした。
「これは──南方産の高級素地と遜色ない。いや、この白さは独特だ。雪のような──」
噂は早かった。
王都の陶器商が駆け寄り、品質を確かめ、大口の取引を申し込んだ。
マルグリットが「まあまあ、慌てなさんな」としたたかに交渉を始める。
昼を過ぎる頃には、陶器の半分以上が売れた。
白粉は予約が殺到し、次回の納品時期を聞かれるほどだった。
領民たちの顔が明るい。
わたしがここに来た日の、あの暗い表情とは別人のようだった。
老職人がわたしの元に来た。
腕を組んだまま、ぶっきらぼうに。
「……あんたが来てくれてよかった」
言って、すぐに背を向けた。
照れているのが、背中でわかった。
目が潤んだ。こらえなかった。
*
午後。
市の喧騒を離れ、一人で丘に登った。
何度も来た場所。
けれど景色が違った。
雪の下から緑が顔を出し始めている。茶色い土の上に、小さな草の芽が点々と萌えている。
半年前の荒廃した風景はもうない。
代わりに──芽吹きの気配が、そこかしこにあった。
眼下の領都では市の賑わいが続いている。
笑い声が風に乗って、丘まで届く。
ここまで来た。
春の市は成功した。辺境の経済再建の第一歩を踏み出せた。
ここから先、わたしがいなくても回る仕組みを作ることはできる。
つまり──「帰ろうと思えば帰れる」。
アリアの嘘が明らかになった今、わたしの名誉は回復されている。
父は迎え入れてくれるだろう。社交界にも復帰できる。
帰れる。
──帰りたいか?
答えは、一瞬で出た。
帰りたくない。
ここにいたい。この土地で。この人たちと。
そして──ルシアン様の隣にいたい。
義務ではない。使命でもない。
初めて、「わたしがそうしたいから」という理由で選ぶ場所。
三年間、わたしの望みはいつも後回しにされた。
他でもない、わたし自身の手で。
もう、後回しにしない。
*
夕刻。
春の市の片付けが終わり、穏やかな夕暮れが訪れていた。
西の空が茜色に染まっている。
ルシアン様を見つけた。広場の片隅で使用人と話している。
話が終わるのを待って、声をかけた。
「ルシアン様。少し、お時間をいただけますか」
灰青の瞳が夕陽の光を受けている。
「……ああ」
二人で丘に向かった。
雪解けの水が細い流れになって、丘の斜面を下っている。
丘の上に立つと、夕陽が辺境の大地を金色に染めていた。
深呼吸をした。
冷たくて、清潔な空気。わたしが半年間、吸い続けた空気。
「ルシアン様。今日、春の市が成功しました」
「ああ」
「これでこの領地は──わたしがいなくても、少しずつ豊かになっていける道筋ができました」
ルシアン様の表情がわずかに変わった。
いつもの無表情の中に、何かが強張った。
「……帰るのか」
首を横に振った。
「いいえ」
「ここにいたいんです。この領地のためではなく──いえ、それもありますけれど、それだけではなくて」
言葉が詰まった。
三年間、自分の望みを口にする練習をしてこなかった。
いつも「大丈夫です」と飲み込んできた。
──でも。
嘘のない言葉で。自分から約束をするのだ。
「わたしは──あなたの隣にいたいんです」
声が震えた。
「約束を守る人の隣で、わたしも約束を守って生きていきたい」
夕陽がルシアン様の横顔を照らしている。銀灰色の髪が金色に光っている。
「だからルシアン様。わたしからお約束します」
まっすぐに、その灰青の瞳を見た。
「わたしは、ここにいます」
長い沈黙。
風が吹いた。春の風。
ルシアン様が口を開いた。
声が──わずかに、震えていた。
「……俺は、言葉が足りない人間だ」
知っている。
「気の利いたことは言えない」
知っている。
「だが──」
わたしに向き直った。
灰青の瞳が夕陽を受けて金色に光っていた。
五年間の孤独が、その目の奥に沈んでいた。
そして、その隙間から──新しい光が覗いていた。
「お前がここにいると言うなら──俺は、その約束を、命に代えても守る」
涙がこぼれた。
悲しみの涙ではない。怒りの涙でもない。
ただ、嬉しい。
ルシアン様の手がわたしの頬に伸びた。
涙を拭おうとして──その手が震えている。
この人はこういうことに慣れていないのだ。
その手をそっと取った。
大きくて、硬くて、節くれだった手。
五年間、一人で石垣を積み続けた手。
わたしの頬に、その手を当てた。
「ありがとうございます、ルシアン様」
ルシアン様が、小さく──けれどはっきりと言った。
「……ルシアンでいい」
涙を流しながら、笑った。
「ルシアン」
初めて呼ぶ、その名前。
敬称のない、裸の名前。
それはきっと、この人からの一番大きな贈り物だった。
*
丘の上で、二人並んで辺境を見下ろした。
夕陽が大地を金色に染め、工房の煙突から最後の煙が立ち昇っている。
家々の窓に灯りが点り始めている。
かつて荒廃していた土地に、春の緑が芽吹いている。
まだ小さな芽。けれど、確かに生きている芽。
*
夜。自室に戻った。
手帳を開く。母の押し花の栞が挟まっている。
色はすっかり褪せて、花弁は薄くなっている。
けれど──形はそのまま残っている。
「お母様。わたしの人生が、やっと始まりました」
手帳の最後のページを開いた。
『今日、わたしは初めて、自分から約束をした。ここにいると。この人の隣にいると。三年間、約束は一度も守られなかった。けれど今日から──約束を守る人生を、わたし自身が始める』
窓を開けた。
辺境の澄んだ空気の中で、星が一面に瞬いている。
王都では見えない数の星だ。
左手を見た。
薬指の白い線は──もう消えていた。
半年分の日差しと、辺境の風と、仕事で使い込んだ時間が、あの跡を消してくれていた。
新しい季節が始まる。
嘘のない。
約束で結ばれた。
わたしの人生が。




