第8話 約束の値段
街道が完全に閉ざされた。
春の雪解けまで、大きな馬車の通行は難しい。
辺境が、王都から切り離された。
父への手紙も、王都からの便りも届かなくなる。
春までこの土地で──この人たちとだけ、過ごすことになる。
不安はあまりなかった。
むしろ静かだった。
嵐の前の静けさではなく、嵐が去った後のそれに似ている。
やるべきことは決まっている。
春の市に向けて、陶器と白粉を作り続ける。それだけだ。
*
量産体制が整いつつあった。
老職人が若い職人たちに焼き方を教え始めている。
マルグリットは梱包材の確保と値付けの試算に取りかかっていた。
ルシアン様との打ち合わせは、ほぼ毎日になっていた。
朝は工房の進捗確認。昼は帳簿の照合。夕方は翌日の計画。
仕事の話しかしない。
けれど、距離が変わっている。
ルシアン様がわたしの隣に座る位置が、少しだけ近くなった。
気のせいかもしれない。でも──椅子一つ分の距離が、半分になっている気がする。
「今日は早く休め」
帳簿を広げていたわたしに、ルシアン様が言った。
命令のような口調。でもその声に棘はない。
目がわたしの顔を見ている。
──正確に言えば、わたしの目の下の隈を見ている。
「……はい。もう少しだけ」
「飯は食ったか」
「まだ──」
「先に食え。数字は逃げない」
反論する気にならなかった。
この人の気遣いは不器用で命令のように聞こえる。
でも、その裏にあるものが読めるようになってきた。
*
ある夜。工房で遅くまで作業していた。
白粉の粒度を揃える工程に時間がかかり、気づけば日が暮れていた。
館に戻ると、暖炉の前にルシアン様がいた。
わたしに気づくと、顔を上げた。
「遅い」
一言。
暖炉の傍に置いてある小さな盆を指差した。
蓋つきの器とパンが載っている。
「マルグリットが持ってきた。冷める前に食え」
蓋を開けると湯気が立ち、肉と根菜の匂いが広がった。
「いただきます」
一口食べる。体の芯まで沁みるような温かさだった。
食べながら、何気なく尋ねていた。
「ルシアン様は──どうしてそんなに約束を大事にされるんですか」
聞いてから、はっとした。踏み込みすぎただろうか。
ルシアン様はしばらく黙っていた。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。
「……親父が死んだのは、五年前だ」
初めて聞く、ルシアン様の過去。
「流行病だった。あっという間だった。──親父は死ぬ前日に、領民を集めた」
暖炉の火を見つめたまま続けた。
「『必ずこの領地を守る』と約束した。翌日、死んだ。まだ約束を果たしていないのに」
淡々としている。
けれど、拳が膝の上できつく握られているのが見えた。
「民は、親父の約束を信じて残った。だから俺は、親父の代わりにその約束を守る」
こちらを向いた。
「約束は言葉じゃない。命の値段だ」
スプーンを持つ手が止まった。
この人にとって、約束を守ることは習慣でも美徳でもない。
亡くなった父の命そのものを受け継ぐ行為だった。
五年間。たった一人で。
生活費を削り、課税を増やさず、自分の全てを差し出して。
約束の時間に立ち、約束した期日に答えを出す──その一つ一つが、死んだ父の言葉を生かし続けることだったのだ。
「……すごい方です」
ルシアン様は眉を寄せた。
「すごくはない。約束を守っているだけだ」
その言葉が、胸の一番深いところに届いた。
*
自分の感情に名前をつけることが、怖い。
もしこれが「好意」だと認めてしまったら。
仕事上の関係が壊れるかもしれない。ここにいる理由がなくなるかもしれない。
また大切なものを失うかもしれない。
三年間で学んだのは、期待した分だけ裏切りは深いということだ。
だから名前をつけない。名前をつけなければ、失わなくて済む。
──そう思っていた。
「あんた、辺境伯の前だと顔が違うよ」
マルグリットだった。
工房の前で荷物の仕分けをしていたら、隣に来てにやにやしている。
「そんなことは──」
「目がきらきらしてるもん。帳簿見てる時と全然違う顔してるよ」
「してません」
「してるよ。あたしの目は二十年の商売で鍛えてあるんだよ。人の顔色は在庫の数より正確に読める」
冬の寒さの中で、頬が燃えるように熱い。
「嘘はもうこの辺境じゃ流行らないよ」
マルグリットが笑った。
温かくて、少し切なそうな笑い方だった。
──嘘は流行らない。
その言葉が、刺さった。
*
屋根から雫が落ちる音がした。
雪解けの兆し。まだ微かだけれど、確実に春が近づいている。
ルシアン様と並んで、春の市の計画を詰めていた。
出品する商品の一覧、値付け、配置、接客の人員配置。
同じ書類を覗き込みながら話しているうちに、自然と肩が近づいていた。
ルシアン様がページをめくろうとした手が、わたしの手に触れた。
ほんのわずかに──指先が。
弾かれたようにルシアン様が手を引いた。
わたしも顔を伏せた。
一瞬の沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
「……ここの数字を確認してくれ」
ルシアン様の声が、ほんの少しだけ硬い。
「はい」
わたしの声も、少し上ずっていた。
それだけのことで、心臓がこんなに騒ぐ。
*
夕方。一人で丘に登った。
雪が溶け始めていた。
丘の斜面に黒い土が顔を覗かせている。
白と黒がまだらになった風景。冬と春のあいだ。
わたしもそうだ。
古い痛みと、新しい感情のあいだにいる。
怖い。また大切にされて、また失うことが。
──でも。
この人の隣にいたいと思う自分を、嘘にはしたくない。
嘘の上に人生を築いたアリアを知ったからこそ。
自分の気持ちに嘘をつくことだけは、もうしない。
夜。日記を開いた。
長い間迷って、最後に一行だけ書いた。
『わたしは多分、ルシアン様のことが好きだ。これは嘘ではない』
窓を見た。
屋根の雪が溶け始めた家々から、煙が立ち昇っている。
陶器を焼く煙と、夕食の煙。
春は、もうすぐだ。




