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病弱な妹に婚約者も誕生日も全部奪われた姉ですが、三年間の嘘がバレた日に辺境で本当の人生が始まりました  作者: 月代


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第8話 約束の値段


 街道が完全に閉ざされた。

 春の雪解けまで、大きな馬車の通行は難しい。


 辺境が、王都から切り離された。


 父への手紙も、王都からの便りも届かなくなる。

 春までこの土地で──この人たちとだけ、過ごすことになる。


 不安はあまりなかった。

 むしろ静かだった。

 嵐の前の静けさではなく、嵐が去った後のそれに似ている。


 やるべきことは決まっている。

 春の市に向けて、陶器と白粉を作り続ける。それだけだ。


    *


 量産体制が整いつつあった。

 老職人が若い職人たちに焼き方を教え始めている。

 マルグリットは梱包材の確保と値付けの試算に取りかかっていた。


 ルシアン様との打ち合わせは、ほぼ毎日になっていた。

 朝は工房の進捗確認。昼は帳簿の照合。夕方は翌日の計画。


 仕事の話しかしない。

 けれど、距離が変わっている。

 ルシアン様がわたしの隣に座る位置が、少しだけ近くなった。

 気のせいかもしれない。でも──椅子一つ分の距離が、半分になっている気がする。


「今日は早く休め」


 帳簿を広げていたわたしに、ルシアン様が言った。

 命令のような口調。でもその声に棘はない。


 目がわたしの顔を見ている。

 ──正確に言えば、わたしの目の下の隈を見ている。


「……はい。もう少しだけ」


「飯は食ったか」


「まだ──」


「先に食え。数字は逃げない」


 反論する気にならなかった。

 この人の気遣いは不器用で命令のように聞こえる。

 でも、その裏にあるものが読めるようになってきた。


    *


 ある夜。工房で遅くまで作業していた。

 白粉の粒度を揃える工程に時間がかかり、気づけば日が暮れていた。


 館に戻ると、暖炉の前にルシアン様がいた。


 わたしに気づくと、顔を上げた。


「遅い」


 一言。


 暖炉の傍に置いてある小さな盆を指差した。

 蓋つきの器とパンが載っている。


「マルグリットが持ってきた。冷める前に食え」


 蓋を開けると湯気が立ち、肉と根菜の匂いが広がった。


「いただきます」


 一口食べる。体の芯まで沁みるような温かさだった。


 食べながら、何気なく尋ねていた。


「ルシアン様は──どうしてそんなに約束を大事にされるんですか」


 聞いてから、はっとした。踏み込みすぎただろうか。


 ルシアン様はしばらく黙っていた。

 暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。


「……親父が死んだのは、五年前だ」


 初めて聞く、ルシアン様の過去。


「流行病だった。あっという間だった。──親父は死ぬ前日に、領民を集めた」


 暖炉の火を見つめたまま続けた。


「『必ずこの領地を守る』と約束した。翌日、死んだ。まだ約束を果たしていないのに」


 淡々としている。

 けれど、拳が膝の上できつく握られているのが見えた。


「民は、親父の約束を信じて残った。だから俺は、親父の代わりにその約束を守る」


 こちらを向いた。


「約束は言葉じゃない。命の値段だ」


 スプーンを持つ手が止まった。


 この人にとって、約束を守ることは習慣でも美徳でもない。

 亡くなった父の命そのものを受け継ぐ行為だった。


 五年間。たった一人で。

 生活費を削り、課税を増やさず、自分の全てを差し出して。


 約束の時間に立ち、約束した期日に答えを出す──その一つ一つが、死んだ父の言葉を生かし続けることだったのだ。


「……すごい方です」


 ルシアン様は眉を寄せた。


「すごくはない。約束を守っているだけだ」


 その言葉が、胸の一番深いところに届いた。


    *


 自分の感情に名前をつけることが、怖い。


 もしこれが「好意」だと認めてしまったら。

 仕事上の関係が壊れるかもしれない。ここにいる理由がなくなるかもしれない。

 また大切なものを失うかもしれない。


 三年間で学んだのは、期待した分だけ裏切りは深いということだ。

 だから名前をつけない。名前をつけなければ、失わなくて済む。


 ──そう思っていた。


「あんた、辺境伯の前だと顔が違うよ」


 マルグリットだった。

 工房の前で荷物の仕分けをしていたら、隣に来てにやにやしている。


「そんなことは──」


「目がきらきらしてるもん。帳簿見てる時と全然違う顔してるよ」


「してません」


「してるよ。あたしの目は二十年の商売で鍛えてあるんだよ。人の顔色は在庫の数より正確に読める」


 冬の寒さの中で、頬が燃えるように熱い。


「嘘はもうこの辺境じゃ流行らないよ」


 マルグリットが笑った。

 温かくて、少し切なそうな笑い方だった。


 ──嘘は流行らない。


 その言葉が、刺さった。


    *


 屋根から雫が落ちる音がした。

 雪解けの兆し。まだ微かだけれど、確実に春が近づいている。


 ルシアン様と並んで、春の市の計画を詰めていた。

 出品する商品の一覧、値付け、配置、接客の人員配置。

 同じ書類を覗き込みながら話しているうちに、自然と肩が近づいていた。


 ルシアン様がページをめくろうとした手が、わたしの手に触れた。


 ほんのわずかに──指先が。


 弾かれたようにルシアン様が手を引いた。

 わたしも顔を伏せた。


 一瞬の沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。


「……ここの数字を確認してくれ」


 ルシアン様の声が、ほんの少しだけ硬い。


「はい」


 わたしの声も、少し上ずっていた。


 それだけのことで、心臓がこんなに騒ぐ。


    *


 夕方。一人で丘に登った。


 雪が溶け始めていた。

 丘の斜面に黒い土が顔を覗かせている。

 白と黒がまだらになった風景。冬と春のあいだ。


 わたしもそうだ。

 古い痛みと、新しい感情のあいだにいる。


 怖い。また大切にされて、また失うことが。


 ──でも。


 この人の隣にいたいと思う自分を、嘘にはしたくない。

 嘘の上に人生を築いたアリアを知ったからこそ。

 自分の気持ちに嘘をつくことだけは、もうしない。


 夜。日記を開いた。


 長い間迷って、最後に一行だけ書いた。


『わたしは多分、ルシアン様のことが好きだ。これは嘘ではない』


 窓を見た。

 屋根の雪が溶け始めた家々から、煙が立ち昇っている。

 陶器を焼く煙と、夕食の煙。


 春は、もうすぐだ。

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