第7話 崩れた城と、積み上げた石垣
朝、工房で職人たちと打ち合わせをしていると、使用人が走ってきた。
「ノエラ様。王都からの馬車が一台、正門に到着しました」
手が止まった。
この時期に王都から馬車。街道は雪で閉ざされかけている。
よほどの理由がなければ、この季節に七日間の旅をする人はいない。
「どなたですか」
「セルヴァン公爵家の──エドワール様、とおっしゃっています」
心臓が一つ、大きく打った。
*
応接間の扉を開けた。
エドワール様が立ち上がった。
最初に目に入ったのは、頬のこけだった。
それから目の下の濃い隈。金色の髪は艶を失い、旅装は埃にまみれている。
王都の社交界で「花」と呼ばれた人の面影が、薄くなっていた。
「ノエラ……いや、グランヴェール嬢。突然の訪問を許してほしい」
声もかすれている。
「……お座りください」
向かい合った。
この人と向かい合うのは、指輪を返したあの日以来だ。
*
「王都で何が起きているか、君はもう知っていると思う」
「父から手紙を受け取りました。アリアの──診断書のこと」
「ああ」
エドワール様は目を伏せた。
「オリヴィエ先生の診断書が公になった後、社交界はひどいことになった。アリアの病弱を信じて同情していた人たちが、騙されたと怒っている。僕の家も──アリアとの婚約を前提に多くの政治的判断をしてきた。公爵家の信用が揺らいでいる」
「父は……アリアとの婚約破棄を検討し始めている」
嘘とともに、すべてが崩れていく。
「僕は──アリアの嘘に気づけなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない。目の前で泣いている子を疑うことが、僕にはできなかった」
知っている。
この人はそういう人だ。
その優しさが、わたしとの約束を何度も壊した。
「僕のせいで、君の三年間を──」
「エドワール様」
遮った。
この先を言わせたら、わたしの方が耐えられなくなる。
「あなたが悪意で動いていたのではないことは、わかっています」
エドワール様の目がわずかに潤んだ。
そして──核心に触れた。
「ノエラ。僕は……やり直せないだろうか」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、心が揺れた。
三年前のエドワール様が頭をよぎる。
笑顔で指輪を嵌めてくれた日。
「僕は君を誰よりも大切にする」と言ってくれた日。
──でも。
ゆっくりと首を横に振った。
「あなたの謝罪はお受けします。けれど──やり直すことはできません」
「どうして」
「わたしはもう、あの頃のわたしではないからです」
声が少し震えた。でも止めない。
「あなたの隣で、約束が破られるのを待つ人間には、二度と戻れません」
三年間の重みが、言葉に乗っている。
「そして──戻りたいとも思わないんです」
長い沈黙。
「……君は強くなったんだな」
「強くなったのではなく、自分の足で立つことにしただけです」
*
正門まで見送った。
馬車に乗り込む前に、エドワール様がわたしに向き直った。
「ノエラ。君がここで──幸せであることを祈っている」
「……ありがとうございます」
それがわたしたちの最後の会話になった。
馬車が動き出す直前──正門の柱の横に、ルシアン様が立っているのが見えた。
いつからそこにいたのだろう。
無表情のまま、腕を組んで壁に背を預けている。
エドワール様がルシアン様に気づいた。
馬車を止め、窓から顔を出す。
「彼女を──頼む」
ルシアン様は表情を変えなかった。
「……頼まれるまでもない」
エドワール様が、苦笑した。
初めて見る、力の抜けた笑い方だった。
馬車が走り去った。
雪煙を上げて、白い道の向こうに消えていった。
*
数日間、心が落ち着かなかった。
仕事はした。帳簿は開いた。打ち合わせもした。
けれど夜、目を閉じると、あの憔悴した顔がちらついた。
過去と決別したはずだ。
なのに──なぜこんなに落ち着かないのだろう。
三年間という時間は簡単には消えない。
古い傷口が、別れの言葉で一度開いて、また閉じていく。
その途中にいる。
ある夕方。
「少し歩かないか」
振り返ると、ルシアン様がいた。
外套を二着持っている。
ルシアン様がわたしを散歩に誘う。
一度もなかったことだ。
「……はい」
*
領都の外れにある丘を、二人で登った。
雪を踏む音だけが、薄暮の中に響く。
丘の上に立つと、領都が一望できた。
家々の窓に灯りが点り始めている。工房の煙突からまだ細い煙が上がっている。
半年前に初めてこの領地を見たときとは違う景色だった。
まだ貧しい。まだ寂しい。
けれど、灯りの数が増えている。
「俺は」
ルシアン様が口を開いた。珍しく、自分から。
「五年間、一人でこの領地を守ってきた。それが正しいと思っていた。一人でやるしかないと」
白い息が夕暮れの空に立ち昇る。
「だがお前が来てから──一人で守ることと、誰かと一緒に守ることは、違うと知った」
言葉を探すように間が空いた。
この人は自分の感情を言葉にすることに慣れていない。
「……だから、礼を言う」
わたしの方を向いた。灰青の瞳が夕暮れの残光を映している。
「ここにいてくれて、助かる」
目が熱くなった。
悲しみではない。エドワール様と別れた痛みでもない。
「こちらこそ」
声が震えた。でも構わない。
「ここに来てよかったと、心から思っています」
*
丘を降りながら、考えた。
エドワール様が築いた城は──嘘とともに崩れた。
きらびやかで、誰もが羨む城。
けれどその土台は、アリアの嘘という砂の上にあった。
わたしがこの辺境で積み上げてきたものは、城ではない。
石垣だ。
一つずつ手で運んで、泥だらけになりながら積んだ石垣。
城ほど美しくはない。
けれど──嘘のない地面の上に立っている。
崩れない。
そう思えることが、今のわたしの全てだった。




