第6話 嘘が綻び始める日
辺境は本格的な冬に入っていた。
窓の外は一面の白。屋根にも道にも木の枝にも、分厚く雪が積もっている。
陶器の生産は順調だった。
工房の煙突から毎日煙が上がり、白い器が一つ、また一つと棚に並んでいく。
春の市に間に合う──そう思えるだけの数が、形になりつつあった。
*
父の手紙が届いた。二通目。
封蝋を見た瞬間に、異変を感じた。
蝋の押し方が乱れている。
父は几帳面な人だ。封蝋をまっすぐに押せないほど動揺することなど、わたしの記憶にはない。
嫌な予感がした。
部屋に戻り、封を切った。
挨拶もなく本題に入っていた。
『ノエラ。落ち着いて読んでほしい』
『アリアの度重なる公務キャンセルを問題視した王家が、王宮筆頭医師オリヴィエ・ドゥノワによる正式な定期検診を命じた』
『その結果が、王都を揺るがしている』
指先が冷たくなった。
『診断書にはこう記されていた。「アリア・グランヴェールの身体に、慢性疾患を示す所見は一切認められない。心肺機能、血液の状態、臓器の状態、全て健康体と判断する。過去の『病弱』とされた記録との間に、医学的に説明困難な乖離がある」』
もう一度読んだ。三度読んだ。
慢性疾患の所見なし。
全て健康体。
過去の記録と説明困難な乖離。
つまり。
──アリアの「病弱」は、嘘だった。
手紙が、膝の上に落ちた。
*
父の言葉が続いていた。
『アリアは……六歳の高熱以降、本当は健康だったのかもしれない。私はあの子の言葉を疑わなかった。お前に我慢を強いてまで、あの子を守ったつもりでいた』
『守っていたのは──あの子の嘘だった』
父の字が震えていた。几帳面な父の字が。
長い間、動けなかった。
驚きよりも先に来たのは、奇妙な感覚だった。
──やはり。
心のどこかで、ずっと感じていた違和感。
アリアの「発作」は、いつもわたしにとって大事な時に起きた。
誕生日の直前。舞踏会の直前。エドワール様との約束の直前。
そのタイミングの一致を、わたしは「偶然」と呼んで蓋をしてきた。
疑えば、姉として失格だと思ったから。
──嘘だった。
怒りが来た。
じわりと。腹の底から。
三年間。いや、もっと前からかもしれない。
母が亡くなった後の十数年。
わたしの人生は、アリアの嘘に削り取られていた。
誕生日。舞踏会。婚約者。父の関心。
全ては「アリアは体が弱いから」という言葉に吸い込まれた。
わたしが我慢し、わたしが譲り、わたしが黙った分だけ、アリアの嘘は太っていった。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
*
窓の外を見た。
雪。白く、静かな雪。
王都に戻ることはできる。
街道は冬で閉ざされかけているけれど、まだ完全には塞がっていない。
王都に乗り込んで、アリアの前に立って、全てを問い詰めることはできる。
──でも、それは。
ようやく見つけた「自分の人生」を、再びアリアのために中断するということだ。
三年間と同じ。
アリアが泣けば、わたしが止まる。
もう、そうはならない。
便箋を取り出した。何度も書き直した。
怒りをそのまま書きたかった。けれど怒りの手紙を送っても何も変わらない。
『お父様。事実を知り、胸が苦しいです。けれどわたしは今、ここでやるべきことがあります。アリアのことは、お父様とアリア自身が向き合うべきだと思います。わたしは、わたしの場所で、わたしの仕事を続けます』
書き終えて、ペンを置いた。
涙がこぼれた。
今度は誤魔化さなかった。
「寒さが目に沁みて」とは言わなかった。
声を殺して、けれど止めずに泣いた。
怒りの涙。悲しみの涙。
そして──十五年分の「やっぱり」を、やっと認めた涙だった。
*
仕事に没頭した。
陶器の品質管理、白粉の試作、在庫の記録、マルグリットとの販路の打ち合わせ。
手を動かしている間は、考えずに済む。
けれど夜になると浮かんでくる。
六歳のアリア。高熱で寝込んで、小さな手が震えていた。
わたしはその手を握って言った。
「お姉ちゃんがいるから大丈夫だよ」
あの時の病は本物だった。あの時の恐怖も本物だったはずだ。
では──いつから嘘になったのだろう。
答えは出ない。答えを出せるのは、アリア自身だけだ。
マルグリットが報告に来た。
「春の市に出す分の目処がついたよ。陶器が四十個、白粉が二十箱。まだ少ないけど、初回としては十分だ」
「ありがとう、マルグリット」
自然に名前を呼んでいた。いつからそうなったのか、自分でもわからない。
マルグリットはにっと笑って、それから少し真面目な顔になった。
「あんた、ここに来た時より顔色がいいよ。──いや、最近ちょっと曇ってたけど、今日はましだね」
「少し……家のことで」
「そうかい。まあ、話したくなったらいつでも聞くよ」
それ以上は聞かなかった。
その距離感が、ありがたかった。
*
ある夕方。
執務室で帳簿を広げていると、扉が開いた。
ルシアン様だった。
いつもなら用件だけを手短に済ませる人が、何も言わずに暖炉の前に立った。
「最近、表情が硬い」
こちらを見ずに言った。暖炉の火を見つめたまま。
「何かあったか」
驚いた。
この人がわたしの表情の変化に気づいているとは思わなかった。
「……家から少し、難しい知らせがありました」
それだけ答えた。
ルシアン様はそれ以上聞かなかった。
「そうか」
一言だけ。
暖炉の前に椅子を引き、座った。
書類を取り出して読み始める。わたしも帳簿に戻る。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが部屋に響いていた。
何も聞かない。何も言わない。
ただ、同じ部屋にいる。
その沈黙が、何よりの慰めだった。
*
その夜。日記を開いた。
『妹の嘘がばれた。わたしの三年間は嘘の上に築かれていた。怒りはある。悲しみもある。けれど、わたしは今日も陶器を焼いた。明日も焼く。それがわたしの答えだ』
窓の外では雪が降り続いている。音もなく、静かに。
春はまだ遠い。
でも──必ず来る。




