第5話 王都に届く噂、辺境に届く風
王都から手紙が届いた。
封蝋にグランヴェール家の紋章。父からだ。
部屋に戻って封を切った。
内容は二つ。
一つ目──婚約破棄の正式手続きが完了した、と。
エドワール家との交渉は円満に処理できた。お前はもう何も心配しなくていい。
手紙を持つ指が、わずかに力を込めた。
完了した。三年間の婚約が、紙の上でも終わった。
不思議と感慨は薄い。
指輪を返したあの日に、わたしの中では終わっていた。
二つ目。
『社交界で気になる噂が立っている。エドワールと正式に婚約したアリアが、体調不良を理由に公務を次々とキャンセルしている。公爵家の行事にも顔を出さないらしい』
父の筆致が、ここから少し乱れていた。
『アリアの体のことが案じられる。だが、お前はお前の仕事に集中しなさい』
手紙を膝の上に置いた。
心配する気持ちは消えていなかった。
三年間、何度も約束を壊した理由がアリアだったとしても、妹は妹だ。
でも同時に、あの言葉が蘇る。
──アリアが心配だから。
その一言で、誕生日が消え、舞踏会が消え、婚約者が消えた。
「心配」という言葉が、わたしの人生を削る刃物だった時代があった。
今のわたしには、ここでやるべきことがある。
それを止める理由にはしない。
*
マルグリットが交易先から戻ってきた。
「ノエラ、ちょっといい話があるんだよ」
荷車の荷解きをしながら言う。
「王都の商人たちの間で噂になってるよ。『ブランシュ辺境伯領に有能な侯爵令嬢が来て、面白いことを始めているらしい』って」
「面白いこと?」
「あんたが送った粘土のサンプル、鑑定商が品質に驚いたらしくてさ。あちこちで話してるみたいだよ」
鑑定結果はまだ届いていない。噂だけが先に走っている。
「まあ、注目されるのは悪いことじゃないよ。商売ってのは、まず名前を知ってもらうところから始まるんだから」
二十年の商売人の言葉は重かった。
*
鑑定結果を待つ間、領地経営の基盤固めを続けた。
冬の食料備蓄の最適化。薪の配給計画の見直し。領民台帳の整理。
帳簿に向かい、数字を整え、書類を作り直す。地味な仕事。けれど、この仕事が領地を支えている。
ある夜。
帳簿の確認が長引き、執務室の灯りを落とせずにいた。
暖炉の火が弱くなってきたのも気づかないまま数字を追っていると、扉が開いた。
ルシアン様だった。
手に湯気の立つカップを持っている。
無言でわたしの机の横にカップを置いた。
温かい茶の香りが広がる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
ルシアン様はわたしの目を見て、短く言った。
「助かる」
その二文字が、冷えた体に沁みた。
暖炉の火より温かかった。
*
待っていた鑑定結果が届いた。
封を切る手が、少しだけ震えた。
『ブランシュ・クレイの品質について。鑑定の結果、本素材は極めて高品質であり、王都の高級陶器に匹敵すると判断いたします。加えて、粒子の細かさから化粧用の白粉としても利用可能であり、貴族向けの高級品として高値での取引が見込まれます』
読み終えて、長い息を吐いた。
ルシアン様とマルグリットを集め、結果を報告した。
マルグリットが椅子から身を乗り出す。
「やったじゃないか! あたしの勘は当たったよ!」
ルシアン様は鑑定書を最後まで読み、顔を上げた。
「……次の手順は」
わたしを見ている。
「任せる」と言わなくても、その視線が言っていた。
「第二段階に入ります。本格的な試作と、王都への販路開拓です」
声が、自分でも驚くほどはっきり出た。
*
「一つだけ」と言っていた老職人に、鑑定書を見せた。
「……ふん。南方の産地に匹敵、か」
それ以上何も言わなかったが、翌日から窯の火を絶やさなくなった。
同時に、マルグリットの交易ルートを使った販路開拓を計画した。
けれど大きな問題がある。
「冬の間は雪で街道が閉ざされるんだよ。大量輸送はできない」
マルグリットが地図を指差す。
「春の雪解け後、最初の大きな市が開かれる。そこに間に合わせるしかないね」
春の市。
それまでに商品を揃え、品質を安定させ、値付けを決めなければならない。
領民を集めて計画の説明会を開いた。
広場に三十人ほど。職人、農民、猟師。
「あの白い泥で商売になるって?」
「またよそ者の夢物語だろう」
冷ややかな声が飛んだ。当然だ。
銀鉱の枯渇で一度夢を失った人たちだ。簡単に信じろという方が無理がある。
わたしは試作の白い陶器を台に置き、鑑定書を広げた。
「これがこの土地の粘土で作った陶器です。そしてこれが、王都の鑑定商による評価です」
陶器の白さに、ざわめきが起きた。
老職人が腕を組んだまま口を開いた。
「……手伝ってやってもいい」
若い職人が一人、続いた。もう一人。さらにもう一人。
全員ではない。まだ半信半疑の顔も多い。
けれど──芽が出た。
*
その日の夕方。
ルシアン様が広場を見回していた。
打ち合わせをする職人たち。資材を運ぶ若者。
数週間前には見られなかった光景。
ルシアン様の口元が、わずかに動いた。
笑顔とは呼べないほど微かな変化。
けれど──わたしにはわかった。
この人は、笑っている。
自分の領民が少しだけ前を向き始めたことに。
*
夜。窓の外の雪景色を見つめた。
王都では今頃、アリアが公務をキャンセルしている。
三年前のわたしなら、すぐに駆けつけていた。
手紙を書き、薬を贈り、「大丈夫?」と聞いていた。
今のわたしには、ここで守るべきものがある。
それは冷たさではない。ようやく自分の場所を見つけ始めたということだ。
窓ガラスに雪の結晶が一つ、張りついていた。
小さくて、精巧で、すぐに溶けてしまうもの。
今のわたしたちの取り組みも、まだそれくらい脆い。
でも──溶ける前に形にする。
春の市まで、あと二ヶ月と少し。




