第3話 辺境には約束を守る人がいた
七日間、馬車に揺られた。
紅葉の森が枯れ野になり、枯れ野が荒野になり、荒野に雪が混じり始めた。
五日目には馬車の幌に白いものが積もるようになった。
そして七日目。
灰色の空から、細かい雪が舞っていた。
馬車の窓から覗くと、石造りの門が見えた。
門柱には「ブランシュ辺境伯領」と刻まれている。
これがわたしの行き先。
門をくぐった先の領都は、想像以上に寂れていた。
石造りの建物はあちこちで壁が崩れかけ、市場の通りは半分以上の店が板を打ち付けて閉まっている。
すれ違う人はまばらで、こちらを見る目はどこか暗い。
──数字で見るのと、実際に見るのでは違う。
胸の奥がきゅっと締まった。
でも同時に思った。
ここには、やるべきことがある。
*
領主の館は領都の奥にあった。
大きいが、華やかさはない。石壁は頑丈そうだが、装飾はほとんどなかった。
馬車から降りると、館の入口に一人の男性が立っていた。
銀灰色の髪。灰青の瞳。
背は高く、痩身。
表情は──ない。石のように動かない顔だった。
「ルシアン・ブランシュだ。遠路ご苦労だった」
それだけ。
社交辞令もない。世間話もない。
言い終わるなり踵を返し、「執務室へ」と短く言った。
面食らった。
王都の貴族なら、まず天気の話をして、旅の疲れを労い、茶を勧めるところだ。
この人にはそういうものが一切ない。
でも、嫌ではなかった。
虚飾がないだけだと、なぜかそう感じた。
*
執務室は質素だった。
大きな机と椅子、書棚、暖炉。それだけ。
ルシアン様はわたしを椅子に座らせると、領地の現状を語り始めた。
言葉は少ない。けれど正確だった。
銀鉱の枯渇。代替産業の不在。税収の激減。
若い労働力の流出。残った領民は農業と狩猟で食いつないでいる。
「五年間、課税は増やしていない。俺の生活費を削って領地運営に充てている」
淡々とした声だった。
自慢でも愚痴でもない。事実だけを並べている。
「帳簿を見せていただけますか」
「ああ」
棚から帳簿の束を引き出し、無言でわたしの前に置いた。
ページを開く。
几帳面な字だった。数字は正確で、記録に漏れはない。
ただ、経営の知識が足りていない箇所が随所に見える。
支出の分類が粗い。在庫管理が非効率的。交易の原価計算に抜けがある。
──ここなら、わたしにできることがある。
確信が、静かに胸に灯った。
*
翌日。
「まず、領地全体を見て回りたいんです。明日の朝、案内をお願いできますか」
「……朝の第三鐘に、正門前で」
第三鐘。午前九時。
期待はしなかった。
期待することに、三年間で懲りている。
約束は破られるもの。言葉は消えるもの。
わたしの体は、そう覚えてしまっていた。
翌朝。
第三鐘の五分前に正門へ行った。
もし来なかったら、一人で歩こうと思っていた。
ルシアン様は、もうそこに立っていた。
馬が二頭、用意されていた。
手に防寒用の外套を余分に一着持っている。
「雪が強くなる。これを」
差し出された外套を受け取った。
厚手の毛織物。温かい。
胸の奥が、小さく軋んだ。
約束の時間に、人が立っている。
ただそれだけのこと。
たったそれだけのことが──三年間、一度も起きなかったこと。
*
二人で馬を並べて領地を回った。
ルシアン様は寡黙だった。自分からは話さない。
けれどわたしが質問すると必ず答えた。
正確に。簡潔に。曖昧なところは「わからない。調べる」と正直に言った。
領民と顔を合わせれば短く言葉を交わす。
困りごとを聞けば「わかった」と言い、必ずその場で手帳にメモを取った。
その手帳は擦り切れていた。何年も使い込んだ跡が見える。
数日かけて視察を続け、改善案をまとめた。
「提案の時間をいただけますか」
「第七鐘に、執務室で」
第七鐘。午後五時。
──本当に来るだろうか。
第七鐘きっかりに扉を開けた。
ルシアン様は机の前に座っていた。
書類を読んでいた手を止め、わたしの方を向く。
「座れ」
座った。
帳簿の改善案を三つ、書類にまとめて提示した。
ルシアン様は最後まで黙って聞いた。
話し終えると、順番に答えた。
「一つ目。やる」
「二つ目。検討する。明日、返事をする」
「三つ目。理由を聞きたい」
三つ目の理由を説明した。
頷いて、「わかった。二つ目と合わせて明日、返事を出す」と言った。
*
翌日。
第七鐘に執務室へ行った。
ルシアン様が待っていた。
「検討した。二つ目は採用する。ただし条件を一つ変えたい」
変更点を聞いた。理にかなっていた。
三つ目についても「採用する。お前の説明で納得した」と続けた。
言った通りの返事を、言った通りの時間に。
帳簿を抱えたまま、視界が滲んだ。
──だめだ。
目を擦った。止まらない。
「……どうした」
ルシアン様の無表情に、わずかに眉が寄っている。
「すみません。少し、寒さが目に沁みて」
嘘をついた。
寒さのせいではないことくらい、自分が一番わかっている。
部屋に戻ってから、手帳を開いた。
母の押し花の栞に触れる。
──それだけのことが、どうしてこんなに胸を打つのだろう。
答えは簡単だった。
約束を守ってもらえるということは、「あなたの時間には価値がある」と言われているのと同じだ。
三年間、わたしの時間に価値はないと言われ続けた。
誕生日が消え、舞踏会が消え、約束が消えた。
わたしの時間は、いつもアリアのために差し出されるものだった。
ここでは違う。
ルシアン様は、わたしの時間を軽んじない。
それだけのことが、こんなにも──。
窓の外で雪が本格的に降り始めていた。
冷たい場所のはずなのに、今夜は不思議と寒くない。
手帳の空白ページに、明日からの行動計画を書き込んだ。
ペンを走らせる手は、王都を出た日よりも少しだけ力強くなっていた。
──ところで。
帳簿を精査しているとき、気になる記録を見つけていた。
銀鉱の採掘記録の端に、小さく書かれた一行。
『副産物:白色粘土。廃棄』
銀が主役だった時代には、価値がないとされたもの。
けれどわたしは、侯爵家で学んだ知識の中に似たものを知っている。
雪の下に──何か眠っているかもしれない。




