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病弱な妹に婚約者も誕生日も全部奪われた姉ですが、三年間の嘘がバレた日に辺境で本当の人生が始まりました  作者: 月代


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第2話 手放したものと、手に残ったもの


 翌朝。


 目が覚めて最初にしたのは、左手を見ることだった。

 薬指には何もない。白い線だけが残っている。

 昨日のことは夢ではなかった。


 顔を洗い、髪を編む。

 鏡の中のわたしは、少しだけ目元が腫れていた。

 一滴だけと思った涙は、眠る前にもう少し増えていたらしい。


 部屋を出ると、使用人のヘレンが廊下に立っていた。


「お嬢様。旦那様がお呼びです。書斎へお越しくださいませ」


 ──来た。


 覚悟はしていた。

 婚約破棄を勝手にしたのだ。侯爵家の体面を傷つけた。

 父が怒るのは当然のこと。


 書斎の前で深呼吸をして、扉を叩いた。


「入りなさい」


 父の声。低く、落ち着いている。

 怒気は感じない。けれど油断はできない。

 父は怒るとき、むしろ静かになる人だ。


 書斎は薄暗かった。カーテンが半分閉じられている。

 父は窓際に立ち、背中をこちらに向けていた。


「指輪を返したそうだな」


「……はい」


 短く答えた。言い訳はしない。

 したことに後悔はないのだから。


 長い沈黙。

 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いている。


 父が振り返った。


 叱責を覚悟して顔を上げた。

 けれど、目に映ったのは予想とまるで違うものだった。


 父の目が、赤い。

 眉間に深い皺が刻まれている。

 怒りの顔ではなかった。


 ──痛みを堪えている顔だ。


「……すまなかった、ノエラ」


 頭が、真っ白になった。


「エドワール家との婚約を維持するために、お前が何度も約束を破られていたことは知っていた」


 知って──いた。


「侯爵家の体面を守るために、黙認していた」


 父の声が震えている。

 わたしは椅子に座ることも忘れて、立ち尽くしていた。


「昨夜、ヘレンから聞いた。お前が一人で誕生日の食卓についていたと」


 父が目を伏せた。


「あの話を聞いて、ようやく──私は自分がどれほどお前に甘えていたか、思い知った」


 声が出なかった。

 叱られると思っていた。怒鳴られると思っていた。

 まさか──謝られるとは。


    *


 父は机の上から一通の書簡を取り上げた。


「ノエラ。一つ、話がある」


 父の旧友に、ブランシュ辺境伯という人物がいた。

 五年前に流行病で亡くなり、息子が領地を継いだ。

 その息子──現辺境伯のルシアン・ブランシュから、父の元に相談が届いていた。


「銀鉱が枯渇し、領地の経済が衰退している。再建のための知恵を借りたい、と」


 父がわたしを見る。


「お前は侯爵令嬢として領地経営の教育を受けている。グランヴェール領の帳簿も、実質お前が回していた」


 書簡を差し出された。


「行ってみないか」


 命令ではなかった。提案だった。

 父がわたしに「提案」をするのは、初めてのことだった。


    *


「三日間、考えさせてください」


「……ああ。待っている」


 部屋に戻り、窓を開けた。

 秋の風が頬を撫でる。


 王都の方角を見つめた。

 エドワール様との思い出。アリアと手を繋いで歩いた幼い日。母が生きていた頃の食卓。


 このままここにいたら、どうなるだろう。

 社交界で「婚約を破棄された侯爵令嬢」として噂される。

 「お姉様なのだから我慢なさって」と言っていた人たちが、今度は「おかわいそうに」と言うだけ。


 耐えられる。耐えることには慣れている。


 ──けれど。


 昨夜の食卓を思い出す。

 一人きりのスープ。最後まで食べ切ったパン。


 あの夕食が教えてくれたことがある。


 「耐えること」と「生きること」は、違う。


 わたしは二十一年間、耐えてきた。

 でも──生きていただろうか。


    *


 翌日から三日間、書庫に籠もった。


 ブランシュ辺境伯領の資料は、父の書庫の奥に埃をかぶって眠っていた。


 王都から馬車で片道七日。北東の雪深い土地。

 主要産業の銀鉱が五年前に枯渇。税収は激減し、若い労働力は王都へ流出。

 残った領民は農業と狩猟で細々と暮らしている。


 数字だけを見れば、絶望的だった。

 けれど、数字の隙間に可能性が見えた。


 帳簿の管理方法を変えれば支出を二割削れる。交易路の見直しで流通コストも改善できる。

 何より──この領地にはまだ「人」がいる。

 人がいるなら、立て直せる。


 三日目の夕方。書庫を出て、父の書斎を訪ねた。


「行きます」


 父はしばらくわたしの顔を見つめてから、静かに頷いた。


「困ったら文を寄越せ。今度は──必ず読む」


 「今度は」という言葉に、父の後悔がにじんでいた。


「……はい」


 小さく微笑んだ。

 いつぶりだろう、父の前で笑ったのは。


「婚約破棄の正式な手続きは、私がエドワール家と調整する。お前はもう気にしなくていい」


 その言葉が、荷物を一つ降ろしてくれた気がした。


    *


 出発の朝。


 荷物は最小限にした。

 着替えと筆記具、帳簿用の道具。

 それから──母の形見。


 押し花の栞。

 薄い花弁がそのまま閉じ込められている。母がわたしに最後にくれたもの。

 色はもう褪せかけているけれど、形はそのまま残っている。

 手帳の最初のページに挟んだ。


 馬車の前で、使用人頭のヘレンが待っていた。


「お嬢様。──アリアお嬢様には、お伝えしなくてよろしいので?」


 足が止まった。


 アリア。病弱な妹。

 わたしの三年間を奪った理由。

 ──けれど、それでもわたしの妹。


「……妹には、わたしから手紙を書きます」


 書くかどうかは、まだ決めていない。

 けれどそう答えるのが、今のわたしにできる精一杯だった。


 ヘレンは小さく頭を下げた。

 その目元が、また少しだけ赤くなっていた。


    *


 馬車が走り出す。

 紅葉のグランヴェール領が流れていく。


 やがて紅葉は途切れ、木々が痩せ始めた。

 景色は少しずつ、寒々とした荒野に変わっていく。


 左手を見た。

 指輪の跡はまだ消えていない。


 わたしに残ったものは何だろう。

 帳簿を読む力。数字を扱う頭。

 それから──耐えることで擦り減った心。


 多くはない。

 でも、ゼロでもない。


 冷たい秋風が、幌の隙間から吹き込んでくる。


 自分の足で行き先を選んだ。

 たったそれだけのことが、この冷たい風の中で確かに温かい。


 七日間の旅路の先に何が待っているのかはわからない。

 ルシアン・ブランシュという人がどんな人なのかもわからない。


 でも──「待つ」のではなく「行く」のだと思うと、不思議なほど怖くなかった。

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