第2話 手放したものと、手に残ったもの
翌朝。
目が覚めて最初にしたのは、左手を見ることだった。
薬指には何もない。白い線だけが残っている。
昨日のことは夢ではなかった。
顔を洗い、髪を編む。
鏡の中のわたしは、少しだけ目元が腫れていた。
一滴だけと思った涙は、眠る前にもう少し増えていたらしい。
部屋を出ると、使用人のヘレンが廊下に立っていた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです。書斎へお越しくださいませ」
──来た。
覚悟はしていた。
婚約破棄を勝手にしたのだ。侯爵家の体面を傷つけた。
父が怒るのは当然のこと。
書斎の前で深呼吸をして、扉を叩いた。
「入りなさい」
父の声。低く、落ち着いている。
怒気は感じない。けれど油断はできない。
父は怒るとき、むしろ静かになる人だ。
書斎は薄暗かった。カーテンが半分閉じられている。
父は窓際に立ち、背中をこちらに向けていた。
「指輪を返したそうだな」
「……はい」
短く答えた。言い訳はしない。
したことに後悔はないのだから。
長い沈黙。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に響いている。
父が振り返った。
叱責を覚悟して顔を上げた。
けれど、目に映ったのは予想とまるで違うものだった。
父の目が、赤い。
眉間に深い皺が刻まれている。
怒りの顔ではなかった。
──痛みを堪えている顔だ。
「……すまなかった、ノエラ」
頭が、真っ白になった。
「エドワール家との婚約を維持するために、お前が何度も約束を破られていたことは知っていた」
知って──いた。
「侯爵家の体面を守るために、黙認していた」
父の声が震えている。
わたしは椅子に座ることも忘れて、立ち尽くしていた。
「昨夜、ヘレンから聞いた。お前が一人で誕生日の食卓についていたと」
父が目を伏せた。
「あの話を聞いて、ようやく──私は自分がどれほどお前に甘えていたか、思い知った」
声が出なかった。
叱られると思っていた。怒鳴られると思っていた。
まさか──謝られるとは。
*
父は机の上から一通の書簡を取り上げた。
「ノエラ。一つ、話がある」
父の旧友に、ブランシュ辺境伯という人物がいた。
五年前に流行病で亡くなり、息子が領地を継いだ。
その息子──現辺境伯のルシアン・ブランシュから、父の元に相談が届いていた。
「銀鉱が枯渇し、領地の経済が衰退している。再建のための知恵を借りたい、と」
父がわたしを見る。
「お前は侯爵令嬢として領地経営の教育を受けている。グランヴェール領の帳簿も、実質お前が回していた」
書簡を差し出された。
「行ってみないか」
命令ではなかった。提案だった。
父がわたしに「提案」をするのは、初めてのことだった。
*
「三日間、考えさせてください」
「……ああ。待っている」
部屋に戻り、窓を開けた。
秋の風が頬を撫でる。
王都の方角を見つめた。
エドワール様との思い出。アリアと手を繋いで歩いた幼い日。母が生きていた頃の食卓。
このままここにいたら、どうなるだろう。
社交界で「婚約を破棄された侯爵令嬢」として噂される。
「お姉様なのだから我慢なさって」と言っていた人たちが、今度は「おかわいそうに」と言うだけ。
耐えられる。耐えることには慣れている。
──けれど。
昨夜の食卓を思い出す。
一人きりのスープ。最後まで食べ切ったパン。
あの夕食が教えてくれたことがある。
「耐えること」と「生きること」は、違う。
わたしは二十一年間、耐えてきた。
でも──生きていただろうか。
*
翌日から三日間、書庫に籠もった。
ブランシュ辺境伯領の資料は、父の書庫の奥に埃をかぶって眠っていた。
王都から馬車で片道七日。北東の雪深い土地。
主要産業の銀鉱が五年前に枯渇。税収は激減し、若い労働力は王都へ流出。
残った領民は農業と狩猟で細々と暮らしている。
数字だけを見れば、絶望的だった。
けれど、数字の隙間に可能性が見えた。
帳簿の管理方法を変えれば支出を二割削れる。交易路の見直しで流通コストも改善できる。
何より──この領地にはまだ「人」がいる。
人がいるなら、立て直せる。
三日目の夕方。書庫を出て、父の書斎を訪ねた。
「行きます」
父はしばらくわたしの顔を見つめてから、静かに頷いた。
「困ったら文を寄越せ。今度は──必ず読む」
「今度は」という言葉に、父の後悔がにじんでいた。
「……はい」
小さく微笑んだ。
いつぶりだろう、父の前で笑ったのは。
「婚約破棄の正式な手続きは、私がエドワール家と調整する。お前はもう気にしなくていい」
その言葉が、荷物を一つ降ろしてくれた気がした。
*
出発の朝。
荷物は最小限にした。
着替えと筆記具、帳簿用の道具。
それから──母の形見。
押し花の栞。
薄い花弁がそのまま閉じ込められている。母がわたしに最後にくれたもの。
色はもう褪せかけているけれど、形はそのまま残っている。
手帳の最初のページに挟んだ。
馬車の前で、使用人頭のヘレンが待っていた。
「お嬢様。──アリアお嬢様には、お伝えしなくてよろしいので?」
足が止まった。
アリア。病弱な妹。
わたしの三年間を奪った理由。
──けれど、それでもわたしの妹。
「……妹には、わたしから手紙を書きます」
書くかどうかは、まだ決めていない。
けれどそう答えるのが、今のわたしにできる精一杯だった。
ヘレンは小さく頭を下げた。
その目元が、また少しだけ赤くなっていた。
*
馬車が走り出す。
紅葉のグランヴェール領が流れていく。
やがて紅葉は途切れ、木々が痩せ始めた。
景色は少しずつ、寒々とした荒野に変わっていく。
左手を見た。
指輪の跡はまだ消えていない。
わたしに残ったものは何だろう。
帳簿を読む力。数字を扱う頭。
それから──耐えることで擦り減った心。
多くはない。
でも、ゼロでもない。
冷たい秋風が、幌の隙間から吹き込んでくる。
自分の足で行き先を選んだ。
たったそれだけのことが、この冷たい風の中で確かに温かい。
七日間の旅路の先に何が待っているのかはわからない。
ルシアン・ブランシュという人がどんな人なのかもわからない。
でも──「待つ」のではなく「行く」のだと思うと、不思議なほど怖くなかった。




