第1話 三年間、約束は一度も守られなかった
今日こそは──。
そう思うのも、三年目だった。
朝の光が、左手の薬指を照らしている。
銀の指輪。内側には「永遠の約束」と刻まれている。
三年前、エドワール様がわたしの左手にこれを嵌めてくれた日のことを、今でも覚えている。
「僕は君を、誰よりも大切にする」
そう言って、笑っていた。
今日はわたしの二十一歳の誕生日。
新しいドレスを用意した。淡い青色の、少しだけ背伸びした一着。
鏡の前で袖を直す。悪くない、と思う。
今日こそはエドワール様が来てくれる。
今日こそは一緒に過ごせる。
今日こそは、この指輪が嘘ではなかったと信じられる。
──また来ないかもしれない。
胸の奥で、影のように冷たいものが横たわっていた。
*
一年目の誕生日。
朝から焼き菓子を用意し、庭のテラスに花を飾った。
届いたのは使者だけだった。
「アリア様が倒れました。エドワール様は急ぎ向かわれました」
──妹のことだから、仕方ない。
焼き菓子を一人で食べた。
二年目の誕生日。
舞踏会に一緒に行く約束をした。ドレスも髪飾りも新調した。
出発の直前、アリアが胸を押さえて「苦しい」と訴えた。
エドワール様は、わたしの顔も見ずにアリアの元へ走った。
一人で会場に行った。
誰にも声をかけられず、壁際に立ち、一曲も踊らなかった。
帰りの馬車で泣いた。誰にも見られていないことを確かめてから。
春の花見は「寒気がする」で消えた。
夏の夜会は「めまいがする」で消えた。
秋の収穫祭は「熱がある」で消えた。
全部同じだった。
アリアが倒れ、エドワール様がそちらへ行き、わたしの約束が消える。
「どうしていつもアリアなんですか」
一度だけ、尋ねたことがある。
返ってきたのは周囲の声だった。
「アリア様は体が弱いのですから」
「お姉様なのだから我慢なさって」
いつしか、怒ることもやめた。
怒ってもどうにもならないのだと、体が覚えてしまった。
*
三年目の今日。昼過ぎ。
玄関の扉が開く音がして、わたしは思わず立ち上がった。
居間の入口に、エドワール様が立っている。
金色の髪、碧い目。変わらず美しい人。
一瞬だけ、胸が跳ねた。
来てくれた、と。
けれど──眉尻が下がっている。目が泳いでいる。
三年間で何度も見た、あの顔だった。
「ノエラ。その……アリアがまた倒れて──」
ああ。やっぱり。
「本当にすまない。来週、必ず埋め合わせを──」
声が遠くなる。
わたしの中で、何かが折れた。
ぱきん、と乾いた音がした気がする。
怒りではなかった。
怒りなら、とうに燃え尽きている。
三年分の薪は、もう灰になっていた。
残ったのは、凪いだ水面のような静けさだけ。
左手を見た。
三年間、外さなかった指輪。
ゆっくりと、薬指から抜いた。
思ったよりも簡単に抜けた。
「もう、大丈夫です」
エドワール様が目を丸くする。
「え──?」
その掌を取り、指輪を載せた。
銀の輪が、大きな手の上で小さく光る。
「三年間、ありがとうございました」
声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
「どうか、アリアをお幸せに」
「待ってくれ、ノエラ。僕は──」
一歩踏み出すエドワール様から、一歩退いた。
「約束を守れない方に、これ以上約束を求めるのは」
最後くらい、きちんと言おう。
「わたしにも、あなたにも、不誠実です」
エドワール様の口が開いたまま止まった。
眉間に皺が寄り、唇が震えている。
でも、わたしはもう待たない。
三年間、待ちすぎた。
しばらくそこに立っていたエドワール様は、やがて指輪を握りしめたまま踵を返した。
玄関の扉が閉まる音だけが、静かな屋敷に響いた。
*
一人になった。
左手の薬指を見る。
三年間嵌め続けてできた白い線。
日に焼けなかった細い輪の跡が、くっきりと残っていた。
空っぽの指は、軽い。
軽いのに。
涙が一滴だけ、手の甲に落ちた。
──泣くな。
もう一滴、落ちた。
三年間泣かなかったのに。泣くには長すぎた三年だったのに。
拳を握った。歯を食いしばった。
それ以上は、落ちなかった。
*
「お嬢様。お誕生日のお食事のご用意ができております」
使用人のヘレンが、いつもと変わらない声で告げた。
目が少し赤いのは、気づいていたのだろう。
でも何も言わなかった。ヘレンはいつもそうだ。
「……いただきます」
食卓に着く。一人分の席。
温かいスープ、焼きたてのパン、それから小さなケーキ。
いつもなら、この席にはエドワール様が座るはずだった。
一年目も、二年目も、その席は空のままだった。
三年目の今日も、空席。
けれど──今日は少しだけ違う。
今日の空席は「待っている」空席ではない。
わたしが自分で、あの椅子を空けたのだ。
スープを口に運ぶ。温かい。
パンをちぎる。柔らかい。
一口ずつ、ゆっくり食べた。
途中で席を立つ必要はない。誰かの使者が来ることもない。
「アリアが倒れた」と告げる声も聞こえない。
三年ぶりに、最後まで食べ切った。
*
自室に戻り、日記を開いた。
ペンを持つ手が、まだ少しだけ震えている。
一行だけ書いた。
『今日、わたしの三年間が終わった。明日から何が始まるのかは、まだわからない』
ペンを置く。
窓の外では、紅葉が一枚、風に舞って落ちた。
明日、父の書斎から呼び出しが来るだろう。
婚約破棄をしたのだ。叱られるに決まっている。
──でも、いい。
何を言われても、あの指輪を戻す気はない。
三年分の空席を、もう一つ増やすつもりはない。
窓を閉めた。
明日のことは、明日考える。
今日はただ──三年ぶりに、誰のためでもない夜を過ごす。




